低空飛行 | ナノ



低空飛行
09






 大野さんに腕を引かれ、流水に手を差し出すとその冷たさが心地よかった。溢れる血がにじみ出てはすぐに水に消えていく。


「知り合い?」

「父親、みたいです」

 大野さんの動きが、一瞬止まった。


「みたいです、って…」

「だって俺、父親の顔覚えてないから。気がついたら居なかったし」

「じゃぁ、違うかもしれないじゃないか」

 小さく首を振ると、大野さんが俺を見つめた。


「俺の、痣…。二の腕の内側にシミみたいに広がる痣があって。5センチくらいなんだけど、いつか消えるって教えてもらってた記憶があるけど、消えなくて…。…あの男、左の二の腕に痣あるか、って、」


 子供が覚えている記憶の父親よりも、父親が覚えていた子供の記憶は鮮明だろう。こんなに伸びきった髪だって、その面影を記憶から呼び起こすのに何の障害にもならなかったのだ。

 大野さんは流水を止めるとタオルで俺の手を拭き取った。

「そう」

 丁寧に。少し滲み出す血も何度もタオルを当ててくれて、量が減った所で消毒液をかけてくれた。その液が沁みたけど、そんな痛みよりも。

「俺、どうしたらいいのかわからなかった」

 喜びも、悲しみも、憎しみも、その瞬間には湧かなくて。ただ割れたグラスと、黒い靴は俺から殺意を誘い出した。その殺意の矛先は、自分自身に、目の前の男に。

 それは本当に一瞬の出来事だった。今はもうそんな考えは綺麗に消え失せていたけど、混乱した俺はいつだって傍に死があるのだと思うと、なんだか自分が馬鹿馬鹿しくもあった。

 米田を糧にして生きていけるんだと、俺は“思い込んで”いたんだ。そんなのは、簡単に崩す事ができたんだ。



「少しは落ち着いた?傷、そんなに深くなくて良かったよ」

 大きな絆創膏に少し滲んだ血。店に立つからと大野さんはその上から見えないように包帯を巻いてくれた。

「たまたまこの店に来たんだろうな、俺も見かけない顔だったし。店に出にくいなら少し休んでな。俺が代わりに働くから、ちゃんと落ち着いてから出ておいで?」

 大丈夫です、という言葉は自分の口から出なかった。まだ少し、混乱する頭。新たに記憶された父親の顔と声と、手。

 本当に、あれが自分の父親なのか、誰も知らない痣の存在を知っているだけでも確かだろうに、なんのリアリティも無くて。

 全部、夢だといいのに。








「お、復活か」

 のっそりとホールに出て、一番にあの男の座っていた席に視線を送った。すっかり客は退け、数えるほどしか居なかった。カウンターには大野さんの姿。

 水割りを飲んでいた大野さんが俺の姿を見つけ、そして俺のその視線にも気付いた。

「とっくに帰ったよ。特に何も言ってなかった」

「…そう」


「大丈夫か?」

 大野さんから粗方の話を聞いたのだろう富田さんが声を掛けてくれて、それに答えるように包帯の巻かれた手を上げて申し訳なく笑った。

「今後それなりの対応がいるか?」

「いいえ、気にしないでください」

 対応、というのはまたあの男が現れたときの対応だろう。そこまでしてもらうにはあまりにも個人的な家庭の問題だった。

「何かあったら言えよ?大野はいつだって暇してるんだから」

「ひでぇ、これでも立派な社会人だぞ」

 相変わらずな光景は暖かな家庭のそれに似ていて、すっかりその空気に慣れてしまった俺はこの二人の存在に感謝している。穏やかな気持ちでいれるのはいつも周りの人のおかげだった。






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