低空飛行 | ナノ



低空飛行
08






「………」

 どんな、反応をしたらいいのか、分からない。金縛りにあったように、身動き一つとれず、その男の目を見ていた。


「―…元気に、してるのか」


 何を、今更。
 本当にそんな事が聞きたいのか。
 何故そんなに普通に接する事が出来るんだ。


 あぁ―…、その程度、だからか。



「出て行って、もらえますか。この場の御代は俺が払いますんで」

 早く、消えてくれ。

 消えそうな声で、なんとかそれだけを紡いだ。早く消えて欲しい。姿なんて、見たくなかった。


 遠い記憶の大きな掌は、しっかりと俺の手を掴む。ぐいっと、自分に引き寄せて。

『ちゃんと、手を繋いでおかないと迷子になるぞ』

『うん!』

『アイス食べながら帰ろう、母さんには内緒だぞ。男同士の秘密は絶対だ』



 薄い記憶は映像なんておぼろげで、その時の声と腕しか覚えていない。でも確かに居た、俺の父親。小4で母親に捨てられたのは覚えているけど、この男に捨てられたのはいつの事か定かでない。気がつけば俺の前から父親という人物が消えていた。


「純、」

「やめろっ、よ、ぶな」



『――純!前見て歩け』

 家までの道のりを歩く俺は幼くて、後ろから聞こえる声に面白がって先を行く―…


 消えたと思った記憶は、まだ俺の中に存在していた。思い出さなかっただけで、確かにあった出来事だった。



「そんなに冷たく当たるなよ、親子だろ」

 差し出された手が先ほどの蘇った記憶と重なった。思わずその手を払い落とす。


 ガラスの割れる音に、一瞬店が静まり返った。


「ジュン、」

「純ちゃん!」

 富田さんと大野さんの声に我に返り、足元に広がる液体とガラスに視線を落とした。手を払い落とした拍子にテーブルから落下したグラス。

「…すいません。今片付けます」

 富田さんと大野さん、そして目の前のこの男を客としてそう伝えてしゃがみこんだ。ガラスを拾う手がかすかに震えて、目の前にある男の足元に視線を移すと、黒く光る靴が、アパートで見た光景とまた重なる。


 死にたいと思っているヤツのきっかけなんて、簡単なもので、


 拾ったガラスを、ぎゅっと握り締めた。

 もう少し、大きな破片なら。もう少し強靭なガラスなら、一思いに目の前の男を殺す事だって出来たかもしれない。自分の首を掻き切って、この男の目の前で死ぬ事が出来たかもしれない。

 それさえも許さないと伝えているような、薄く粉々に砕けたグラス。

「純ちゃん…」

 大野さんの声が耳元で響いて、我に返った。

「あ、ごめんなさい驚かせて、今片付けます」

「そうじゃなくって、手。…開いて、」

 ポタポタと血が滴る手を大野さんが取り上げて、そっと指を広げていく。

「細かいガラスは握ってない?ダメだよ、こんなことしたら」

 静まった店はまた賑わい始めて、俺と大野さんの会話は誰にも聞かれていないようだった。

「ジュン、」

 タオルを手に富田さんが傍に来ると、俺は大野さんに連れられてホールから出た。店は富田さん一人では大変だろうけど、今の俺はいくらグラスを割るか分からない程、手足が自分の物じゃないような感覚だった。






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