僕をよろしく | ナノ
僕をよろしく
26
「元気だった?」
詠仁さんの第一声はそれだった。
髪はさっぱりと短くなっていて、少し…痩せたのかもしれない。けれど、笑う顔は何も変わってなくて、それに安心した。
森岡に呼ばれて行ったのは、管理人室だった。
ここなら生徒の目に付きにくいだろうという事で森岡が管理人に交渉してくれたらしい。
管理人がどこまで知っているのか、何も知らないのか、僕には判らないけど、管理人は部屋の外、僕らの邪魔にならないようにって、玄関脇で煙草をふかしていた。
「詠仁さんは元気にしてましたか?」
管理人が淹れてくれたお茶に先に口をつけたのは僕だった。
少し熱めの緑茶が気持ちをほぐしてくれる。
「なんとかね」
「良かった。どうしてるのか、気になってたから」
「ありがとう…、椿ちゃんの事は森岡から報告を受けてたよ」
向かいに座る詠仁さんの指が小さく動く。
「椿ちゃん、ごめん」
言葉は静かに響いた。
終わったんだ、これで。
僕と詠仁さんの関係も、そこにあった出来事は過去になってしまった。
「俺、学校辞めることにした。父親の…森岡の親父になるんだけどな。その指示でだけど、専門学校に通うことにした」
「…そ、んな」
詠仁さんは視線を下げたまま笑う。
その姿がどこか寂しげに見えるのは気のせいじゃないだろう。
「父親が、俺の面倒見てくれるっていうから、会社で使える人間になってくるよ」
「そんなの…!そんな、寂しいです、詠仁さんに会えなく、なる、から…」
「離れた方がいいだろ。俺の顔見るたびに椿ちゃんは思い出す。無かったことにしようとしたって難しいよ…拓深がそうだったように」
「佐古…。そうだ、佐古は?知ってるんですか」
「あぁ。拓深とは少しずつ以前の関係に戻りつつあるよ。今後の事も拓深には相談に乗ってもらった結果だ。俺が此処に残るよりも、そっちの方が良いだろうって…」
僕は―――、いや、もう詠仁さんの中に僕は必要ないんだ。佐古の時のままじゃいけない。だから詠仁さんは新しい道へ進もうとしている。
この学校と共に、残された気分になる。
それは僕が先へと進めないから。
「もちろん拓深は今までと変わらず此処に居る。俺が居なくなって、会長の追っかけがもっと激しくなるんじゃないか?」
笑いながらそう話す詠仁さんは憑き物が落ちたような表情だった。
いつか、そんな風に僕も笑えるだろうか、と考える。
「頑張ってくださいね」
「あぁ、ありがとう。椿ちゃんも…また、いつか」
最後の言葉を向けて、詠仁さんが席を立つ。
本当なら、僕も一緒に立ち上がり送り出す事が出来たらよかっただろう。けれど、僕には出来なかった。
冷めてしまったお茶を流し込むと、詠仁さんが座っていた椅子を見つめた。
どのくらいそうしていたのか、扉の開く音に頭を上げると管理人が携帯灰皿を片手に戻ってきたところだった。
「熱い茶ぁ、淹れなおそうか」
そう言って急須の茶葉を入れ替えポットから熱いお湯を注ぐ。
「一発ぐらい殴ってやったか?それともしっかり罵ってやったのか?」
「…いいえ」
その管理人の言い方は、詠仁さんの事を知っているという感じだった。
本人から聞いたのか、森岡からか、はたまた生徒の噂か…定かではないけれど。
「お前は、親や兄弟に叱られた事ないか?あいつは……薮内は、きっと無かったんだろうよ。だから、そう仕向けるように動いてしまうんじゃねぇかな?」
「……え?」
「物心着いて自分の意思が出来て、思春期が来て親に反抗する。世間に反する事をする。全て叱ってもらう為だろうと俺は思うんだな。そこで叱られて学ぶ。どういうことをしたら相手がどんな思いをするか。道徳に反する事をしたら痛いしっぺ返しがある。そういうことを学んで行くんだと思う。あいつはソレを求めてたんだろうよ」
僕はいつも相手の気分にばかり流されてしまうけれど。
叱られる時はいつも相手の気分だ。僕を叱っていたのは兄、そして家政婦さんだった。
学ぶというのだろうか…。相手の気を逆なでないという意味では学んだ気がする。
「薮内のしたことを、ちゃんと悪い事なんだと、田嶋が言ってやらなきゃいけなかったんじゃないか?思い出したくないことでも、汚い言葉を使って言ってやればよかったんだ」
「…わ、わかりません…僕には、そんなこと分かりませんでした」
目の前に湯気の立つお茶が置かれた。
「誰もわかってやってないよ。ましてやお前らはまだ高校生だろ」
管理人は自分用の湯飲みに小気味いい音を立てながらお茶を注ぐと熱さを感じていないのか、くいっと一口飲んだ。
「だから…感情のままぶつかり合うんじゃないか?今を学ぶ為に。未来の為に」
「感情…」
感情のまま。
「嫌な思いをする、嫌な思いをさせる。俺は大切なことだと思うな。女には無い性質が男にはあるんだぞ。多少ぶつかり合ったくらいじゃぁ相手は消えねえよ。おまえはそれを全く使ってないんじゃないか?何も考えずにぶつかってみればいいんだ。その点、やりすぎだけど薮内はやリ続けていたんだよ。自分が欲する物を求めて人を傷つけてきた」
人を傷つけるくらいに求める物。
僕の脳内をぐるぐると言葉が巡る。
理解しようとして全く飲み込めずにそこに留まるように。ずっと頭を巡っていた。
僕が人を傷つけてまでして求める物なんてあるだろうか?
森岡が迎えに来るまで僕はその言葉を自分に当てはめようと頭を動かしていた。
けれど、ずっと滑り続けている。
感情のまま、人を傷つけてでも欲する物…欲しい物は沢山あった。けれど誰かを傷つけてまで欲しいとは思わない。そのかえりみは痛いものだったし、だからこそ僕は自分を切り離す事を得たわけで…。
けれどそんな切り離す術すら無くしてしまった僕は、自分の身一つ動かす事にさえ臆病になっていた。
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