僕をよろしく | ナノ
僕をよろしく
26
「でも、思うようにはいかないよな。俺は今更、椿ちゃんを手放す事に戸惑ったし、拓深には執着ばかりが大きくなって…。綺麗な感情なんて少しも無いよな」
目の前で、先輩が笑っている。
その笑顔に僕の方が苦しく感じた。きっと先輩だって色々思う事があったのだ。
「だから、拓深との事どこかで早くバレるならそれで良かった、森岡が椿ちゃんに全て話してくれれば早かったのに。アイツもちょっと考えすぎなんだよ」
佐古との事は聞かなかった、けれど森岡は何度も何度も僕に忠告していたんだ。
「森岡はこの事…知って、」
「どうかな…感付いてるかもしれない。まぁ、椿ちゃんが行動してくるのは手違いだったけど、結局一緒だよ」
僕はただ佐古と詠仁さんの過去を、詠仁さんの口からちゃんと教えて欲しかったんだ。先輩が佐古の事を忘れられないのなら、それで終わりだと言われるのなら、仕方の無い事なんだと受け入れるつもりだった。
こんな背景があったなんて思いもしなかった。
結局自分の取った行動は、自分をおとしいれるだけだったという事。
「椿ちゃん」
「ご、めんなさい」
惨め過ぎて、涙なんて見せたくない。
初めから先輩の心は僕に掠りもしていなかった。
僕が感じた距離、交わらない気持ちの全てはこれだった。
知らなければ良かっただろうか、佐古の事をどこかで意識しながらも、僕は気付かない振りして先輩の傍に居るべきだったのだろうか。
偽りでも、それの方が幸せだったかもしれない。
ぎゅっと瞼を閉じて、その上からまた手で隠して、それでももっと、もっと…いっそのことこの場から消えてしまいたかった。
「…それだけの事をしたんだ、俺は。でも椿ちゃんの事を本当に手放せるかって、最近は自問自答の毎日だった。こうやって椿ちゃんから話を振ってくれてよかったよ、踏ん切りがつく」
少しでも、僕の存在は影響があったということだろうか。詠仁さんのためにはならなくても、意味はあっただろうか。
僕にとって詠仁さんは意味があった。
助けてくれたと、今になっては大げさだとしか思えないけれど、あの時の詠仁さんの存在は大きかったのだから。
佐古への気持ちの大きさを知っているつもりだ。破壊的だった激しい感情。
それと同じものが欲しいと思うつもりはない、けれど少しでも僕の事を思う気持ちがあるなら――…。
僕は隠していた顔を勢い良く上げた。
――僕も一度だけそれを受けた気がする。
管理人さんと話をした時、あのシュークリームの時。僕が受けた暴力はそれに似たものじゃないだろうか。僕に感心が無ければ手なんか出なかったはずだ。
「詠仁さんっ、僕にまだ可能性があるなら」
僕にもほんの少しの光が差しているのなら。
「ダメだろ。俺はそんな甘さに漬け込む人間なんだって。このまま続けた所で、椿ちゃんが辛いだけだ…それに、椿ちゃんも知ってるように拓深に執着してる」
「でも、せっかく…」
友達のひとりも居ない僕と一緒に映画を見てくれたり、ランチしたり、そんな時間を全て偽りだと思いたくなかった。
「この先、椿ちゃんが困ったり、俺を頼りにしたいと思った時に。使いたいときだけ使ってくれればいい。償いに、なるとは思わないけど…」
「そんな…」
心は佐古にしか向いていない、と言われているようだった。
僕が縋るような目をしていたのだろうか、困ったように、詠仁さんは溜息をついた。
僕が一人で踊らされていた時間の分だけ、詠仁さんにも多くの葛藤があったのだ。
僕には詠仁さんがただの酷い人間にはどうしても思えなかった。
それだけ執着できる相手が居るだけの事。僕にはそれだけの人が居なかっただけの事。
例えば僕にそれだけの相手が出てきたとして、僕は詠仁さんのように動けるとは思えない。それが間違っていたとしても一人の人をそこまで深く思えない。
今目の前にいる詠仁さんにも、僕の気持ちは曖昧で。ただ傍に人が居るだけで嬉しくて、幸せで手放したくないと願うんだ。それがたまたま詠仁さんだった、と言われれば納得してしまう程度の。
たとえ詠仁さんが執着と言い放っても、僕は佐古が、羨ましい。
「メール、してもいいですか?…迷惑ですか?」
「椿ちゃんさえ、良いんなら」
申し訳なさそうに頷く詠仁さんに、僕はそれだけで安堵した。
この瞬間に手放してしまう事を怖れた。
細くてもいい、何か繋がっていたいと思った。自分から連絡することが出来ないのはわかっていながら、赤の他人になってしまうのは嫌だったんだ。
自ら望んで選んだ道だった。
この時の僕は、ほんの一握りの事しか…知らなかったのだ。
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