僕をよろしく | ナノ



僕をよろしく
19






「大量だ」

 耳元でささやかれた言葉にも何も考える事が出来なかった。僕は、僕の為に感覚を切り離しているのだろうから、今感覚がないということは良い事なんだと割り切った。

 身は先輩に任せ、僕は目の前の扉の木目をただ見つめていた。

 先輩が近くなり、下半身に感じるわずかな圧迫と水音から、先輩の物が自分の中に挿入された事に気付いた。
奥底から疼くように、自分の感覚が生まれようとする、それに気付いては追いやってを繰り返していた。
 それが快感で、それが悲しみだと気付きながら、僕は知らないフリを続けて。







 長年自分の中で築き上げたともいえるこの体質を、崩してくれるのは先輩なんだろうと思った。いよいよ崩れるのだ、とも。

 初めてだったから、これほどまでに感覚が失われる事も。そして一度離れた感覚が人の手によって無理やり引き戻されるような事も初めてだった。

 そう、僕は先輩の感情の渦に飲まれるように、先輩から施されている快感の渦にも長い時間をかけて、飲まれてしまった。
 切り離された感覚は研ぎ澄まされたように鋭い快感を持って戻ってきた。

「っ、あ、詠仁さんっ、詠仁さ…っ」

 何度も受け止めては迸らせてを繰り返した。先輩は僕にただ1つ、名前で呼ぶこと意外は何も要求してこなかった。快感を口にすることよりも、ただひたすら先輩の名前を強要された。

「んあぁ!達かせて、詠仁さんっ」

 何も考えずに恥じらいも理性も捨てて必死に快感にだけしがみついていた。達く度に先輩の名を口にして。

 僕が先輩を求めれば、先輩は臀部に掌を振り落とした。乾いた音も衝撃も、今の僕には刺激の一つでしかなくなっていたけれど。

「入れて?…椿ちゃんはそんなに淫乱だったっけ?ケツ振って俺に媚びなくとも十分そそられるから。そんな安い誘いの言葉よりもちゃんと呼んで。…俺の名前、呼べよ」

 何度呼んでも足りていないらしく、どうすれば先輩を満足させる事が出来るのか分からなかった。
 先輩が角度を変えた瞬間、何度目かわからない射精感が僕を襲った。ビクビクと身体が痙攣しているのは感じた。
 瞼が重たくて静かに下りてくる間、射精をしたのだろうか、先輩の名前を呼べたのかだけが気になったが、間もなく意識が切れた。







 張り付くような喉の痛みで目が覚めた。からからに乾燥した喉と気だるい体。視界に写った天井から、くるりと視線をめぐらせた。

 自分の部屋、自分のベッドの上。しっかりと布団も掛けられていて、長い夢から覚めたような感覚だった。けれど先輩と及んだ行為は夢なんかじゃなかった。
 手を上げる事さえ億劫な、重たい身体。

「詠仁さん」

 擦れた声で、一番に口にしたのは先輩の名前。呼んでも返事はなくて、真っ暗な闇に自分一人が横たわっていた。

 なぜだか、悲しかった。悲しくて、悲しくて、胸の痛みから涙がこぼれた。
 この暗闇にたった独りだった事が、とてつもなく悲しかった。



 自分の悲しみの波が引いた頃、そっと身体を起こした。まだ身体もだるかったし、指一つ動かす事もしたくなかったけど、なにせ一人だ。カラカラだった喉に追い討ちをかけるように泣いてしまっては、水分を補給したくて仕方なかった。

 部屋に置かれた小さな冷蔵庫に這いずるような足取りで向かい、扉を開いたけれどそこには何も入っていなくて、暗い部屋に、冷蔵庫の小さなオレンジの光が伸びただけだった。

 仕方なくリビングへと向かう為、扉に手を掛けた。

 跡形もなく片付いた部屋だったけど、扉を前にしてここに身体を預けて、先輩を受け入れたことを否応無しに思い出しては振り切るように扉を引いた。

 視界に写る人影に目を見開き、一瞬探し求めた人かと胸が弾んだ。けれど振り向いたその視線が僕を捕らえると、心が冷えていくように、冷静な自分が表に現れた。

「森岡…」

 ソファに座ったまま振り向いた森岡はじっと僕を見据えたまま動かない。言葉も発しない森岡から、気まずく視線を外して時計を見ると針は午前三時を指していた。

 それから僕がシンクで水を汲んで口にしている間も、森岡はただ僕を見るだけで、何も声をかけてこない。

「…な、何?そんなに見られると…緊張、する」

 のそりと、腰を上げた森岡が僕の傍までやってくる。距離が縮まると共に、胸がざわついていく。

 水を汲んだマグカップを置いた腕を、そのまま取り上げられた。ねじれた腕は僕を逃がさないようにと捕らえて、森岡の激しい感情をその力に感じた。

「薮内はイイのか」

「え…?」

「あんなに声上げて、見せ付けてるんだと思ってたけど、お前が必死に名前呼んでるの聞いて…」

 恥ずかしさで上がった体温と、顔を覆いたくなる羞恥から顔をこれでもかとそむけて、森岡から逃げたかった。けれど森岡の腕は一向に緩まない。ギリギリと締め付けるように腕を捕らえられたままだった。


「ご、め…」

 感覚が一度離れたと共に、森岡が部屋に居た事なんてすっかりと抜け落ちていた。さぞかし森岡には不快な思いをさせただろう。一度、森岡と佐古の行為を耳にしているのだからどれほどのものか僕にも判る。

「悔しいけど、キた。すっげぇ屈辱的。お前の声で…ましてや相手が薮内とか。それで抜くとか思いもしねぇ」

「ぬ、く…?」

「ありえねぇ…、絶えられなくなって拓深のところに逃げ込んだ。拓深に、お前にぶつける欲望をぶつけて、ほんとありえねぇ」

 ありえないと悔しそうに嘆く森岡。理解しがたい言葉が続いて、僕の方こそありえないと口にしそうになった。

「お前等が、本気ならもう止めない。でもそれでも、何かあったら言えよ、薮内を止められるのは多分、俺だけだから…」

「止められるって…、何言ってんの、もり…」

「理解できなくていい、ただ覚えとけ。それと明日、朝からあんな声は聞かされたくねぇから、少しは気を使え」

 森岡は静かに僕の腕を離すと、そっと自室に戻って言った。

 またリビングで一人になって、森岡の言葉を反芻した。お前等が本気なら、と森岡は口にした。
 本気?本気ってどういうものだろう。きっと僕達は森岡が思っているような関係じゃないだろう。

 明日の朝は気を使えと言われたところで、もう僕の部屋には僕しか居ないのに――、きっと僕と詠仁さんの感情は、これ以上交わらない…。

 また、乾いたはずの涙が一つ零れ落ちた。



 


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