誓約は
青い星の
終焉と
ともに






 朝目が覚めて腕の中のぬくもりが消えている代わりにとんとんと小気味よい包丁の音が聞こえてくると、ああなんて俺は幸せ者なんだとアルフレッドは思う。
 昨晩はキスだけで済ませた分少し満たされない欲求を抱えながらアルフレッドはベッドから降りる。漂ってくる匂いの元を辿るようにキッチンへ向かうと、ふんふん鼻歌を歌いながら切り終わった野菜をザルに入れる恋人の後ろ姿があった。
「おはよう、耀」
 声をかけると赤いエプロン姿の恋人は――耀はこちらを振り向いて「早、アルフレッド」と微笑んでくれる。
「もうちょとで出来るから待つよろし」
 耀が視線をやった先では鍋がふつふつと湯気を立てている。メニューは今朝も耀特製のお粥だろう。耀は姿勢を戻すときゅうりを手に取り、またとんとんと小気味よく包丁を鳴らし始めた。
「……待てないんだぞ」
「んもう、アルフレッドは食いしん坊あるなぁ……って」
 耀の手が止まったのを見計らって、アルフレッドは耀を抱きすくめる。「ひゃ」と甲高い声を上げた耀は、おそるおそる包丁を置いてアルフレッドの腕に触れた。
「な、何してるあるかっ、あぶねーある……」
「ちゃんと手が止まった時にぎゅってしたぞ」
「そうあるが……アルフレッドは寂しんぼさんあるね……」
 アルフレッドは耀のうなじに鼻先を埋め、ちゅ、とわざとらしく音を立ててキスを落とす。甘いシャンプーの匂いがして、耀はくすぐったそうに肩を竦める。それから耳の後ろ、首筋とキスをして、襟の下の肌に唇が触れると「アルフレッドッ」と耀が慌てて声を上げた。
「あ、朝からだめあるよ……」
「だって昨日しなかったじゃないか、耀が足りないんだぞ」
 耀の腰あたりに、アルフレッドの僅かに熱を帯びたものを押し付ける。ここから耀の表情はあまり見えないが、耀の耳が赤く染まっているのは確かだ。
「あ、あとでいっぱいしてあげるあるから……。今はだめ、ある……」
「……約束だぞ?」
 耀が小さく縦に頷いたのを見て、アルフレッドは腕を離す。耀は肩を縮こませたまま、「コーヒーでも飲むよろし……」と呟く。
 アルフレッドが誘いをかけると耀はいつもこうなる。付き合い自体はもうずいぶん長くなると言うのに、恋人らしい交わりに関してはまだたったの数ヶ月だからか、誘うだけで恥ずかしがってすぐ赤くなってしまう。決してアルフレッドの誘いを嫌っているわけではなく、むしろ耀も内心では欲してくれているのだと分かっているからこそ、いじらしい耀の態度が可愛くてたまらない。
 「待ってるね」と耳元で囁いてからアルフレッドはダイニングへ向かった。アルフレッドがまだ一人暮らしをしていた頃から長いこと鎮座しているコーヒーメーカーで落としたコーヒーに、たっぷりのシュガーとコーヒーフレッシュ。かき混ぜるものを忘れていたのでキッチンの方を見ると、耀はまだ頬を赤くしたまま黙々と調理を進めている。
「耀、悪いけどマドラー取ってくれないかい?」
 と声をかけると耀は大袈裟に肩を跳ねさせた。
「コーヒー混ぜたいんだ」
「ぁ……、わ、分かたあるっ、ちょっと待つねっ」
 耀は何だかぎこちない動きでスプーンやフォーク類をしまっている引き出しを探す。カウンター越しにマドラーを手渡してきた耀はアルフレッドと目を合わさないよう少し視線を下に逸らした。頬はやっぱり赤いままで、こんなに可愛らしくて愛おしい姿を見せられ続けていたら後でアルフレッドの理性が持たなくなってしまうのだが。
 今日は一体何回耀を可愛いと思うのだろう。耀と同棲を始めてからアルフレッドは頭の中が耀でいっぱいで、それが何にも替え難く幸せだ。

 アルフレッドと耀はそれぞれアメリカと中国の化身であり、人間とは違う命を持つ。国の経済状況が悪化すれば風邪を引き、その国の国民らしい性格と趣味嗜好を持ち、そしてもし国が滅んだときは、国と共に消える。けれども何か特別扱いされているわけではなく、せいぜいその時の政府から配属される上司が一人――耀に限っては人間ではないが――がいる程度で、ごく普通に国民の中に溶け込んで生活をしている。そういう不思議な存在なのだ。
 耀は国の化身として生きる以上、いくら自分にも個性があろうと心に決めた誰かと一生を添い遂げるようなことはしてはいけないと思っていた。だから耀は四千年もの間一人も恋人など作ることなく生きてきたのだ。
 アルフレッドは違った。たとえ国の化身であろうと、国の状況によって体調や姿を左右されようと、個性があるなら自分も恋を自由にしていいものだと考えていた。だから長いこと恋心を寄せていた耀に想いを告げ、さまざまな葛藤や苦難がありつつも二人は恋人として暮らす幸せを掴み取ったのである。

 朝のニュースを見つつコーヒーを啜り、飲み終わる頃になって耀がキッチンから出てきた。二人分のお粥をそれぞれ向かい合うようにテーブルに置く。湯気に乗ってふわりと香ったこの匂いはパイタンとか言っただろうか。味音痴なアーサーに育てられたせいでアルフレッドも細かな味の違いがよく分からないのだが、料理上手で美食への探究心も強い耀と共に暮らし始めたのだから、少しずつそういうことも理解していければ良いと考えている。
「今日もすごく美味しそうだぞ、耀!」
「ふふっ、冷めないうちに食べるよろし。美味しそうじゃなくて、美味しいって言って欲しいある」
「それもそっか! それじゃ、いただきます!」
 さっそくお粥を一口食べるとアルフレッドはふにゃりと顔を緩ませた。耀が丹精込めて作ってくれた料理は、いつものことだが、すごく美味しい。
 耀の特製白湯粥はまずスープ作りから手が込んでいる。あらかじめ鶏ガラや豚骨など複数の食材を数時間煮込み旨味が溶け出した濃厚スープを作り置きしており、朝起きるとそれを朝食に合わせて重くなりすぎないよう調え、そこに鶏肉と白米、細かく刻んだ野菜類を加えてよく煮込む。鶏肉がほろほろ崩れそうなほど煮えてきたら器に盛って、細切りにしたきゅうりを乗せ、小ねぎと三つ葉を散らす。耀はいつも当たり前のようにこなしているが、アルフレッドにはとても真似出来ない手間のかかりようだ。耀と暮らす前の朝食と言えば昨日買って冷えきった宅配ピザで、固まってしまって美味くもないそれを冷たいコーラで胃に流し込むのが常だった。
 耀の家ではあまり冷えた料理を食べないからか、朝食はいつも作りたての熱いお粥だ。洋食の気分なときは、トーストに具沢山の野菜スープがついてくる。メニューが何であれ、耀との食事はいつもあたたかい。
「君のご飯は本当に美味しいね、幸せの味がする」
「前まではクリームって言ってなかったあるか?」
「今は耀の手料理なんだぞ!」
「ふふっ、もう……調子のいいやつあるねぇ」
 温かい食事を共にして幸せいっぱいなのは耀も同じだ。耀も恋人になってからよく見せてくれるようになった柔らかい笑顔を浮かべ、粥を口にする。
「そういえば、今日は予定はない?」
「ねーある。もしあったら、あんなこと言わないあるよ……」
 耀はまた頬を染めてうつむく。首を傾げかけたがすぐに合点がいった。『あとでいっぱいしてあげる』こと、だろう。
「そうだったね、朝だけどシャワー浴びようか?」
そう尋ねると耀はアルフレッドの様子を伺うように視線を上げた。
「……そんなに待ってられねーある」
 ああ、可愛い。これが耀の精一杯のお誘いなのだ。ぐっと湧き上がる衝動を抑えつつ、「分かったよ」とアルフレッドは微笑む。これを食べ終わったら後片付けもシャワーも後回しにして、耀をとびきり可愛がってあげたい。

 お昼近くになって、まだ満足していないのに耀は「おしまい」とアルフレッドの唇に指を当てた。
「まだしたいんだぞ……っ」
「だめある。今からこんなにしてたら、夜の楽しみがなくなっちまうあるよ……?」
「そうだけど、足りないよっ」
「……買い物に行かないといけねーある。卵とごま油と、砂糖と玉ねぎ」
 欲求不満そうに眉を下げるアルフレッドの頬に触れて、「それと」と耀はまだ整い切らない呼吸のまま笑う。
「我に使うおもちゃも、見てみるあるか?」
「――っ、見る! 買う! 絶対!」
「ふふっ、なら一旦おしまいある。ね?」
大きな子供をあやすように耀が告げ、アルフレッドは耀の中から自身を引き抜く。離れてしまった熱を求め直すように、アルフレッドは自分より一回り小さい耀の体を抱きしめた。
「でも、もうちょっとこうしてからがいいな」
 そのまま転がるようにベッドに倒れ込み、アルフレッドは耀を抱き枕にして目を閉じる。
「ちゃんと起きるあるよ?」
「大丈夫だって」
 俺が耀とのお出かけを反故にするわけないんだぞ。アルフレッドの声は甘く、触れ合った素肌はまだ汗でじっとりとしていた。耀のつむじのあたりにキスを落とされ、アルフレッドの吐息がかかる。
 国の化身として生きることの宿命を振り切ってしまうほど、アルフレッドに強く愛されているのだと耀はつくづく思う。その愛情は穏やかな海のように大きく見えて、実情は沼のように深く重い。きっとアルフレッド自身も気づいていないのだが。
 密着して息苦しいくらいに抱きしめられたまま、耀も目を閉じる。
 アルフレッドの恋人が我でよかった。こんなに重い愛情を受け止めて尚生き続けられるのは、きっと世界で我だけだから。四千年も生きた大国の化身である我だけが。

 一時間ほど眠って正午を回ると、アルフレッドはアラームでもかけていたかのようにパチリと目を覚ました。正午の時間、それは大好きなランチの時間。アルフレッドは何より三度の食事が好きである。
 アルフレッドが身を捩らせたので耀も目を覚ました。「ご飯食べに行こう!」とアルフレッドは弾けるように笑う。
 いつものシャツとジーンズを手に取ったアルフレッドにシャワーは浴びないのかと尋ねると、アルフレッドは「帰ってきたあとで」と返事した。汗とアルフレッドの匂いが少々染み付いている気もしたが、夜にも入るのだからいいか、と耀も服を手に取る。ラフな赤いパーカーとスキニーを選ぶ。
 アルフレッドと耀はニューヨークに在住している。ほとんど地球の反対側にある国同士、同棲するときにはどちらの家に住むかで大いに悩んでしまったのだが、アメリカにも耀の別荘があるからということでアメリカになった。アメリカに限らず世界中に別荘を持っているため適応力の高い耀は、こちらの暮らしにももうずいぶんと馴染んでいる。
 ランチは公園近くのキッチンカーで販売していたベーコンサンドイッチをベンチで食べた。舌が肥えているおかげで自国を出ると口に合う料理も少なくなってしまう耀だが、定期的に同じ場所へ店を出すこのサンドイッチは気に入って何度も食べている。そろそろ店主とも顔馴染みになってきただろうか。
 食事を済ませたらスーパーマーケットに向かう。大きなカートを押すのはアルフレッドの役目だ。
「卵は後で買うとして、まずはごま油と砂糖と、ああ、そういえばそろそろあれが切れそうだたあるから……」
 とぶつぶつ呟きながら耀はどんどんスーパーマーケットの中を突き進んでいく。下手をするとニューヨーク暮らしに慣れているはずのアルフレッドの方が置いて行かれてしまいそうだ。
「耀、お菓子買ってもいいかい?」
「一つまであるよ!」
 まるで母子のようなやりとりをしつつ、一通り目当ての商品をカートに入れたらレジを通る。財布を出すのは耀の方だ。
 紙袋二つ分の食材と、手提げ袋一つ分の洗剤やティッシュなどの生活用品。軽い方の紙袋は耀が抱え、重い紙袋と手提げ袋はアルフレッドの手に持って、帰路につく。アルフレッドは少し身をかがめて、すれ違う人達には届かないくらいの声量で耀にそっと耳打ちする。
「……耀、何か忘れてると思わないかい?」
「っわ、忘れてねーあるよっ……一旦置いてから行くある……」
「そう? ならよかった」
 耀は頬を膨らませて紙袋を抱え直し、ほんのりと赤く染まった顔を見られまいと視線を落とした。
「……もう、なんでそんなに、その、……えっちなこと、好きあるか……」
「買おうって言い出したの君じゃないか」
「そっ、そうあるがっ! それにしたって、もう毎日してるあるから……」
「……君は俺の恋人なんだって自覚が足りないよ。恋人ってことは、俺が本当に大好きな人ってことなんだぞ? 大好きなんだから、毎日したって全然足りないさ」
「ん、んんん……」
 上手い反論が出てこなかったらしく、耀はきゅっと唇を結んだ。アルフレッドは畳み掛けるように続ける。
「そういうことじゃなくたって、一緒にご飯食べたり、ベッドで寝たり、こうして買い物に出かけたりさ。耀と一緒に生活ができるって、俺、すごく幸せなんだ」
「ぁ、ぁう……」
「隣に居られるだけでも幸せだけど、俺はちょっと欲張りだからさ。大好きな耀のこと、ぜんぶぜんぶ欲しくなっちゃうんだぞ。だから――」
「ゎ……わ、分かたあるっ、アルが我のこと大好きなのは分かたあるからっ! もういいある!」
「そうかい? 全然話し足りないんだけど……」
 真っ赤になってしまった耀の隣でアルフレッドは朗らかに笑う。両手が荷物で塞がっているのが残念だ。ここで片手が空いていれば耀の手を取って、自分がどれだけ耀を好いているか、手のぬくもりで伝えられただろうに。荷物を置いたらまた出かけるのだ。そのときは固く手を繋いでいよう。
 それから夕食を食べてゆっくりおしゃべりをして、シャワーを浴びたら、またたくさん愛し合おう。今日も片時も離れずに、耀と一緒の一日。
 こんな日常がずっと続いて欲しい。アルフレッドはそう願っている。

 だからアルフレッドの選択は、最早必然とも言えただろう。
 それはアルフレッドと耀が同棲を始めてから何度目かの夏も盛りを過ぎて、もうすぐ秋かとカレンダーを見て思うような、八月の終わりのこと。
 その日はよく晴れていて、どこまでも広がる夏空の群青色が目に眩しかった。夏の太陽の陽射しをたっぷりと浴びる海原の煌めきも。
 空と海。青と青。そんな青に支配された世界でアルフレッドは、真っ直ぐな青い瞳で耀を見つめる。跪き、まるで騎士のように凛とした姿で。
「――俺と結婚して欲しいんだ」
 リングケースの中身を見せて、アルフレッドはひと言そう告げた。



 恋をするなんて無駄なことだと理解したのは果たして何時のことだったか。自分が恋に似た感情を向けた人間が、たった数十年足らずで死んでいくのを何度看取った時だったろうか。
 耀のような【国】と人間との間に流れている時間の感覚は違う。どれだけ人を愛し愛されようとも刹那のような数十年。どんな人間であろうとも必ず耀より先に死ぬ。どれだけ築き上げたものがあっても時の流れと忘却には逆らえない。相手が死んでしまったあとはまるで何もなかったように世界は変わっていく。ならば耀自身の心にはと思えど、国の化身たる耀にとって一個人ばかり想うわけにはいかない。やがて記憶は薄れ、抱いていたはずの愛情も消える。
 それでも人間に恋をするのか? 答えは首を横に振る。
 ならば【国】ならと思ったか。それは国の化身として如何なものか。たとえ国の化身であることを差し引いたとしても、【国】も皆いずれ耀より先に消えることは目に見えている。ならば人間と大して変わらないではないか。
 だから自分が抱く【愛】があるとすれば、それは親愛や博愛の類であって、もう二度と自分は恋愛感情など抱くことはないだろう。
 そんなふうに恋を忘れて生きてきた耀が、もう四千年くらいは生きたかとぼんやり思い始めたある夏の日、自分の家へ新しい国が商船を遣わしてきた。船員たちと共に耀の家へ降り立ち、彼が私たちの【国】なのだと説明された青年がいた。
 それこそがアルフレッドだった。
 「俺の家、独立したばかりで大変なんだ」と困ったように眉を下げ、耀の家の陶器や織物に目を輝かせていた青年の表情にはまだあどけなさが残っていた。
「【国】としては我が先輩あるからな。困ったらなんでも聞くよろし」
「いいのかい? ありがとう!」
 胸を張る耀にアルフレッドはふにゃふにゃした子供っぽい笑顔を向ける。かわいいやつだ、と思った。これからゆっくり一人前の国として成長するであろう彼のことを、遠い海を隔てた先から見守ってあげよう。そう思っていた。
 だが彼は瞬きのうちに世界一の超大国へと成り上がり、今となっては彼の動きひとつで世界が変わるような覇権国へと成長した。
 耀自身この数百年、そんなアルフレッドに助けられたこともあれば苦しめられたこともあり、好きとも嫌いとも言えない知人として他の【国】と変わらず接しているつもりだった。ただ他の【国】とアルフレッドが違ったのは、耀にとある期待を抱かせたか否かにあったと思う。
「俺はヒーロだからね」
 アルフレッドは口癖のようにそう言った。彼の家で創られる映画や漫画に登場するスーパーヒーローに憧れての発言で、彼がそう言うたび他の者たちは呆れて首を竦めるだけだったが、耀は違った。アルフレッドがただの人間だったり、生まれたばかりの小さな国であれば同じ反応を返したかもしれないが、アルフレッドにはヒーローを名乗るに値する素質があった。それは言うまでもなく、世界唯一の超大国たる彼を構成する全てである。
 そんな彼を見て耀は、人間と【国】に共通して存在し、恋愛を諦めていた原因が彼にだけはないことに気付く。

 ――アルフレッドは我と同じ。きっとこの星が滅ぶまで消えない【国】。だからもしかしたら、我より先に消えない【国】かもしれない。世界の最後まで残り続ける我と、共に居てくれるかもしれない唯一の――。

 それはまだ恋と呼ぶには値しない感情だったが、耀のアルフレッドに向ける視線が他国と違っていたのは確かだった。それにアルフレッドが気づいていたのかは分からない。だがとある日の世界会議の後、アルフレッドが真っ直ぐに耀を見つめて告げた言葉は、耀の胸の内に足りなかった何かを温かなもので満たしてくれたような気がした。
「……君のことが好きなんだ」
 アルフレッドらしい素っ気ないほどにシンプルな告白は、耀にとって、この星の結末に在る孤独という運命からの救済に違いなかった。


 初めて彼に恋心を抱いたのはいつだったろうかと考えるとき、まず初めに思い出すのは焼きつくように鮮やかな夏空と海原の記憶だ。
 アーサーの弟という立場を離れたばかりのアルフレッドは一七八四年の八月の終わり、六ヶ月に及ぶ航海を経て初めて中国の港に訪れた。そのときに耀とも顔を合わせ、耀は「好きなの持ってっていいあるよ」と自分の家の品物を色々と見せてくれたのだ。
 アルフレッドがアジアの【国】を見るのは初めてで、耀の見た目や言葉など彼を構成する全てが目新しかったのもあると思うが、ついアルフレッドは並べられた品物よりも耀に目を向けてしまった。耀はそれに不思議そうな顔をして返すので、アルフレッドは慌てて視線を品物に戻した。そんなことを何回か繰り返して、耀がふと「商売は人間に任せちまうあるか?」と持ちかけてきた。手に持って見ていた陶器からアルフレッドが顔を上げると、耀は眉を下げて笑っていた。商人たちはともかくアルフレッドに審美眼はなさそうだと見抜かれてしまったらしい。
 耀の読みは間違ってはいない。事実アルフレッドは手に持った陶器と値段の違う他の陶器の何が優劣を決めているのかさっぱり分からなかったし、耀の家の茶もいくつか試しに飲ませてもらったがどれも同じような味としか言えずに困ってしまった。散歩がてら港を案内しよう、と耀に連れられ歩いている最中、アルフレッドは歩くたびに揺れる耀の一つ縛りの髪を見た。よく手入れされた艶やかでさらさらした黒髪。
 ――確かにアルフレッドにものの優劣を見極める力は備わっていないようだが。
(それは、ただ審美眼がないだけじゃなくて)
 何よりも美しいひとを前にしているんだから、他のものが全部劣って見えたっておかしくないよ。晴れ渡った夏空の下、とびきりのダイヤモンドを前にして、ただの石ころを選ぶ馬鹿はいないさ。
 それがアルフレッドの初めての恋だった。
 アルフレッドの抱いた耀への恋心と、アルフレッドという【国】が持つ耀という【国】との関係や感情は、必ずしも一致するものではなかった。恋心のように耀へ好意を抱き親しい態度を取れる時もあれば、想いに反して厳しい態度や感情を抱かねばならない時もあった。国同士の関係や双方へ抱く心情は時代とともに常に移り変わる。国の化身であるアルフレッドも、その時の上司の指示によって耀への接し方を変えなければならない時があったが、間違いなく言えるのは、耀への恋心が薄れたことは今まで一度もなかったということだ。
 アルフレッドという【一個人】と、アルフレッドという【国】。アルフレッドの胸の内は、常にその二つが並び立ちながら生きてきた。人と同じ心を持ちながらも、国の化身として生きる以上、他の者たちも抱えているどうしようとも逃れられない宿命だった。
 けれど、アルフレッドは自由の国であった。

 ある世界会議の途中、地球温暖化問題についてアルフレッドは「でっかいヒーローに地球を守ってもらおう」と大真面目に提案したのだが即座にアーサーに却下されてしまい、それをきっかけにして会議の場はいつものように各々が好き勝手動き回って会議は踊る状態になってしまった。一部では流血沙汰にさえ発展しそうな大騒ぎの中、さて何処に首を突っ込もうかと立ち尽くしているアルフレッドに近寄ってきた耀は柔和に微笑んで言った。
「お前なら、そのでっかいヒーローとやらになれそうあるね」
「え……?」
 それって、どういう――と尋ねる前に耀は「お前ら菓子やるから落ち着くよろし」なんて言いながら騒ぎの方へ向かってしまった。
 それは、耀にとってはささいな冗談のつもりだったのかもしれない。アルフレッドの口癖のような『ヒーロー』を軽く弄ってやろうとしただけなのかも。
 でも、耀の表情からも声色からも、アルフレッドの発言を馬鹿にしてやろうという意図は感じなかった。むしろ微笑の奥に隠して、耀の真剣な想いが、一瞬、見えた気がした。
「――――ッ」
 ――椅子を蹴り飛ばして耀の背中を探した。それは爆発的な衝動だった。
 ずっと掴むことが出来なかった。アルフレッドが耀に想いを寄せていても、耀はアルフレッドをどう思っているのかは。耀は特定の誰かに深く入れ込むようなことはしない。したとしてもシナティだとかパンダだとかキャラクター的存在ばかりが対象であって、現実を生きている者に対して彼は等しく距離を置き、物事のすべてを他人事のように遠くから眺めているような印象があった。四千年も生きてきた彼の達観と諦めの果てにある選択だったのだろう。そんな風な耀なので、アルフレッドも他の国と同じような印象しか持たれていないのだろうと思い込んでいた。
 だが――。
 そうじゃ、ないのだとしたら。
 次の世界会議は一ヶ月後で、耀に会えるのも同じ一ヶ月後になってしまう。そんなに待っていられない。二百数年の恋心が爆発した今、たったコンマ一秒だって!
 会議はこのまま自然に解散となるだろう。今抜け出したって大して変わらない。アルフレッドも騒ぎの中に突っ込み、強引に耀の手を引いた。
「アルフレッドッ?」
「ちょっと、こっちに来てくれないかい」
 戸惑いながらどうしたのかと尋ねてくる耀の顔を見られなかった。思ったよりもずっと小さい耀の手に胸が締め付けられて、「アルフレッド」と呼ばれる声に鼓動が速まった。今足を止めて振り向いたら、火傷しそうに熱い顔のまま、衝動的に耀に口付けてしまいそうだった。
 あの騒ぎでは二人を止める者もなく、会議室を抜けて人気のない廊下を進み、「アルフレッド!」と叫ばれてようやくはっと我に返った。慌てて手を離したが、やはり振り向くことはできなかった。
「ど……どうしたあるか、急に。話するだけなら、何もここまで来なくても」
「……みんなのいる場所じゃダメだよ」
 絞り出した声は緊張で震えていた。耀はアルフレッドの次の言葉を待って、しばらく沈黙が流れた。そうすると感情に突き動かされるまま耀を連れ出したアルフレッドの頭も冷静さを取り戻してくる。
 ――やってしまった。
 ああ、本当はもっとちゃんと段取りを決めて、ロマンチックな場所でロマンチックに告白をしたかった。美容室に行ったり服のセンスのいい知り合いに頼ったりして髪もファッションもお洒落に決めて、雰囲気のいいバーだとか遊園地のお城の前とか、そういう場所で耀にかっこいいと思ってもらいながら、寝るのも惜しんで考えたとびきりの愛の言葉を渡したかった。現実はいつもの髪型にいつものスーツで、場所は世界会議に使う会場の味気ない廊下で、告白の言葉は全く思いついていないけれど。
「……アルフレッド、話しにくい……あるか? 嫌なことでもあったあるか?」
 震えた声でアルフレッドが泣いていると勘違いしたのか、耀は気を遣った丸い声色で話しかけてくる。
「……違うんだ。そうじゃないけど……」
「アルフレッド……こっち、向いて欲しいある」
 数秒、置いてからアルフレッドは意を決して振り向いた。心配そうに眉を下げていた顔が、アルフレッドの顔を見ると戸惑いの色に変わる。耀がそんな顔をしてしまうくらい、自分の頬は赤いのだろう。
 それでも、耀から目を逸らしはしなかった。耀の瞳の奥の奥まで見透かすような気持ちで耀を見つめた。もう「やっぱりなんでもないよ」なんて、言えないのだから。
 その視線に射られてしまったように、耀もまた、アルフレッドから目を逸らさずに見つめ返してくれる。
「耀、俺」
 手を伸ばして、耀の肩をそっと掴んだ。次に何を言われるのか、耀も薄々勘づいてきたらしい。ぷっくりした小ぶりな可愛い唇を真一文字に引き締めて、泣き出しそうに潤んだ瞳、淡い桃色に染まった頬。このままキスしてしまいたい。けれど、それより先に言わなければならないことがある。
 ロマンチックでカッコいい言葉は今も出てきてくれないが、むしろこれくらいが自分の告白には相応しいのかもしれない。かっこいいヒーローだって本性は、案外不器用で泥臭いものだ。
「君の……、――……君のことが、好きなんだ」
 アルフレッドの声はひどく震えてか細かった。自信がなくて恥ずかしくなって、目を逸らしたくなっても、俯くのはやめた。それが精一杯だった。
 アルフレッドの告白を聞いた耀は少しの間を置いてから、なぜか、安心したように息をつく。そして少し背伸びをして、アルフレッドの無防備な唇を奪い、笑った。
「ああ……、我もきっと、お前が好きだったあるね……」


 果てしなく広がる海を一望できる海岸沿いの展望台は、アルフレッドと耀の二人だけの世界だった。リングケースの中の指輪が、晩夏の陽の光を浴びてきらきらと輝く。
 結婚してほしい――。
 アルフレッドの言葉が、耀の脳内で繰り返される。
 【国】にとっての結婚は、人間の結婚とは意味が違う。それは国同士の併合を意味し、そこに恋愛感情が伴うとは限らない。政略的に二つの国が一つの国として在る体を取るとき、便宜上そういう表現をしてきた。
 アルフレッドの国と耀の国は海を隔てて大きく離れている。どちらも大きな国で、間違っても一つの国として併合する理由もメリットも何もない。彼の言う『結婚』が、【国】たちが今まで慣習的に表現してきた意味ではなく、人間と同じ意味であることを理解するまで、しばらくの時間を要した。
「……我たちにとっての『結婚』が、どう言う意味か……分かった上で、言ってるあるか……?」
 なんとか絞り出した言葉は、まるでアルフレッドを責めるような刺々しいものになってしまった。それでもアルフレッドはあの時と同じように、耀から決して目を逸らさないまま答える。
「分かっているよ。でも、俺の結婚の意味は違う。アメリカと中国、じゃない。アルフレッドと耀、として。君と一緒になりたいんだ」
「……そんなこと、言ったって……」
 ――アルフレッドと耀が恋人として同棲を始めようとなった時、当然と言ってはなんだが、話を聞いたアルフレッドの上司をはじめ周りからは散々反対された。国の化身として、【国】同士で恋愛とはいかがなものかと、周囲の目にどう映るか分かっているのかと。国の化身としての在り方を問われるだけならまだいい。アルフレッドと耀のそれぞれ生まれついたものを使ってまで二人の恋を批判する声さえ聞こえてきた。
 結婚なんて言い出したら今度はどうなることか。同棲の時の比ではないことは容易に想像できる。最悪結婚どころか同棲もやめて自国に帰ることを命令される未来も簡単に浮かぶ。欲張って平穏な日常を壊すくらいなら、今のままで居た方がいい――。
「わ……、我たち、【国】あるから……っ、一緒に住み始めた時だってああだったのに、今度はなんて言われるか分からないあるよ……!」
「耀」
 それでもアルフレッドは変わらなかった。変わらず、この恋の関係をもう一歩先へ進めようとしていた。
「大丈夫だよ。その時だって、ちゃんと君に言ったじゃないか」

 二人がアルフレッドの上司に呼び出されたのは、同棲の話も進み耀がアルフレッドのアパートに一緒に住む形にしようと決まりつつあった頃のことだった。
 当時のアルフレッドの上司は二人の同棲には猛反対の立場をとっていた。上司の執務室のソファに並んで座らされ、その正面からくどくどと反対理由を何十分も聞かされているとさすがの耀も気疲れしてしまった。自分の若い頃は何だとか国に尽くした過去が何だとか無駄話も多かったが、肝心の同棲反対の理由自体は感情任せの暴論と言い切れるものではなく、むしろ自ら恋愛を封じていた耀としては納得さえしてしまうもので、聞いているうちにどんどんアルフレッドと添い遂げる自信が削がれていく音が聞こえた。
 やはり国の化身たる自分に恋愛なんて――そう俯きかけた耀の肩を抱いたのは、耀を孤独という運命から救ってくれた人。紛うことなくアルフレッドだった。
「……俺たちは国だよ。国の化身として、果たすべきことは果たす。でも俺はアメリカという国であると同時に、アルフレッド・F・ジョーンズという一個人でもあるよ。それは君たち上司が俺にくれた戸籍が証明しているだろう? 耀も同じだよね、きっと。それならアルフレッド・F・ジョーンズとして、王耀として、好きな人を自由に愛する権利がある。違うかい?」
 アルフレッドがそう唱えると上司はすっかり黙り込んでしまった。だてに国の化身をやっていない。自由の国たるアルフレッドの家の人間は、自由の権利にひどく、弱い。
 上司がとうとう折れ、同棲の許可が降りて解放されると、アルフレッドは緊張の糸が一気にほどけたようで大きな欠伸をした。
「よかったぁ。はー、一時はどうなるかと思ったぞ」
「あ……アルフレッド。サラッと言ったように見えてたあるが……そんなに気張ってたあるか?」
「当たり前じゃないか。君の上司の龍と違って、俺の上司は政府から任命されて来てるお偉いさんだぞ。真っ向から歯向かうのは勇気がいるさ」
 でも――とアルフレッドは、いつものような人懐こい笑顔で言った。
「大丈夫、周りに何を言われたとしても、たとえそれがどんな奴だったとしても、俺は絶対、君を守るよ。俺は世界のヒーローだけど――君だけのヒーローにもなりたいから」
 だからこれからよろしくね、耀。俺はアルフレッド、君は耀として、ずっと。

 それは、アルフレッドの真摯な誓いだったのだ。
「――俺が守るよ。どんなにひどい言葉を言われても、どんなにひどい世界をぶつけられようとも。大好きな君のことを、俺は絶対、守るから」
「ッ、……アルフ、レッド……」
 アルフレッドはふっと微笑すると、静かに立ち上がった。本当は跪いたまま君に受け取って欲しかったけれど、と呟きながら、リングケースの指輪を取り出し、耀の左手をとった。
「これは誓いの証だぞ、耀。何があっても君を守るっていう、俺の誓い。だから君が俺を信じてくれるかぎり、これを付けていて欲しい」
 耀の薬指に指輪が嵌められる。爽やかな夏空と海の色をしたアクアマリンが輝く、耀の指ぴったりの、アルフレッドの誓いそのものが。
「俺は君を守る。君は俺を信じる。――この二つの約束を、俺は、結婚って呼びたいな」
 アルフレッドの顔が滲んで見えなかった。気づけばぼろぼろととめどなく溢れてしまう涙で、目の前の景色は何一つはっきりした形を捉えることができなかったけれども。アルフレッドと初めて出会った夏の日と同じ色をした空と海と、薬指で輝く宝石の鮮やかな青だけは、見えた。
「……わ、我は……っ、我はっ、アルが思うほど、そんな約束してもいいやつじゃ、ない……あるよ……っ」
「何言ってるんだい。数年一緒に暮らしてきたじゃないか」
「た、たった数年、あるっ」
「その前にも、二百年は付き合いがあっただろう?」
「ぁ……、で、でもっ、でも……っ」
「耀。俺はね、君に出会った時からずっと君が好きだったんだぞ。今まで色んなことがあったけど、君が好きって気持ちだけは、一度も揺らいだことはない」
 だから安心してくれ。アルフレッドは耀の濡れた頬を拭う。
「この星が消えるまで、俺は君を愛してるよ」
 瞬きをして涙が溢れると、晴れた視界に映るアルフレッドの瞳にひどい顔をした自分の姿が見えた。アルフレッドの大きな指でも拭いきれないほどの涙でぐしゃぐしゃになった顔。
 こんなに泣き腫らして醜い姿になっていようが、アルフレッドは自分を愛してくれるのだ。
 こんなに嬉し涙で頬を濡らしてしまうほど、自分はアルフレッドを愛しているのだ――。
「俺と結婚してほしい。耀」
 繰り返されるシンプルなプロポーズは、きっと彼が寝る間を惜しんで考え出した、とびきりの愛の言葉なのだろう。
「――……喜んで……ッ」
 あの頃と同じ焼き付くように鮮やかな夏空は、未来まで果てなく続きそうなほど澄み切っていた。


 さて。それから二人の暮らしに何か変化があったかと言えば、実のところ大した変化はない。朝は耀が早くに起きて朝食を作り、昼間は遊びに出かけたり他の国と会ったりして、買い物のカートはアルフレッドが押し、それから夜には愛し合って眠る。そんな変わらない平穏な日常の中で唯一変化があるとすれば、やはり互いの薬指に嵌められた指輪だろう。
 南窓から差し込む陽光があたたかい。白いレースのカーテンを揺らしながら入ってきた春風は、すぅすぅと寝息を立てるアルフレッドの柔らかな金髪を擽った。耀の膝を枕にしながら何の夢を見ているのか、ときどき不思議な寝言を口走る。左手で優しくアルフレッドの頭を撫でて、耀は陽を浴びてきらきらと輝く指輪に目を細めた。
 この命が終わるまで恋はしないと思っていた。今まで耀が見送ってきた【国】たちのように、誰にも知られないうちにふらりと消えるのが運命だと思っていた。
 今は違う。いつか耀が消えることになったとき、その隣にはアルフレッドが居るのだろう。四千年の果てに出会ったヒーローは、これから長い時を生きて、ずっと耀の手を握ってくれる。それは『きっと』とか『たぶん』ではない、この小さな指輪に込められた絶対的な誓いだ。
「……アルフレッド」
 この世界の何よりも愛しい彼の名を呼び、耀は身をかがめると。
「我、お前に恋をして、本当によかったある……」
 アルフレッドの唇に、そっと自らの唇を重ね合わせる。

 この命が尽きる時――地球が滅ぶその時は、どうか。
 愛しい君と手を繋いだまま、青く輝く星になりたい。

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