月下幻想
ヒーロー






 月の宮には永遠の命を手に入れた嫦娥(じょうが)という女神が一人住んでいて、その傍ではうさぎが一匹、不老不死の薬を作っている。
 何時この物語が出来たのかはもう覚えていないが、昔から月を見上げる時、耀はその言い伝えを思い出していた。生まれて十も満たない人の子たちや自分の家に訪れた日本に教え語ったり、遠い月の宮でうさぎとともに永遠を生きる彼女のことを想いながら酒をあおったりした。
 人類自ら星を打ち上げ地球を隅まで調べ尽くしてしまったような今となってはおとぎ話や迷信だと片付けられてしまうような話も、昔は伝説として確かに信じられていた。月の女神とうさぎもそのひとつで、言い伝えがそっくりそのまま真実だは思わなかったが、自分のように国を象った存在が居るのだから月を象った存在もあそこにいるのだろうと昔の耀は信じきっていた。【国】である自分が明らかに人の寿命を凌駕して何百歳と歳を重ねるごとに不老不死という言い伝えにも妙に納得がいき始め、その度にひとり孤独に生きているのであろう月宮の主に思いを馳せた。
 耀が生きた中には大勢の人や国があり、縁と記憶が書ききれないほど多くあった。それは古い葉を落とすようにだんだんと忘れていってしまうけれど、そこに何かがあったこと。それすら忘れてしまいたくはない。
 月宮の彼女はどうだろう。たったひとりでうさぎと共に永遠を生きる孤独に、覚えていたい縁も記憶もないまま過ぎていく年月に何を思っているだろう。
 そう思うと昇る月を眺めるたびに切なかった。今の自分はただ空を見上げて思いを馳せるしか出来ないが、遠い空に隔てられた先の、自分とよく似た不老不死の彼女のもとへ、いつか、逢いに行ければいいと思った。

 今宵は夜空をぽっかりくり抜いたように白く大きな満月が浮かぶ。
 今の耀は月を見ても嫦娥とうさぎが居るとは思わない。彼女に逢いたいという願いもない。月には灰色の砂漠がどこまでも広がっているだけだと知っているから。
 耀が長いこと――およそ三千年くらいは信じていた彼女とうさぎの物語は、ここ最近であっという間にそのヴェールを剥がされてしまった。あるいは舞台の幕を下ろされてしまったのかも。とにかく不老不死の仙薬や孤独なる女神や月で暮らす兎なんて夢物語は所詮は夢に過ぎなかったと知らされた。
 人類は月に手が届いてしまった。

『つまり君の家では、月にプリンセス・ジョーガが居るって信じられているんだね』
 耀が連合軍として動いていたころ、同じ月を見上げてそう言ったのはアメリカの化身たるアルフレッドだった。連合会議が長引いてしまったとある夜のこと、各々の家に帰る道中にその物語を聞かせてやったと覚えている。宇宙人やUFOを真面目に信じているアルフレッドは、耀の話す女神とうさぎもそれらと同系列のものだと解釈したのかすんなり信じてくれた。
『不老不死というのが、我たちと同じ【国】のような存在だという意味なら……』
『そのプリンセスは、あそこで一人で寂しがってるのかもしれないね。ヒーローの俺でも、まだ月に行くことは出来ないけれど』
 ――いつか彼女に逢いに行くよ。月のバニーガールなんて美女に違いないからね!
 アルフレッドは月光のもとでぱちんとウインクしてみせた。
 それからアルフレッドの家のアポロ11号が月面着陸を果たしたという報せが届くまでに長い時間はかからなかった。
アルフレッドは本当に逢いに行ったのだ。耀が数千年焦がれて届かなかった彼女のもとへ。
 そしてそれは同時に、月の宮などないという宣告でもあった。

 パーティー会場を抜け出した耀がバルコニーでちびちびと慣れない赤ワインを飲んでいると、「月が綺麗だね」と言いながら隣に立つ人影があった。アルフレッドだった。スパークリングワイン――に見立てたソフトドリンクだろう――は半分ほど飲んでいて、いつもと変わらず笑んではいるがどこか陰のある表情をしている。いくら彼でも立ちっぱなしで歩き回って話し続けていたら疲れたのだろう。熱に浮かされたように賑わうパーティーから離れて夜風に当たりに来たようだった。
 アルコールが回ってきた耀は「そうあるね」とひとこと返事をするとしばらくぽうっとした陶酔感に浸りたくなった。月を見上げながらため息をつくと隣のアルフレッドが「君、随分飲んだみたいだね」と笑う。
「やけ酒あるよ」
「何か嫌なことでも?」
「……月が綺麗なことが」
「ひねくれた理由だね」
 アルフレッドはあっさり流してワインもどきを口にする。
耀が一人で月を見上げていたのはアルフレッドのことも考えていたからだ。彼こそが月の宮の幻想を消してしまった。月を見上げるたびに浮かんでしまう複雑な心境を酒に流してもらおうと思っていたらちょうど悪くアルフレッドがやって来た。今に限っては見たくない顔だ。
 サンタクロースがいることを子供が無邪気に信じるように、月には彼女とうさぎがいるのだと耀は信じていたかったのかもしれない。わざわざ宇宙に星を撃ってまで夢を暴いてほしくはなかったけれど、それは耀の個人的な願望に過ぎなくて、月面着陸は人類の偉大なる功績として歴史に刻まれることになった。アルフレッドも胸を張って自分の輝かしい勲章だと言うだろう。世界で初めて月に手が届いた国ならば。
 だからほとんど八つ当たりの気持ちで耀はそっと切り出した。
「――月には不老不死の嫦娥という女神と、薬を作るうさぎが暮らしているある」
「……うん?」
 アルフレッドは耀の横顔を見つめてぱちぱちと瞬きした。蜂蜜のような色をした耀の瞳は丸い月を映したままアルフレッドを見はしない。
「女神はひとりぼっちで死ねないまま、誰もいない月の宮で生きている。そんな寂しくてきれいな物語を、我はずっと信じて月を見上げてたある」
「昔、同じことを聞いた気がするぞ。月に住んでるバニーガールの話は」
「ん、お前にも話したあるね。まだ月に夢を見れた時代に。我は長いこと、月に夢を見ていたある」
 その夢から我の目を覚まさせたのはお前あるが。そう言うとアルフレッドも月を見上げた。
「アポロの話かい?」
「そうある」
 アルフレッドは月を見つめ、しばらく口を閉ざしていた。背を向けたパーティー会場の話し声や食器の擦れるかちゃかちゃという音を遠くに、アルフレッドが次に口を開いたのは、涼しい風が羽のように彼の頬を撫でた時だった。
「――確かに、アポロが見たのは何もない月の地平線だけだったね。君が話していた月の宮も、孤独な女神も、月のうさぎもいなかった。生きるための酸素さえない星に、【国】がいるわけなかったんだ」
 事実は夢よりもずっと単純明快で寂しかった。結局アポロの月面着陸が決定打になっただけで、時代を経ていくごとに女神が幻想に過ぎないとは分かりつつあったのだ。
それでも遠い月の世界というミステリーに酔っていたかった。慣れない赤ワインはやはり進まない。
「……かわいい女を口説いてきたとか、そんなバカな話が届くものだと信じてたある」
 正確に言えば、そう願っていた。
「あはは、確かに居たらそうしてたかもね。でも、月に女神はいなかった。そう聞いて俺はすごく嬉しかったんだよ」
「嬉しかった? ……どうしてあるか」
「いなかったんだぞ。ひとりぼっちでうさぎと生きる、可哀想な女の子は。ヒーローが骨折り損だったんだ! これほど嬉しいことはないね!」
「――――……」
 ころころと笑うアルフレッドに耀は言葉を失い――それから、くすくす笑い出した。
 アルフレッドの手によって、耀は数千年の夢から目が覚めてしまったが、言い換えればもう月に夢を見なくてもいいのだ。孤独な女神を想って切なく思う必要もない。月の女神に魅せられた酔いは、そのうち夜明けとともに醒めるのだろう。
「お前のそのポジティブさは凄ぇあるよ」
「ネガティブはヒーローに合わないんだぞ。それに、耀。これは日本から聞いた話なんだけど」
「何あるか?」
「日本で月が綺麗だねって言うのは、君を愛してるって意味らしいんだ。ロマンティックな言い回しだろう?」
「へえ、そうあるか。……、……んっ? それ、お前さっき……」
「月への夢は終わっちゃいないってことさ! さあ、パーティーに戻ろうじゃないか!」
「ちょっ、ちょっと待つよろし! アルフレッド!」
 酒が回ってふらつきながら追ってくる耀から逃げるアルフレッドの頬は赤くて。ノンアルコールと分かっていながらアルフレッドは、酔っ払ったふりをしてグラスのワインを飲み干した。
月の光を溶かしたみたいな、綺麗な蜂蜜色だった。

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