言の葉の
モシュネ







 読書強化月間。これは、BASARA学園図書委員会が不定期で開催する、その名の通り読書強化――すなわち学園の図書室の利用を呼びかけるための特別期間である。期間中は学園掲示板に告知ポスターが掲載されているが、ただパソコンで文章を打ち込んだだけのコピー用紙に過ぎないそれは、ほとんど生徒の目に止まることはなく、誰も気付かないうちに色褪せ剥がされる。
 そんな目立たないポスターにも、目をつける生徒は居る。徳川家康はその数少ない生徒の一人だった。
 普段から図書室はまめに利用している。放課後、借りていた本を二冊返却した家康は、新しく借りる本を探しに本棚を見て回っていた。
 カウンターには、この図書室の司書を務める北条氏政が古い本を傍らにゆっくりと茶を飲んでおり、家康の他に生徒の姿はない。時々茶をすする音と家康の歩く音がするだけで、図書室は夕暮れ時の穏やかな空気に包まれていた。少し埃くさいような独特の匂いも心地よい。
 カテゴリ別に分けられた本棚の中で、家康は小説の並ぶ棚で足を止めた。本の虫――と言うほどでもないが、小説を読むのは昔から好きだ。つい先程返却したのはミステリー小説だったから、今度は別のジャンルがいいかもしれない。視線を流すと、ふと以前本屋で目にしたことのある小説がひとつ並んでいることに気が付いた。
(賞を取ったと聞いたな。恋愛小説だった気がするが……まぁ、たまにはいいかもしれないな)
 本屋では大きなポップが付けられて平積みにされていたような売れっ子本である。手を伸ばして、その恋愛小説を本棚から引き出す。
「――徳川殿」
「えっ?」
 呼びかけられて、家康は本を手にするとともに声のした方へ視線を向けた。この時間に部活はどうしたのか、スポーツバッグを肩にかけた隣のクラスの友人――真田幸村がそこに居た。
「真田じゃないか。部活はどうしたんだ? まだ終わる時間じゃないだろう」
「グラウンドがぬかるんでおりまして。中でのトレーニングも出来ないということで、今日の部活は無しにござる」
 そう言われてみれば、今朝方小雨が降っていたことを家康は思い出す。部活時にグラウンドを使用するサッカー部と野球部は、雨天の日はどちらかの部が校舎内でトレーニングをすることになっているが、今日は野球部がその権を勝ち取ったのだろう。サッカー部の幸村がここに居ても何らおかしいことではない。
「フフ、いきなりお前が現れて驚いたよ」
 微笑みで返した幸村は家康の隣に並ぶと、「小説を借りに来られたので?」と訊ねてくる。
「ああ。前はミステリーを読んだから、違うジャンルの小説が読みたいなぁと思って」
「徳川殿は読書家にござるな! 某は強化月間と見たので、なんとなく足を向けてみたのですが……」
 普段から本に触れている訳ではないらしい幸村は、本棚を見上げて眉尻を下げる。スポーツバッグを肩にかけ直し、ううん、と唸った。
「真田は本とか読む方か?」
「サッカーに関する本は読みまするが、こういった文学は正直……。どういった本がいいかも……」
 せっかく来たなら何か借りとうござる、と続けて、幸村は本棚をうろうろと見回し始めた。ただでさえ普段読書をしない幸村のことである。これではよほど気になるタイトルでもない限り、ずっと並行線を辿るのではなかろうか。
「……真田、もしお前が良ければなんだが」
「はい?」
「ワシの借りた本を読んでみるのはどうだろう。さっき返したばかりのものがあるんだ。取っ掛りとしてはいいんじゃないか」
「……おお! 名案にござる! して、その本はどちらに?」
「まだカウンターにあるはずだぞ」
 指し示された幸村がカウンターで氏政に話し掛けると、氏政はニコニコと上機嫌で、「本を読むのは良いことぢゃ」と添えて家康の返却した二冊の本を渡してくれた。普段図書室に訪れない生徒が来てくれたのがよほど嬉しいのだろうか、おまけにいちごミルクの飴玉までくれた。
 家康は恋愛小説を一冊だけ借りて、図書室を出た。生徒会の家康とサッカー部の幸村ではなかなか帰る時間が噛み合う日はないが、帰り道はほぼ同じだ。せっかくなら一緒にと、肩を並べて帰路に着く。
「それにしても、あのポスターを見ているのがワシだけじゃなかったとは……。目立たないから皆気づいていないものかと」
「某もじっくり見なければ見逃しているところでありましたぞ。ですが、普段はあまり使わない分、いいきっかけだったというか……、たまたま徳川殿とお会いできて助かり申した」
 幸村がそっと視線をスポーツバッグへやったのを見て、家康は微笑む。
「そうだ、その本面白かったから、お前も読んだら感想でも聞かせてくれないか? 同じ本を同じような時期に読む人なんて、身近じゃあまり見ないだろう」
「言われてみれば……、某でよければ、喜んでお引き受けいたしまする!」
「おお! ありがとう、楽しみに待ってるな」
 幸村が頷いたところで、分かれ道に出た。二人の自宅は、この分かれ道で別々の方向になる。
「もう暗いから、気をつけて帰ってくれ。それじゃあ、また明日な」
「はい、また明日……!」
 家康は軽く手を振ると、幸村に背を向けて歩き出した。その遠ざかる背中をしばらく見つめてから、名残惜しみつつ、幸村も歩き始める。
 少し湿気た土の匂いがする夕暮れ時。立ち止まった幸村は周囲に誰も居ないことを確かめ、スポーツバッグの中から二冊の本を取り出した。夕陽に照らされるそれらは、つい先程まで家康の手の中にあった物語。それを次に読めるのは自分。『感想を聞かせてくれ』と、また話せる約束まで交わせた。――そう思うと、幸村の頬は思わず緩んでしまうのだった。

◇◇◇

 図書室の本の返却期限は二週間と定められている。幸村はそれより少し早く、翌週の頭になると家康のもとへやってきた。
「それで、最後のトリックが分かった時は本当に鳥肌が立ち申した! 思わず最初から読み直してしまって……!」
「ああ、わかる! すごかったよな、あのトリック。まさか冒頭が全部伏線になっているとは……」
 幸村の熱弁に、うんうんと何度も深く頷く家康。昼休み、各々の机で昼食をとるクラスメイトの視線はチラチラと二人へ向けられている。普段よく食べる健康優良児のイメージの強い二人が、ミステリ小説の感想を語るあまり目の前に広げた昼食に箸を付けないなどなかなか見られない光景だからだろうか。
「あの、徳川殿がもう一冊借りられていた方の本なのですが! 偶然だとは思いまするが、探偵のセリフともう一冊の犯人の思いが重なっていて……、こう、もしやすれば罪を犯さずとも良かったのではないかと思ってしまい……っ」
「ああ、確かに……! すごいな真田、もう一回読みたくなってきた……」
 本の内容を思い出したのか、今度は涙ぐみ始めた二人を遠巻きに見つめているのは。
「…………」
 その黒い影は昼休みの賑わいの中、音もなく人混みから消えた――。

 それは翌朝のことであった。
 毎朝、徳川家康は誰よりも早く登校する。生徒会長として、学内の掲示板や廊下に置かれている花瓶――いつも誰かしらが破壊してしまう――に異常がないか確かめ、先生から依頼があれば新しい掲示物を貼ることもあるからだ。ほぼ自主的に行なっている、校内の美化活動と言えば良かろうか。
 そんななか、家康が見つけた【異常】は、校内でも必ず全生徒が目に入れる、玄関の正面にある校内掲示板に貼られていた一枚のポスターだった。
『読書強化月間! 文学を極めしもののふ、集え!』
 カラフルでビビットな配色、かつ筆で書いたようなダイナミックな字が踊るそれは、以前のようなコピー用紙の目立たない掲示物では決してなかった。題字の下には小さく丁寧に、学びのため読書を推奨する旨や、『生徒会長・サッカー部エースも積極的です!』などと言った売り文句までくっついている。生徒会長とは紛れもなく自分だし、サッカー部エースは幸村のことだろう。
(ということは……ワシらを見ていた誰かが作ったのかな?)
 手書きの文字は校内新聞で見たことがある字をしているから、おそらく新聞部の誰かだろう。こう自分を売り文句にされると少々恥ずかしくもあるが、悪い気はしない。図書室の利用が増えるならそれがいいと、家康はひとりごちた。
 ――そのポスターは家康が思っていた以上の効果を発揮した。最も効力を発揮したのは、目立つ配色でもダイナミックな文字でもなく、家康が見落としていた、売り文句の次の行である。
『期間中に読書量ナンバーワンだった生徒には、学食無料券一年分を贈呈!』
 もので釣る手段に出たらしい。ご丁寧に、借りて読まずに返すのを防止するためか、簡単な感想文を添えて返却してようやく一冊カウントになるようだ。面倒に思えるかもしれないが、この程度の手間など食べ盛りの高校生たち、それも破天荒なBASARA学園の生徒のことなら即座にこなしてみせるだろう。全ては学食のためである。
 昼休みの図書室は、もはや溢れかえらんばかりの人だらけ。本を共に返しに来た家康と幸村は、あの静かでゆったりとした図書室を想像していたのでその変貌ぶりに目を丸くした。
「すごい人だかりでござるな……」
「これでは返すのも一苦労だなあ」
 あまりの人の多さなので、少し落ち着くまで二人は図書室の前で待つことにする。幸村の手には二冊のミステリ小説が、家康の手には恋愛小説が一冊。
「そう言えば、徳川殿は何をお読みになったのでござるか?」
「普段はあんまり読まないんだが、恋愛小説だな。読みやすいし、思っていたより面白かった。でもお前に貸すには趣味じゃないかな……?」
「……い、いえ! 某、いろいろな本に触れてみとうござるっ!」
「本当か? 食券のことを考えなければ、今ここで交換すれば済む話だが……」
 家康も幸村の感想を聞いてもう一度ミステリを読み直したいと考えていたので、借りた本の交換は司書の氏政に後で話を通せば良いだろう。だが家康と幸村にとっても、学食無料券は魅力的な条件である。
「せっかくならば、もう少し待ってみましょうぞ。予定があれば話は別になりまするが」
「予定はないから平気だぞ。そうだな、もう少し待ってみようか」
「して……徳川殿。よろしければ、小説のあらすじのようなものをお聞かせくだされ」
「これのか?」
 家康が恋愛小説の表紙を見せて、幸村は頷く。家康は大まかな内容を思い出し、考えてから、
「舞台は普通の高校で、ヒロインが主人公のことを好きなんだ。だが、ヒロインはずっと昔から主人公を恋慕っていて……それが、前世からの恋だと主張する。でも主人公は何のことだか覚えていない。どうしてヒロインが前世から主人公を慕ってくれるのか、そもそも自分の前世って何なんだろうか、とか。いろいろな謎を解きながら進んでいく話で……ちょっとミステリーぽかったかな」
「なるほど……」
 神妙な顔をして頷いた幸村は、しばし思考する。もしかしたら前世とか通じてないんじゃないか、真田のことだし。そんな思考が過ぎる家康を前に、幸村はきゅっと結ばれていた唇の端を緩めた。
「前世からの愛の話など、ロマンチックにござるな。面白そうにござる!」
 少し意外だった。そもそも恋愛周りの話に苦手意識を持っているらしい幸村が、抵抗もなく恋愛小説に興味を示すことからそうだったが。本の話であれば平気なのだろうか。
 図書室の人が少なくなると、幸村は家康の借りていた恋愛小説を続けて借り、『また読んだら感想をお伝えしまする』と言って、昼休みも終わる頃の一組の教室へ戻っていった。
 その日の夜、自室で家康は幸村を経てもう一度手に渡ったミステリ小説を読み直した。しかし脳裏に、やけにチリチリと焼けるような違和感を覚える。
『前世からの愛の話など、ロマンチックにござるな』
 本を読んだ時は何とも思わなかったのに。なぜか、幸村のその言葉が脳裏から離れなかった。

 幸村は案外本を読むスピードが早いようだ。まだ週も終わらないうちに、またひょっこり二組の教室に現れて、昼食とともに家康に恋愛小説の感想を話してくれた。
「特に、二人が前世で殺し合っている仲だったと知るシーンは切なくて……、それでも今世ではただの高校生同士だと、過去を乗り越えて結ばれる展開は感動いたしましたな……」
 しみじみと語る幸村に、相槌を打ちながら聴きに徹する家康。家康が読んだときはまあまあ面白いくらいの評価であったが、幸村の感想を聞いているとなんだか自分が感じた以上に面白い本だったような気がしてくるのは不思議だ。幸村の話し方が上手いのもあるだろうが、もしやすると、それ以上の別の理由があるのかもしれない――。
「こんなところでござろうか? 面白い本でありましたぞ!」
 幸村がそう締め括ったのを聞いて、少し物思いに入りつつあった家康の思考が引き戻された。
「ああ……、それならよかった。でも意外だな。お前は恋愛系の話は全部苦手なんだと思っていたよ」
「た、確かに前田殿がするような話は苦手にござるが、徳川殿の読まれた本なら平気だろうと思いまして。それに、前世からの愛という話には、不思議と惹かれるのでござる。理由は分かりませぬが」
 幸村は頬を染めて視線を落とし、照れ隠しにようやく弁当に箸をつける。
「……半信半疑にはなりまするが、某にもそのような前世から続く愛が、縁があれば素敵だと……、そう思っているからかも知れませぬ」
 また、家康の脳裏にチリチリと焼けるような感覚がある。
「確かに、そんなものがあったら素敵だろうな」
 絞り出した返答の声が震えていないか、心配だった。

◇◇◇

 蝉時雨が心地よい、よく晴れた夏の日。深い緑に包まれた、古めかしい屋敷のような場所の縁側に、自分はいる。どうしてか自分の手は傷だらけで、和綴じと言っただろうか――博物館で見るような古い本を持っていた。題名らしいものはミミズが這ったような文字で自分には読めないはずなのだが、その字を『源氏物語』と読むことを、なぜか頭では理解できる。
「お前はもう■■は読んだか?」
 シャワシャワと鳴り響く蝉たちの喧騒の中、そう問いかけたことで、自分の隣にもう一人誰かがいることを知った。着流しを着ているから、男ではあるらしいが。
「いえ、まだ……」
 そう首を横に振った彼を真っ直ぐに見つめているはずなのに、彼の顔にだけノイズがかかったようにはっきりと認識することができない。
「それなら貸そうか、これ。あまり手に入らないだろうし」
「よろしいのでござるか!? ■■■がよろしければ、ぜひ!」
 だが妙に聞いたことのある声な気がする。自分は微笑んでその人に本を手渡した。
「次に■■に来られるのはいつになりましょう?」
「そう遠くないうちに来たいな。■■の■■が気がかりだから、それが落ち着いたら、になるかも知れないが」
 自分や相手の声にも、ノイズが走る。分からない。聞き取れない。否、この感覚は。
(思い、出せない?)
「なれば、それまでには読んでおきまする。また来られた際に、感想をお伝えしとうございます」
 一瞬だけノイズが消えた。向き合う人の顔が誰なのか思い出す前に――途端、視界が真紅に染まる。
「あ……」
 初めて声を発した感覚があった。というより傍観していた自分の感覚が一気にもう一人の自分と結合したようだ。立ちくらみのような感覚があった。
 真紅に染まった視界が、徐々に流れ落ちるように晴れていく。視界が晴れてもなお赤く染め上げられた自分の拳が真っ先に目に入る。だが、そんなことよりも。その拳の先で、地面に倒れている一人の青年の方に気が向いて。燃えるような紅の装束に、露出した青年の腹部から溢れる赤い液体が、じわじわと地面を侵食するように広がっていく。
 青年が事切れているのは、もしまだ生きていたとしても助からないのは、誰の目にも明らかだ。それをただ呆然として見つめている自分の中には、言葉で表すにはあまりに複雑で難解でどうしようもなくぐちゃぐちゃになった感情がぐるぐると渦巻いていて。
「……」
 自分は声を発しようとする。喉が震えるだけで、声にならないそれを。既に事切れたこの青年に、自分は何を言いたいのだろう。わからない。また思い出せない。
 でも、せめて、彼の名前、だけでも――。


「――――さな、だ……」
 そう友人の名を呼んだ自分の声で、家康は眠りから目を覚ました。夢の余韻が家康をまだ起き上がらせはしない。視界の先には、よく見慣れた自室の天井がある。
 不思議な夢だった。今の家康と幸村のように、夢の中でも誰かと本やその感想のやり取りをしていたこと。それに続いた真紅の光景は凄惨なものだったはずなのに、なぜかそれに拒絶感を感じないこと。言葉に表しようのない感情だけがあったこと。無意識に、幸村の名を呼んでしまったこと。
(……何だったのだろう)
 夢の内容をもう一度脳内でさらってから、深いため息をついて、家康はようやく身体を起こすことができた。ベッドから降りるのも苦痛に思うくらい体は重かったが、なんとか気力を振り絞って家康は朝の支度を始める。だが習慣にしている朝食と弁当作りまでする体力はなく、菓子パン一つと水だけの簡素な朝食を済ませ、昼食は学食か購買に頼ることにして、家康は自宅を出た。時刻はとっくにいつもの登校時間を過ぎている。今日は金曜日たから、帰ったらすぐベッドに倒れこむとしよう。

「なんか元気ないけど、大丈夫かい?」
 登校してすぐ。家康の顔色を見て挨拶の次にそう尋ねてきたのは、玄関口でぱったり会った一組の前田慶次であった。
「ああ……大丈夫だ。少し寝過ごしてしまっただけで、なんでもないぞ」
「そう? ならいいけど……あの家康でも、俺と同じ時間に来るなんてことがあるんだねえ」
 朝から呑気に笑う慶次は、部活動に所属していないことと元来の性格もあってか、ホームルームは大体不在、始業ギリギリに教室に滑り込んでくる日の方が多いらしい。まだ少し余裕のある時間に登校している分、慶次としては今日は早く来た判定なのだろう。隣に並んで教室に向かう間、「早く来るのって楽なんだなあ」とぼやいているくらいだ。
 そういえば、慶次は幸村とは対照的に恋愛まわりの話題を好んでいる。物理教師の雑賀先生に首ったけなのは有名な話だが、女子に混じって恋バナに花を咲かせることもあるようだし、こっそり彼に恋愛相談をする生徒も多いと聞く。それ故に、家康は以前幸村と交わした会話を自然と思い出した。
「……なあ、慶次」
「何だい?」
「お前は……前世からの恋とか、縁とか、そういうものがあるとは思うか?」
 途端に慶次の目の色が変わり。
「まさか家康好きな子居るのっ!?」
 興奮気味に鼻先が触れ合いそうなほど迫られ、慶次の嬉々とした声が朝の廊下に響き渡った。廊下にいる生徒の視線がほぼ全てこちらに向いているのをひしひし感じつつ、家康は首を横に振る。
「い、いや、そうではなくて。この前真田とそんな話をしたものだから……」
「なんだあ」
 慶次は露骨に肩を落とす仕草をするが、「まぁ」と持ち直して顎に手を当てる。
「前世かぁ……もしあったら良いなぁとは俺も思うね。実際どうかなんて確かめようがないから、なんとも言えないけどさ。生まれ変わって、違う世界になってもまた出逢える……。そんな素敵な縁があるかないかを考えるよりは、俺はあるって信じていたい、かな」
「……そうか。ふふ、お前らしい答えだな。ありがとう、慶次」
「どーいたしまして」
 話に区切りがついたところで、教室の前までやって来た。「好きな人できたら教えてね!」と陽気に言い残して、慶次はホームルーム前の一組の教室へと入っていく。家康も二組の教室に入り、自席に荷物を下ろして支度を始める。教室いっぱいを満たすこの声たちの中に、もしかしたら前世の自分が聞いた声もあるのかもしれない。
 ――それは、必ずしも【素敵なこと】とは限らないのではないか?
 ふと浮かんでしまった疑問を振り払うように、家康は軽く首を振った。

 朝方にはなかった厚い雨雲が徐々に空を覆い始め、午後の授業が始まる頃にはポツポツと雨音が聞こえるようになった。次第に雨足は強くなり、放課後になると生徒会室の窓の外はすっかり白んで見えなくなるほどの大雨となってきていた。今日は別の用事があるらしく不在の忠勝は、あの装甲が雨で壊れていたりしないかと少し不安になる。忠勝ほどの巨体では普通の傘をさせないのだ。
「みんな、この雨だから、何か帰宅に不安があれば遠慮なく言ってくれ。身の安全が第一だ」
 家康がそう言うと、電車が止まりかねない遠方から来ている生徒会役員が何人か帰宅を申し出て、生徒会室に残ったのは家康を除いて二人となった。一人は会計担当の男子生徒、もう一人は生徒会副会長を務めている友人の石田三成である。
「今日はのんびりやろうか。ワシらしかいないし、仕事もそんなに多くないから」
 家康の優しい言葉にホッとした顔で「はい」と返事をする生徒と、無愛想にフンと鼻を鳴らして返事とする三成。三成は相変わらずだなあと苦笑しつつ、家康は今日の仕事に着手する。
 しばらくは生徒会室にカリカリと三本のシャーペンの音が聞こえ。そのうちの一つがぴたりと止まったかと思うと、
「……何だ。言いたいことがあるなら言え」
「あ……、いや、その、そういうわけでは」
 家康は顔を上げて三成たちに視線をやった。訝しげな視線を投げたあと、元の作業に戻った三成とそれを見てなおもきゅっと唇を引き締めてうつむく生徒。
 生徒会役員の中には、家康と違い無愛想な三成を怖がっている生徒も少なくない。二人の席の距離が近いからか、会計担当の生徒はチラチラと三成の様子を気にしていたようだ。
 それを見兼ねて家康は、
「……そうだ。すまないが、武田先生にこの資料を届けてきてくれないか? 職員室か、校舎のどこかでサッカー部と一緒にいると思うんだ」
「は、はい、行ってきます」
 彼に何枚かサッカー部の活動や部費に関する資料を渡し、生徒会室を後にさせた。武田先生が職員室に居れば早く帰ってきてしまうだろうが、サッカー部と一緒であれば先生を見つける為にしばらく校舎を歩き回るだろうから、無理を押して苦手な三成と一緒にさせなくても良い。彼が帰ってきた頃を見計らって今日の作業は終わりにしてしまおう。
 生徒会室には家康と三成の二人だけが残される。何か言葉を交わすでもなく、二人は互いの目の前にある紙の束に手をつけていった。
 その後も家康と三成の間に会話はなく、紙を捲る音と窓を叩く雨粒の奏でる音楽だけがあった。三成とはこの学園に入る前からの友人であるので、特別会話をしないと気まずくなるような間柄ではない。作業に集中している三成に声をかけたらむしろ苛立たせてしまうだろう。
 少し気難しいところがあるとよく言われる三成だが、家康は特別そう思ったことはない。何をすれば三成が怒り、何をすれば及第点になるのか、三成のその独特な線引きが、家康には手に取るように分かる。自分で言うものではないだろうが、反りが合う性格同士でもないだろうに。
(もしかしたら三成とも、前世のどこかで出会っていたのかな)
 そんな空想もしつつ、家康は細かな作業がひと段落つくと、自分のところに届いている生徒たちからの要望に一つ一つ目を通した。
(元親からまたバイク通学の許可が欲しい話と、毛利から今後もバイク通学を禁止してほしい話が同時に来ているな……、あとは鶴姫殿から占い同好会の部活動化の申請と……)
「……、」
(学食のメニューに鍋を増やしてほしい意見……これは金吾の字だなあ。それと、旧校舎のある場所をグラウンドにできないか……。確かに実現すれば、野球部とサッカー部が争うことも無くなるな。これは先生に意見を上げるとして)
「…………す、」
(あとは園芸部の花壇の整備に、宇都宮から猫を連れての通学許可……これはどうかなあ、それと)
「――――家康ッ!!」
「うお!?」
 三成の鋭い声色が鼓膜を刺し、家康は肩を跳ねさせた。見ると、不機嫌そうに顔を歪めた三成が「客だ」と一言、生徒会室の入り口に目をやる。家康も続いてそちらに視線を投げれば。
「……真田?」
「も、申し訳ありませぬ、まだ仕事があるようであれば……」
 三成の声に少々気圧されたのか、肩をすくめて生徒会室を覗き込む幸村がいた。いつの間にか会計担当の生徒も帰ってきている。時計を見ると、家康が思っているよりずっと針は進んでいた。
「いや、今日はそこまで忙しくないから平気だぞ。三成、キリが良ければ今日は帰ろう」
「……別に構わんが」
 三成が机の片付けを始め、家康や会計担当の生徒も荷物をまとめ始める。家康がドア前で待つ幸村に「少し待っていてくれ」と言うと、幸村は微笑んで頷いた。

「徳川殿にまた本を選んでいただきたく……」
 図書室への廊下を進みながら、幸村は生徒会室に現れた理由を簡潔に告げた。今日はなんと野球部とサッカー部が妥協案を出し、部活時間を前後半に分けてそれぞれ今日の部活に励んだらしい。じゃんけんの結果前半がサッカー部になったからあの時間に生徒会室へ来れたのだと言うが、家康はそれよりあの野球部とサッカー部が妥協案を出せることにしばらく衝撃を引きずられているのだった。
 そんなことはさておき。この雨天と時間もあってか、学食目当ての生徒で溢れかえっていた図書室はまた穏やかな雰囲気を取り戻していた。読書スペースには警備員の立花宗茂が顔を出し、氏政とともに急須で入れた茶と煎餅を片手にくつろいでいる。それを邪魔しないよう、二人はまた小説の棚の前へやってきた。
「某だけで借りようと思ったのですが、どうにも悩んでしまい……、徳川殿はいつもどのように本を選んでおられるのでござるか?」
「気分で選ぶこともあるし、何かで見たからもあるなあ。小説に限らないなら、実用書も読まんことはないが、あれは勉強のために読んでいるようなものだし……なんだろう、小説はそんなに気にして選んでないな。ピンときたら選ぶ感じで」
「ピンときたら……」
 幸村は本棚を見上げて家康の言葉を辿々しく復唱する。
「本の色とかタイトルの単語とか、些細なものでいいぞ。難しく思う必要はないさ」
 家康の言葉を受け、最初にここで鉢合わせた時のように、幸村は本棚を見回し始める。あの日のように何も分からず頼りない目はしていないから大丈夫だろう。家康も気になる本がないか探し始め、しばらくしたとき、幸村があっと声を上げた。
「何か見つけたか?」
「は、はい。少し……気になっていたものを」
 幸村が背伸びをして本棚の上の方に手を伸ばす。幸村の身長では、ギリギリ指先が届かない高さだ。自分の背丈ならなんとか届くかもしれないので、「どの本だ?」と家康は尋ねた。幸村が指を伸ばし、
「あそこの、『源氏物語』を」
 そう、言葉にした。
「――え、」
 ジリジリと音を立てて、脳内が焼けるように、爆ぜた。その爆発と合わせて、【誰か】の記憶が家康の脳内に激流のように流れ込んでくる。

『お前はもう【若紫】は読んだか?』
『いえ、まだ……』
『それなら貸そうか、これ。あまり手に入らないだろうし』
『よろしいのでござるか!? 【徳川殿】がよろしければ、ぜひ!』

 そう、自分から本を受け取って微笑むのは。
「……徳川殿? いかがなされた……?」
 紛れもなく、目の前にいる真田幸村で。
 幸村に何か返事をせねばならないと家康は喉奥を震わせるが、それは声になってくれない。心配そうにこちらを覗き込んでくる幸村に、泣き出しそうな顔を無理矢理抑え込むこともできなくて。
「……、す、まん、……」
 なんとか捻り出したその声に、幸村は困惑しつつも首を横に振った。
「……少し、……休み、たい……」
 そう告げると、体調でも悪くしたと考えたのだろう。幸村は読書スペースの椅子まで、家康の体を支えて歩いてくれた。

 遠くから幸村たちの話し声がする。なおも絶えず訪れる記憶の濁流は、彼らが何を話しているのかと向ける意識や思考を呑み込んでいた。走馬灯にも近く、早送りのビデオのように流れるそれになんとか耐えていると、コトリと軽い音と共に香った良い匂いに、家康は俯いていた顔を上げた。
「ハーブティー……にござる。立花殿が淹れてくださりました。気分が落ち着くそうでござる」
 ティーカップがなかったのだろう、代わりに茶を淹れられた大きなマグカップでは春の新芽のような澄んだ色の水面が揺らいでいる。家康の隣の椅子に座った幸村はひと呼吸置いてから、
「この雨でありまするし、ここも開けておいてくれるそうなので。ゆっくりと、徳川殿が落ち着いてから、帰りましょうぞ」
 優しく穏やかに、そう告げた。
「……すまない、急に、取り、乱して」
「いいえ。……もう少し楽になったら、無理のない程度で構いませぬ、某に訳をお聞かせくだされ」
 家康は小さく縦に頷いたものの、幸村にこれをどう言葉にして話せばいいのか、分からなかった。
 前世の記憶を思い出した。そこにお前もいたんだ、なんて。

 家康の前世。それは今の自分と同じ名を持つ戦国武将、徳川家康その人であった。徳川という姓を持つ以上、徳川家の血を自分が引いていることは昔から知っていた。だが、まさか、先祖で一番偉大とも言える存在が自分の前世であるなど、思うわけがない。
 蘇った前世の記憶ははっきりとした輪郭を持っていて、記憶一つ取ればその時感じた感触や匂い、音や視界のその全てを鮮明に思い出すことができた。ゆえに家康が今朝方に見たあの夢も不思議な夢ではなく、前世の記憶がつぎはぎに再生されたものであることを理解した。あれは、かつての幸村――――戦国武将真田幸村と交わした記憶だったのだ。
 家康と幸村はそれぞれ徳川家と武田家として敵対関係にあったものの、領地が近いことや共に武田信玄を師と仰いでいることもあり、互いの居城に顔を出すこともあったらしい。その時二人を繋ぐものとして、本のやり取りをしていたのだ。ほとんどは家康が読んだ本を幸村に貸し、読み終わったら家康へ返すか時には譲ってもらう。とはいえこれでも敵対者なのだから、貸し借りをするのは専ら古典文学など創作物の本だったが。
 武士階級の者くらいしか本を読めず、それも兵法や戦術書などといった戦に関するものばかりであった時代。文学を教養として堅苦しく身につけるのではなく、純粋に楽しむためだけに読んでいる存在など、互いしか居なかった。だから家康も幸村も、時々領地へ赴いては読んだ本の感想を伝え合う関係に、とても心安らいでいて。元より気質が似通っている相手だからなおのこと、同じ物語を、同じ言葉を、同じ思いを共有できる時間というのが、家康の人生の中でも色濃く幸せな記憶として残っていたのだろう。生まれ変わっても、同じことを繰り返すほどに。
 だが戦国時代という運命は、二人の淡い幸せを容赦無く引き裂いた。それは唐突に、何の前触れもなく。
「武田が、……真田が、西軍に……?」
 幸村がなぜその選択をしたのか。結局それを本人の口から聞くことはなかったが、今ならばなんとなく察せられる。
 信玄が病に倒れた後、幸村が総大将となった武田は、正直なところ衰退を辿るばかりであった。幸村自身が未熟だったこともあったのかもしれないが、それ以上に、武田をはじめとする東国の各地に豊臣の侵攻が続いていたのが原因だったろう。
 西国で最も強大な勢力であった豊臣軍。亡き豊臣秀吉の影にすがり、なおも豊臣の威光を妄信し軍を率いていた石田三成。その側にいた大谷吉継は、徳川と領地の隣接する武田に目をつけた。
 武田が持つ甲斐と信濃には大きな街道が通る。武田を西軍に引き込むことでそれを抑えれば、伊達や最上といった東国の各軍が進軍するのを防ぎ、徳川軍への牽制にもなるだろう。場合によっては、武田自ら北東側から三河へ侵攻させることだって出来る。たとえ時間と費用がかかっても、取っておいて損はない国。そのような理由で、武田は豊臣の侵攻を最も受けることとなった。
 総力を挙げて迫ってくるわけではない。だが、期間を空けず立て続けに起こる小規模な戦への対応に兵糧をはじめとする資源はじりじりと削られ、休む間もなく戦わされる兵の疲労は溜まる一方だった。かといって領地に攻めてくる敵を無視するわけにもいかない。困り果てた幸村に、大谷吉継は囁きかけるのだ。
 度重なる豊臣軍の侵攻により国力を失っている武田など、自分たちがその気になれば呆気なく潰せる。だがもし此度の戦で西軍につけば、領地の安堵と民の命は保証する――そんな半ば脅しのような交渉を。
 幸村は長い時間をかけて豊臣軍に苦しめられたこともあり、豊臣の真の恐ろしさ、もしそれが領地に迫った時の惨劇など容易に想像ができた。これ以上民に苦しい生活を強いるわけにはいかない。西軍を選ぶことで安寧が保障されるなら。そうして、西軍につく決断を下したのだ。
 ――ここで、豊臣と肩を並べる大勢力となった徳川と武田で手を組み、共に豊臣に立ち向かう選択もできたはずだ。だが三河・徳川領もまた豊臣軍への対応に追われ、東国をまとめ上げる一大勢力として家康は忙しなく動いていた。幸村と趣味で本のやり取りをする時間は、なんとか暇を作り上げた上で出来たことだ。幸村には、そんな家康に甲斐武田の支援という任務まで背負わせて迷惑をかけたくないという思いもあったのかもしれない。今となっては想像するしかできないが、素直で義理深い幸村ならばそう考えても不自然ではなかった。
 決して家康を恨み嫌って西軍についたわけではないと、あの時の彼も証明してくれた。領地で咲いた花を綺麗な押し花にして、家康から借りていた本と手紙に添えて返してくれた。もう本のやり取りはできないが、もし叶うのであれば。敵も味方も無くなった時代で、また本のやり取りをしたい。この本の感想を聞いてほしい。手紙にはそう綴られていた。
 嬉しかった。皆が苦しみ悲しむ戦国の世が終わった先で、優しくささやかな幸せをまた共にできるのなら。それもまた、家康が自ら痛みを背負い、戦う理由になる――。
 だが、運命はそんなささやかな願いも容赦無く打ち砕く。
 関ヶ原の戦いが終わり、勝利した家康が天下人となったあと。秀吉を失い、三成を失ってなお未だに豊臣を信奉する者は息の根を止めていなかった。西国を中心に点在していた彼らはやがて大坂城を拠点として集まり、反徳川への計画を練り始める。その総大将として祭り上げられたのが、西軍の武将の中でも際立って活躍した真田幸村だった。
 自身の願いと裏腹に、幸村は家康と真っ向から敵対し、戦わざるを得なくなる。あの幸村を擁し立てた自分たちなのだから、秀吉様も三成様も倒した憎き家康もきっと殺せる。そんな狂気にも近い盲信で生きる彼らを血を流さずに止めるなど、幸村にもできなかった。
 どちらかが死なねばならない。
 そんな戦国の理を、なおも息づく戦国の世の亡霊を、殺すために、家康と幸村は殺し合った。言葉など要らない。発してはならない。この胸に抱いた想いを伝えてしまえば、目の前の敵対者を殺そうとする身体が動けなくなってしまうだろうから。
 がむしゃらに、相手の命を刈り取るためだけに存在した二人の戦いに。かつて同じ師を仰ぎ、等しく継いだ虎の魂も。蝉時雨の心地よい中で交わし合った、同じ物語で思い共有した感情も。ささやかで優しい時間も、いつしか待ち侘びた幸福も、何もかも、すべて。――そこにはなかった。
 勝者は、徳川家康。その地に倒れ、息絶えるのは真田幸村。侵食するように地面を赤く染め上げる彼をただ茫然と見つめて、感じていたのはどうしようもない喪失感だった。空っぽの思いだった。ぐちゃぐちゃの思考はいつしか糸が切れたように止まってしまった。
 真田。言ったじゃないか。西国の情勢が落ち着いたらまた来ると。言ってくれたじゃないか。またワシが甲斐に来たら、あの本の感想を伝えたいと。ワシはまだ、あの押し花と共に返してくれた本の感想を、お前の口から聞いてないんだ。
「……、…………」
 血を流しすぎて、風に晒されて、もうひやりと冷たくなりつつある幸村の遺体に、家康は近寄り膝を折った。幸村自身から溢れた血潮が黄金色の装束を汚したって気にも留めずに、家康は幸村の固く握り締められた手の指を一つ一つほどく。最期まで手放すことのなかった槍をそっと下ろさせて、空いた右手に、自らのボロボロで赤く染まった傷だらけの手を重ねた。ひどく、ひどく、冷たかった。
「……」
 言いたいことはたくさんあるのに。ワシは口下手だからかな。上手な言葉が出てこないんだ。でも、もし、来世がワシらにあるのなら。その時はもう一度、ワシに出逢ってくれるかな。なあ。
「――――さな、だ……」

 何も言わないままどれほど時間が過ぎたのだろう。ずっと長く、数百年にも思えたし、あるいは十数分とかそのくらいの短い時間にも思えた。とにかく、いつの間にか机には幸村の分のカップや茶菓子まで置かれていて、家康が最初に淹れてもらったハーブティーはとうに冷めていた。
「……いかがにござるか?」
 ずっと虚ろに下を向いていた視線を机上に向けた家康を見て、幸村が控えめにそう尋ねてきた。彼はずっとこうして、自分の隣で待ち続けてくれていたらしい。
「……落ち着けた、かな。さっきよりは、……本当に、すまない」
「謝らないでくだされ。徳川殿は悪くありませぬ」
 そうは言っても、どれほど幸村を待たせてしまったのだろう。時計を見やると、そろそろ部活動が終わって最終下校時刻も近い頃だった。場所は離れているが、まだ立花も氏政も図書室に滞在している。それは少し安心した。
「訳を話すのは……長くなりそうでござるか?」
「……ああ、そうだな。ここではきっと、語りたくても尽くせないほどに」
 それを聞いて幸村は、なぜか少し頬を染めて。ひと呼吸置いたあとに、
「なれば、……徳川殿が宜しければ、某の家に泊まりませぬか」
 少し緊張した面持ちで持ちかけてきた。

 学校から幸村の自宅は、家康の自宅よりはわずかに近い。招かれた彼の家には先に帰宅していた同居人の猿飛佐助。部活の後に図書室に寄ると言って別れた幸村がなぜか家康を連れて帰ってきたことに驚いていたが、家康のらしからぬ様子を見るに何か深い事情があったのだろうと察して迎え入れてくれた。
「あったかいものでも食べて元気出しなよ。もう少し待ってて」
 ちょうど夕食の用意をしていたらしい。通されたダイニングキッチンで、佐助がせっせと料理を作り動き回る背中を、家康はぼんやりと見つめていた。積まれた皿のそばにシチューの素が置いてあるから、今日はシチューのつもりなのだろう。
 佐助とも、前世で出会っていた仲だ。甲斐に赴くたび幸村たちと合わせて顔を見ていたし、何せあの幸村を殺した戦では幸村の影武者となって奮戦していたことを、家康ははっきりと覚えている。
 詳しい事情は知らないが、彼は今世でも幸村の世話を頼まれている立場だそうだ。もし彼に記憶があるとしたら、幸村を殺した自分にあたたかな手料理を振る舞ってくれるなど有り得ない話だろう。それこそ、今ここで主君の仇と殺されたって仕方がない。
 制服から着替えた幸村がダイニングキッチンに戻ってくる。家康を見て「徳川殿の服のサイズは何にござるか?」と訊ねてきた。
「そんな、着替えなんて、やっぱり……」
「泊まるんでしょ? 気にしないでいいよ。旦那の服が入らなかったらお館様のもあるからさ」
「佐助の言うとおりにござる。今夜はどうか気を休まれてくだされ」
「……そうか、すまないな、ありがとう」
「先にお風呂入っちゃって、もう少しかかるから。旦那はドライヤーの場所とか色々教えてあげて」
「ああ、分かった。徳川殿、こちらへ」
 幸村の後をついていく形で家康はバスルームへ案内される。何から何まで手厚くされてしまい申し訳なくも思えたが、遠慮を重ねても幸村と佐助を困らせてしまいそうだから、素直に厚意に甘えることにした。
 本来なら幸村が入るために佐助が用意していたのだろう。ライムグリーン色をした湯船に浸かり、家康は自分の身体が芯まで冷えていることをようやく自覚した。いつもシャワーを浴びるだけで済ませているので、肩まで浸かるお風呂は心地が良かった。
 風呂から上がり幸村の用意してくれた服を着て、ダイニングキッチンに戻ってくると、テーブルの上には佐助手製のシチューやサラダに、小さなロールパンが山になった籠が並べられていた。
「あ、良かった。ちょうど出来たとこだから、旦那の隣で食べな」
「……ありがとう、すまないな」
「ありがとうだけで十分。さ、早く食べちゃお」
 ダイニングテーブルのそれぞれの席につくと、佐助と幸村が手を合わせてスプーンを取った。家康がその様子を見て、ためらいがちにシチューの皿へ視線を落とす。スプーンに手を伸ばすのが少し躊躇われて。
「毒なんて入れちゃいないよ」
「え、」
「今はあんたも俺様も、ただの一般人なんだから」
 家康の様子を見て、けろりと、確信をもって紡がれたその言葉に。家康の視線は佐助に一点、動揺の色をもって注がれる。
「……さる、とび。お前、まさか」
「当たり。旦那がお風呂入ったら、俺様とも話そっか」
 佐助が浮かべた人当たりの良い笑顔に、敵意や憎しみは感じられなかった。家康は頷いて、ようやく佐助の手料理に口をつける。幸村は二人の会話に首を傾げていたが、家康が食事を始めたのを見て安心した様子でロールパンを手に取った。

 幸村が入浴を済ませているあいだ、夕食の片付けと共に佐助はそっと切り出した。
「思い出したんでしょ。昔のことをさ」
「……ああ。放課後、真田と一緒にいた時に思い出してしまった」
 スポンジを泡立たせて、佐助は水で軽く汚れを流した皿を擦り始める。
「いきなりだとびっくりするよね、俺様もそうだった。いきなり知らない人間の人生が入り込んで、それが戦国時代なんてものの記憶だったら、余計にさ」
 あの時は参っちゃった、なんて世間話でも持ちかけているかのような気軽さで佐助は語った。
「お前は、いつ思い出したんだ?」
「去年だよ。おたくらや真田の旦那が入学してきて……秋頃だったかな」
 皿洗いの手を止めないまま、そう家康に返答する。それなら、停学処分となった秀吉の後継として家康が生徒会長に就任したころだろうか。全く気づかなかった。佐助が自分らに見せる態度や振る舞いは、出会った時から今までずっと変わっていない。
「……お前は、すごいな。どうして記憶が戻る前と同じように振る舞っていられるんだ」
「そりゃあ、最初はちょっとあの頃に引き摺られそうになったけど。よく考えたらあの学園の生徒とか先生って、みんなあの頃戦ってた同士でしょ? いちいち恨んでたらやってらんないよ」
「……ワシはまた話が違う。ワシは昔のお前を、お前の主君を、この手で殺した男だぞ」
 一瞬だけ皿を洗う手が止まったが。佐助はすぐにそれを再開して、言葉を続けた。
「そうだね。あんたは俺様を殺して、旦那を守る使命を果たさせてくれなかった。旦那も殺した。魂だかなんだか知らないけど、俺様、あんたが真田の旦那を殺すとこ、死んだはずなのに見てたんだよ」
「それなら余計だ。なぜワシを恨まない」
「恨むべきじゃないって思ったからだよ」
 擦り終えた皿をまた一つ積み重ねた。
「あの時の俺様は日陰を生きる忍びだったわけだし、太陽そのものみたいなあんたのことは好きになれなかった。今だって旦那が友達だから付き合ってるくらいで、特別好きなわけじゃないよ」
「……ああ」
「でも、真田の旦那と本のやり取りしに来てくれた時にさ。俺様の作ったお団子、何も気にせず食べてくれたでしょ。うまいうまいって言いながら、ほんっと無防備に、考えなしに手伸ばして。今の俺様よりずっと、あんたに毒を盛ってもおかしくなかったよね?」
「……そう、いえば」
 家康が甲斐に来た時、いつももてなしとして佐助がお茶と団子を持ってきていた。幸村が『佐助手製の団子が一番にござる』なんて言うものだから家康も気にせず食べていたが。今思えば一国の主が毒味も頼まず敵国の忍びの手料理を口にするなどあまりにも無防備なことで、佐助からすれば確かにあり得ない光景だったろう。
「忍びに私情は要らないって分かってたけどさ。俺様の身分が身分だから、せっかく作ったのに食べてもらえないことも多かったんだよ。信用ならない、こんなもの食べられるかって」
 家事できるのが俺様しかいないのも問題だったと思うけど、と今だから零せる愚痴を吐いた後に続けて、
「――だからかな、俺様の作ったものを美味しいって食べてくれたあんたも、真田の旦那を殺した後で、泣いて弔ってくれたあんたも。……どうしても、嫌いにはなれなかったなあ」
 情に絆されたかつての冷酷な猿は、懐かしく愛おしい思い出を語るように、丸くなった柔らかな笑みを浮かべた。
「だから、むしろ……ありがとね。あんたが居なきゃ、あの戦国は終わらなかった。みんなが同じ学校にいるなんて奇跡も起きなかった」
 身分の差などなく、ただの友人として幸村と共に居れる。かすがにも、背負った運命に振り回されずに恋ができる。気に食わない政宗なんかとも、なんだかんだでお友達。家康が思うよりずっと、現代を生きる佐助は幸せで。BASARA学園で同じ時を生きる他の皆だって、あの戦乱の世を生きるよりずっと平穏であたたかな幸せを享受している。もう二度と、時代や宿命や因果なんてものに縛られ悲しまずとも良いのだ。
 それは、あんたのお陰様。
 そんな想いとともに、佐助は家康を、赦し感謝する道を選んだのだ。
「今世じゃみんなで幸せになりましょ。こうしてまた巡り会えたなら」
「……ッ、」
「ほら、泣かない泣かない。旦那が見たら俺様が泣かせたと思われちゃう……」
「佐助、なぜ徳川殿が泣いているッ!?」
「ああもう、噂をすればなんとやら……」
 佐助は呆れたようにぼやき、濡れた髪を拭うのも忘れて詰め寄る幸村を適当にいなしながら皿の泡を流した。

 家康に用意されたのは幸村の自室の隣にある空き部屋であった。もともとは幸村の両親が使っていた部屋らしく、シングルベッドが二つ並んだうちの一つにシーツをかけてベッドメイクがされている。髪を乾かした幸村と家康は、そのベッドに並んで腰掛けた。
「それで……佐助にはもう訳を話されたのでござるか?」
「というか、猿飛の方が察してくれたな。あいつは昔から勘が鋭いから」
 さようにござるか、と頷いた幸村はやはりどこか腑に落ちないところがあるらしい。彼本人や佐助の様子からして、幸村はかつての記憶を思い出してはいないようだ。
 それに幸村は、仮にも家康自ら殺してしまった相手である。すでに記憶を取り戻した佐助のようにありのまま全てを話すのは気が引けてしまったが、佐助に話して自分には話してくれない事情とは何なのかと幸村が寂しそうに瞼を伏せたので、家康は言葉を選びつつ幸村にもきちんと事情を話すことに決めた。
「遠い昔のことを思い出したんだ」
 物語を聞かせるように、穏やかに、家康は語り出した。
 かつて、自分は戦国武将として生きていたこと。幸村もまた、同じ名を持つ戦国武将・真田幸村として戦乱の世を生きていたこと。かつての自分達はさまざまな事情があって、敵対する者同士でありつつも互いの領地へ足を運び、その時に本のやり取りをする仲であったこと。今の自分達と同じように親しかったこと。それが時代のうねりに呑み込まれて壊れてしまったこと――。
 自分の思い出した数十年の人生の中で、幸村と交わしていたことを掻い摘んで話した。それでも幸村を驚かせるには十分な話で、家康の話がひと段落すると幸村は困ったように眉尻を下げる。まだ話の内容に頭が追いついていないのだろうか。幸村がなんとか捻り出した返答は、
「……それは、真の話なのでござるな……?」
 真実を確かめる言葉だった。
「嘘はついていないよ。それだけは保証する」
「……真田幸村は最後、大坂の陣で徳川家康と戦い、殺されたと。そう習った歴史も、真実……某たちが確かに辿った運命なのでござるか……?」
「ああ。ワシは、お前を殺した時の感覚を確かに覚えている。まだ思い出したばかりだが、これはきっと、ワシが一生背負って生きていかなければならない」
 手のひらを見つめる家康に幸村は言葉を失い、俯いて返す言葉を探っていた。
 それもそうだろう。友人が何かの拍子に前世を思い出し、ずっと一緒に暮らしている同居人も同じ状況にあった。しかも友人は前世の自分をその手で殺したら相手。話としては理解しているが、それを納得し受け入れられるかは話が違う。幸村は明らかに困惑していた。
「……ワシを信じてくれとは言わないが。猿飛に聞いたら、ワシと同じような話が返ってくるはずだ」
「いいえ……、某は、徳川殿の話を疑いたくはありませぬ。ただ、想像とはかけ離れた話だったもので、驚いてしまい……」
 何度か深呼吸をした後で幸村は、心のうちで何か覚悟を決めたように顔を上げた。
「某は、徳川殿を信じまする。かつての話も、今の徳川殿のことも。……親しい友であったのでしょう? 今も、昔も」
「……ああ」
 家康がしっかりと頷けば、幸村はほっと安心したように頬を緩めた。殺したとか、殺されたとか、それ以前に。そこに確かに親愛があったのだと、確かめられたら充分だった。
「……徳川殿の話を聞いてなお、某に記憶は戻りませぬが。それでも、いつか思い出したとしても、某とどうか、共に居てくだされ」
 そんな願いと共に、幸村は家康の手をとる。生きている人間の、血が通ってあたたかな手を、家康はそっと握り返して笑った。
「もちろんだよ、真田」
 そしていつか、思い出したら。あの日交わしたかった言葉を、どうか。

 源氏物語は世界最古とも言われる長編恋愛小説である。平安時代に書き記されてから千年もの間、人々に読み継がれ今に伝わってきた。かつての自分も読んでいた。写本を取り寄せ、時に幸村に貸し出して。
 現代語訳された源氏物語を、幸村はしばらく読み耽っていたらしい。分厚い本を何冊も続けて読むものだから、幸村が次に二組の家康のもとへ顔を出したのは、彼に前世の話をしてから随分経ったある夏の終わりのことであった。昼休みも半ばを過ぎ、生徒たちのゆるい会話が心地よい中で。
「長らくお待たせしてしまいましたな、いい加減お返しせねばなりませぬ」
 そんな不思議なことを言いながら幸村は、まるで家康から借りていたかのように、源氏物語の最後の巻を手渡してきた。
「真田、それは図書室で借りたのだろう? どうしてワシに……」
「えっ?」
 困惑した声を上げた幸村はしばらく固まってから、ようやく己の間違いに気づいて手を引っ込めた。
「な、何をしているのでござろうか、某は……。なぜか徳川殿に直接返さねばならぬと、妙な思い込みをしておりました……」
 そう慌てて訳を述べる幸村の前で、家康は目を瞬く。脳裏に自然と、前世の情景が浮かんでくる。
 あの日、遠い昔。幸村が押し花や手紙と共に送り返してきた本も、源氏物語ではなかっただろうか――?
 もし叶うのであれば。敵も味方も無くなった時代で、また本のやり取りをしたい。
 そう、かつての彼が願ったのならば。
「真田」
「は、はい」
「……お前の手で、渡してくれないか。ずっと、お前がそうしてくれるのを待っていたんだ」
 幸村は少し考えてから、微笑んだ。幸村もまた、記憶がなくとも、家康にこうして本を手渡せる日を待ち望んでいたのだ。
「お返しいたしまする。徳川殿」
「ああ。……面白かったか?」
「はい。とても、とても、五百年後も読み継いでいきたいと、願うほどに」
 五百年間、伝えられなかった想いを添えて。その物語は、もう一度家康の元へ返ってきた。


「……あの人一応敵国の人間なんだけどなあ。真田の大将、あんたも結構大概だよ」
 佐助がぶつぶつ文句を言いながら、家康に出した湯呑みや皿を片付けている。とうの幸村はまるで佐助の話が耳に入っていないらしく、先ほど家康に渡された源氏物語の写本を胸に頬を緩めていた。それを見た佐助は不機嫌そうに顔を顰める。
 たかが本のやり取りをしただけで、こうも幸せそうに惚けている姿を見れば、佐助のように勘が鋭くなくとも嫌になるくらい分かる。幸村が家康に、少しくない好意を向けているとは。
「大将。そう思えば思うほど苦しいってことは、分かってるんだよね?」
 ようやく佐助の声が届いたようだ。緩んでいた顔をハッとさせた幸村は、しばらくの躊躇の末に、眉根を寄せつつ頷いた。
「……分かっている。お館様を共に師と仰ぐ者だとしても、本来は敵対し、共に在れぬ方であることは」
 それだけではない。幸村には武田の未来が掛かっている。いずれ世継ぎのために女子と契りを結び、子を成し、国を護り、戦わねばならない。たかが幸村個人が男に抱いた恋心など、最初から砕かれることは決まっている。
 それでも、諦められなかった。人を愛するこの気持ちを、捨てたいとは思えなかった。その相手が、決して恋を許されない存在だとしても。
「……知らないよ。武田と甲斐が苦しい時は、俺様だって支えられる。でもその想いのせいで大将がどれだけ苦しんだとしても、俺様は何も助けられやしない」
「ああ、それも分かっている。たとえ何があろうとも……この痛みだけは、俺が一人で抱えていく」
 それは国主や総大将としてではなく、真田幸村という一個人が決めた、覚悟だった。そうはっきりと強く言葉で言われたならば、もう佐助とて口出しはできない。
 これから訪れる運命を未だ知らない青年は、想い人との縁をもう一度胸に抱いて目を閉じた。
 いつか何のしがらみもなく彼と共に生きられる――そんな叶わない夢を想いながら。

 読書強化月間の目立たないポスターをたまたま目にしたあの日、もしかしたら家康はここにいるのではないかと直感で思った。期待を胸に足を運んだ図書室で、小説が並んだ本棚の前に家康の後ろ姿を見た時、心臓がどっと跳ねて息を呑んだ。吐き出した声が震えないように、ゆっくりと一度息を吐いて、吸ってから。
「……徳川殿、」
 なんでもないみたいに、その背中に声をかけた。



 そういえば読書量が一番だった生徒に学食無料券をプレゼントする話はどうなったのかと問うと、学園一の美食家である小早川秀秋が執念でぶっちぎりの一位を叩き出し見事に賞を勝ち取ったのだと家康が苦笑いを浮かべた。家康と幸村の姿は、また人気の少ない穏やかな図書室の本棚の前にある。
「次は何を読もうかなあ」
 家康が本棚を見回して気になる本を探すのを待つ間も、幸村にとっては楽しみな時間だ。家康が読んだものを幸村が続けて読み、感想を伝え合う。そんな交流は今も続いている。つまり家康が選ぶ本は、いずれ幸村も読む本ということだ。
「某も一緒に探しまする」
 そう言って幸村が家康のすぐ隣に並べば、家康は頬を赤らめて目を逸らした。「ありがとう」と告げた声が、本当に僅かだが、震えている。
 本の感想という形で同じ思いを共有しているからだろうか。家康も近頃、今までと違う特別な好意を幸村に向けつつある。『もしかして』とは思いつつ、お互いに踏み出せないまま、この曖昧な関係を長く続けていた。それに地団駄を踏むどこかの風来坊がいるとはいざ知らず。
「なあ真田、少し話が逸れるが、進路はもう決めているか?」
「いくつか候補は上げておりまするが……何故そのような話を?」
「いいや。この学園を卒業しても、お前とこうしていたいなあ、と思って。同じ大学とか近くとかに行けたら、図書室がなくても続けられるだろう?」
「そ、そうでござるな……。……その、でも……っ、……一緒に住めたら、早うござらぬか……?」
「え……」
「……っや、やはり今のは聞かなかったことにッ」
「そ、それは無理だ真田! お……お前がいいなら、ワシもそうしたい……」
耳まで赤く染めた幸村は潤んだ瞳を家康に向けた。家康もそろそろと視線を合わせ、互いに同じ表情をしていることを確かめて。その距離は、高鳴る胸の鼓動まで聞こえそうなほど近い。
「……さな」
「お二人さん、もうここは閉めてしまうぞい」
 見つめ合う二人の邪魔をするか、あるいは窮地を救うかのように、司書の氏政が声をかける。即座に距離を取った二人は、慌てて荷物をまとめて図書室を転がり出た。勢いのまま半ば逃走する形で図書室から離れ、足を止めたのは図書室から見えない階段前の廊下だった。互いの頬が赤いのが、先ほどの会話の余韻なのか慌てて息が上がったからか、なんだかよく分からなくなってしまって。視線が合うと、思わず二人で吹き出して笑い合った。
「ふふ、本を借りそびれてしまいましたな」
「ははっ、また今度借りに行けばいいさ。だが、お前が借りる本も置いてきてしまった」
「数日くらい本がなくても困りはしませぬが、しかし……」
「……それなら、ワシの家に寄らないか。その……本がないと、な? 今度の連休とか暇だろう……」
 それが幸村を自宅に呼ぶ口実なのは明らかで、家康はぎこちなくそう持ちかける。それでも、先ほど断たれてしまった話の続きも、できるかもしれないなら。
「ぜひ、お邪魔させてくだされ。……家康殿」
 ほんのりとさくら色に染まった頬を緩ませて、幸村は言う。二人は夕焼け色に染まる校舎を出て、家康の自宅へ続く道のりをゆっくり肩を並べて歩いた。幸村の指先が家康の手に軽く触れると、家康は視線を幸村から逸らしたまま、柔く手を握り返してくる。痛いほど心臓がうるさくて。これが彼なりの告白だと、期待しても良いのだろうか――。
 風にさざめくひまわりのように、手を繋いだ二つの影法師がゆらゆらと揺れた。

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