おかずと
しあわせ、
はんぶんこ







 時計の針が、午後六時に差し掛かる頃。とある一軒家のキッチンで、
「佐助、明日から弁当は俺が作るっ!」
 と、朗々とした声が響いた。
 声の主は真田幸村。それを受けるのは同居人の猿飛佐助。
 唐突な幸村の宣言に、思わず佐助は「えっ?」と素っ頓狂な声を上げる。明日の朝食に焼くつもりの冷凍鮭が、冷蔵庫に移し替えられる前に佐助の手から落ちそうになった。
「な……、何言ってんの、旦那!? どうしちゃったの急に!」
「そ、そんなにおかしなことか?」
「おかしなことだよ! 弁当どころか料理もまともにしたことないじゃないの! 最後に料理したのいつよ!?」
 冷蔵庫に鮭を突っ込みやや乱暴に扉を閉めて、佐助は詰め寄る。幸村は想像以上の気迫に気圧されつつも、しばしの沈黙のあと、
「……家庭科の調理実習の時だろうか」
と、ぽつり答えた。
「ほらあもう! そんな旦那が料理なんて! またあいつに何か焚き付けられたわけ!?」
 いかにも腹ただしげにため息をついて、佐助は額を押さえる。
 幸村が妙なことを言い出すときの原因は大抵、彼のライバルである伊達政宗だ。何かと勝負にかこつけて、今日はそれが弁当対決だとかの話になったのだろう。
「あ、あいつとは、政宗殿のことか?」
 そろそろと幸村が訊ねると、「そいつしか居ないでしょ!」と佐助は荒々しく返す。
「絶対台所滅茶苦茶になるんだから! お断りしなさい!」
「待て佐助っ! 政宗殿ではない!」
「じゃあ誰よ!」
「とっ、徳川殿と約束したのだ……っ!」
「……徳川の旦那?」
 幸村から飛び出した意外な名前に、佐助はぴたりと動きを止めて、目をしばたたく。


 ――遡ること、今日の昼休み。
 BASARA学園は、昼休みの間は別のクラスや教室への移動も自由だ。もちろん屋上も解放されていて、天気の良い日は屋上で昼食をとる生徒も多い。幸村もその一人だ。
 ただ今日は一緒に食べることの多い佐助がいないので、別の誰かを誘って行こうかと考えていた時に、隣のクラスから家康がひょっこりと顔を出してきた。

「真田の弁当の卵焼き、 いつも甘い方なのか?」
 おかずを交換して、幸村の弁当に入っていた卵焼きを口にしながら、ふと家康がそんなことを訊ねてきたのがきっかけだった。
「さようにござる。佐助が作っているのですが、某なら甘い方が好みだろうと……」
「なるほど。ふふ、確かにお前は甘い方が好みそうだなぁ。ワシはいつもだし巻きにするんだが」
「いただいてもよろしいでござるか?」
「もちろん! いつも卵焼き貰ってるしな」
 差し出された家康の弁当に詰まった卵焼きをひとつ取る。そういえば自分が家康に卵焼きを渡していても、貰うのはいつも別のおかずばかりで、卵焼きを貰ったことはなかったと思う。そもそもだし巻き卵をあまり食べる機会がないので、幸村は少し胸を高鳴らせつつ口に運ぶ。
「……!」
 ──瞬間、いっぱいに広がる出汁の香り。出汁のよく染みた卵が、噛むたびにじゅわりと旨味を溢れさせる。程よく焦げの付いた香ばしさがより味を引き立てていて、冷えているというに、出来たての卵焼きと遜色ないほどの美味しさだ。
「……ど、どうだろう? 美味いかな……?」
 あまりの美味しさに言葉を失っている幸村を、家康は少し緊張した面持ちで見つめた。
「……う、」
「う?」
「うまい……! すごく美味しゅうござる!」
「ほっ、本当か!?」
「嘘はつきませぬ! まこと美味しい卵焼きにあられまする!」
「よ……、良かった。はは。ワシが作ったんだ、この卵焼き。口に合うかなと思ったが……そう美味そうに食べてくれると、ワシも嬉しいなぁ」
 家康は頬を染めて、くすぐったそうに手を首に当てる。幸村は目を丸くして、
「……徳川殿が作られたのでござるか!?」
 と前のめりになった。
「ああ、弁当は昔から自分で作るようにしていてな。……そうだ、真田も作ってみないか? 卵焼きくらいなら、そう難しいものではないだろうし……お互いの作ったおかずを交換してみるとか、楽しそうだろう」
「おお……確かに、面白そうにござる! では某、明日は自分で弁当を作ってきまする!」

「……ということなのだ……」
「なるほどねぇ」
 おおかたの事情を把握して、佐助は顎を撫でた。政宗との勝負ではなくただの家康とのおかず交換のためであれば、対抗心を燃やして台所を滅茶苦茶にするなんて事態は起きないだろうから、その点だけはありがたいが。
「でも、旦那がいきなりお弁当全部作るのは大変でしょ。まずは卵焼きだけにしといたら?」
「う、しかし……、それでは徳川殿に嘘をついたことに……」
「自分で作ってるんだから、徳川の旦那も大変さは分かってると思うよ? 俺様だって全部お弁当のためだけにおかず手作りしてるわけじゃないし、冷凍食品も残り物も普通に使ってるでしょ。あり物詰めただけでも立派なお弁当だしさ、ほどほどに手抜いて、ほどほどに美味しけりゃいーの」
「そうだろうか……」
「そーいうもん。俺様も手伝ってあげるから、ちょっと早起きしてがんばろうな」
「う、うむ……! 頼んだぞ、佐助!」
 不安に表情を曇らせていた幸村だったが、佐助の手伝いがあると分かればぱっと顔を上げて大きく頷いた。
 幸村のことだから、約束はきっちりと果たしたがる。朝から大変になるやもしれないな、と佐助は軽く肩をもんでおいた。


 ――翌日の昼休み。
 今日は午前のうちからしとしとと雨が降り始めてきた。窓際の席に座る家康は、解き終わったテストの用紙をくしゃくしゃにしないよう除けてから、頬杖をついてぼんやりと雨の景色を眺めていた。
(今日は屋上は使えないか。真田のことだから、昨日の約束はちゃんと覚えているだろうし……今日は一組の方で一緒に食べようかな)
 佐助の手伝いこそあるだろうが、幸村の作ったお弁当は一体どんなものだろう。あれこれ想像を膨らませて、ふふ、と笑みを零す。
 テスト用紙が回収され、チャイムが鳴ると家康は弁当を持って隣の一組へ足を向けた。一組はころころと席替えをしている気がするので、今はどの席に幸村がいるのか分からない。あまり人がいると見つけにくいかもしれないな、と思いながら、家康はひょっこりと一組の中を覗き込む。そしてすぐに幸村の姿を見つけた。
 周りがじめじめと暗くなっている幻覚が見えたほど、とんでもなく落ち込んでいたからだ。

「……それで、他のおかずは猿飛に任せて、卵焼きだけ真田が作ってみたは良いものの、そんなふうになってしまったと」
「はい……」
 しょんぼりと肩を縮こませた幸村の手元には、普段のものと違い二つ重ねるタイプの弁当箱がある。おかず用の箱には、美味しそうな煮物やポテトサラダと一緒に、こんがりと焼けすぎた黒い卵焼きらしきものが詰め込まれていた。
「も、申し訳ありませぬ、徳川殿……。せっかく約束をしたというのに、これでは……」
「まぁまぁ、そんな時もあるさ。だからそう落ち込むな、真田」
「うう……。つ、次こそは上手く作ってみまするゆえ! なので明日も、よろしいでござろうか……?」
「ああ、ワシは大丈夫だよ。お前さえよければ」
 家康がそう微笑んで返すと、幸村の落ち込んでいた顔がぱあっと花開くように笑顔になる。
「まっ、まことにござるか! それなら某、徳川殿と卵焼きの交換が出来るまで、精進致しまする!!」
「はは、じゃあ待ってるよ、真田。……ところでその焦げたのは、ワシが食べたらいかんのか?」
「こっ、これは失敗作ゆえ……! 徳川殿にはちゃんとしたものを食べていただきたく……っ!」
 幸村は家康が箸を構えたのを見て慌てて弁当箱を引っ込めてしまう。家康は少し首を傾げたが、
「ふふ、なら、真田の上手く作れた卵焼き、楽しみにしてるな」
 そう言ってまた笑った。


「最近ずいぶん張り切ってるね、旦那」
 家康とのおかず交換を理由に、幸村が料理を初めてからしばらく経った頃。夕食のハンバーグを箸で割きつつ、ふと佐助がそんなことを切り出した。
「何のことだ?」
「お弁当作り。っていうか料理かな。ここ最近ずっと作ってるでしょ? 俺様の手伝いもあんまり要らなくなってきたし」
「そうか? まだお前がいなければ困る場面も多いぞ」
 幸村自身はあまりピンと来ていない様子だが、今日の食卓に並んでいるおかずの半分ほどは幸村が作ったものだ。家康とのおかず交換のために料理をすると言い出すまでは、佐助が作ったか買ってきたお惣菜しかなかった。炊飯器の使い方もよく分かっていなかった頃に比べれば、大躍進とも言える成長ぶりである。
「徳川の旦那とはどんな感じなの?」
 佐助の何気ない質問に、幸村は記憶を手繰るように少し視線を上に向ける。
「そうだな……昨日は俺が作った卵焼きを初めて食べて、美味いと褒めてくださった。お前に頼らず、俺が自分で弁当を作るようになったことも、すごいと仰られていて……。なんというか、その……」
「まぁ、良いふうに思ってくれてるんだ。良かったじゃない」
「……そ、そうだな」
 幸村はそれきり言葉を続けず、黙々と箸を進めた。頬と耳が少し赤い。その様子を見て、佐助はああ、と合点がいく。
 幸村が今までまるでしてこなかった料理というものに手を出し、毎朝欠かさず、家康とのおかず交換を口実に弁当を作る。元来真面目な性格の幸村であるから、律儀に家康との約束を守り続けているほかに、少しくない家康への好意があるのかもしれない。
「ねぇ、旦那」
「何だ?」
「徳川の旦那のこと、好き?」
 そう声を発した瞬間、ガタン! と机と椅子が鳴るほど幸村が身を跳ねさせたので、間違いないだろう。


 翌日。佐助の姿は、珍しく二組の家康の席へあった。教室に上級生がやって来ること自体家康たち一年生にとっては珍しいので、ちらちらと周囲の視線を受けつつ、家康は佐助に首を傾げる。
「ワシに何の用だ?」
「いやー、一緒にお昼なんてどうかなーって思ってさ」
「おお、珍しいな。すまないが真田と先約があって」
「あー、旦那の方には言っとくからさ。ね?」
 お願い、と言いつつ、佐助は顔の前で手を合わせる。佐助の方からここまで積極的にされるのも珍しい。「新聞部の取材か?」と訊ねるとそんなとこ、と返されたので、それならばと家康は了承した。
 佐助に連れられて、家康は屋上にやってきた。今日は良い天気なので他にも生徒がいるが、佐助はあえて人のいない隅の方へ向かう。新聞部の取材なら新聞部の部室にでも行くと思っていたので、家康は不思議に思いつつ、佐助の隣で弁当の包みを開いた。

「徳川の旦那にお礼を言いたかったんだよ」
 卵焼きをつまみながら、そう佐助は答えた。
「礼を言われるようなことなんてしたか?」
「俺様じゃなくて、真田の旦那にかな。一緒にお弁当食べてるでしょ、最近」
「それはそうだが……」
 それが礼を言われることか? とでも言いたそうな顔をして、いまいち話が上手く繋がっていないらしい家康に、佐助は微笑む。普段のおちゃらけた雰囲気ではなく、ただ、幸村を想って慈しむように。
「……真田の旦那、前まで料理したこと自体あんまりなくてさ。なんだけど、徳川の旦那とおかず交換するからって張り切り出してからはすごい成長ぶりでね。炊飯器も使えなかったのに、もう基本の料理くらいなら作れるようになっちゃって」
「それは……ワシのおかげではなくて、真田の努力のおかげだろう?」
「ううん。それもあるけど、徳川の旦那が居てくれたから、ってところもあるんだよ。だから、ありがとね」
「そうなのか……? ……そういうことなら、その言葉はありがたく受け取ろう」
 疑問符はまだ消えきっていないようだが、家康はいつものように明るく笑う。
「ねぇ、徳川の旦那。明日の夜とか空いてる?」
「明日の夜? 別に何もないが、どうしたんだ?」
「ちょっとうちに来ない?」


 なんとなく、察していたことではあった。
 幸村が家康に向けている視線が、自分のようなライバルに向けるものでも、佐助のような友人に向けるものでも、あるいは無関心な者に向けるものでもなく。わずかな熱っぽさをもって、好ましく想っている者の視線であることは。
 とはいえそれを明確に自分の前で示されると、流石の独眼竜こと伊達政宗も面食らう他なかった。こうも女々しくしおらしいライバルの姿を見るなぞ予想外の出来事である。「真田幸村」と名を呼んだだけで、彼は大袈裟なほど肩を跳ねさせて、小さく、はい、と返事をした。
「多分お前は、……いや、あの猿は相談相手を間違えてやがる」
 行儀が悪いのは承知で、政宗は卵焼きをつまんだまま、箸で幸村を差す。政宗と机を挟んで向かい合う幸村は銃口を向けられたかのように縮こまって、弱々しく、そのようなことは、と首を振った。
「前田の野郎のところにでも行きな。甘ったるいlove storyなんて聞きたかねぇ」
「で、ですが、その……ッ、徳川殿と政宗殿は親しい仲であられまするしっ」
「アイツなんて大抵の奴と親しい仲とやらになるんじゃねぇのか?」
 溜息をつきながら、政宗は卵焼きを口に放って咀嚼する。あからさまに不機嫌な顔さえ整った美男子であるが、それがかえって幸村に畏怖の念さえ抱かせた。
 今頃、佐助が家康を屋上に連れて行って何か話しをしているはずだ。交換したはいいがろくに動かなかったLINEで、「真田の旦那教室に引き止めておいて」と連絡が来た時は何事かと思った。
 おおがね事情を聞いてから、幸村に昼食を共にするついでに家康をどう思っているのか訊ねたところ、茹でダコのように顔を赤くして俯かれたら、嫌でも佐助の意図を理解するしかないのである。
 つまり政宗はいいように、家康と幸村の恋のキューピットをやらされるというわけだ。
「……なぁ、」
「はい……」
「あんたは家康とどうなりてぇんだ」
「と、言いますと……」
「見てるだけで満足して、friendのままでいいのか? いいなら俺が言うことは何もねェ」
「ッ……、い、いえっ……、それは……っ」
 幸村は、半ば泣き出しそうになりながら首を振る。政宗は不機嫌そうに歪めていた顔を、ふっと微笑みに変えた。
「All right. ならあんたのやることは決まってる。あの猿もたぶん、分かってて何か話つけてるだろ」
 政宗は幸村の広げていた弁当から、ひょいとミニハンバーグをつまみあげる。
「heartは胃袋でcatchしろって、昔からよく言うだろ?」
 政宗は口角をニヤリと上げた。


 最初はこんな、淡い恋心などではなくて。ただ純粋に友として、尊敬できる人として、慕っていた。
 けれどももしかしたら、もっとずっと前から、ひと目で恋に落ちていたのではないかと、今は思う。

 入学式の朝のことだった。まだ着慣れない高校の制服姿で、幸村は早朝の満員電車に揺られていた。
 田舎から都会へやってきた幸村は、遠方である事情もあり両親などは入学式に参加しない。ひとり鞄を抱えて、息を殺すように脚に力を込める。
 中学まで、幸村は自宅が学校のすぐ近くにあり、電車通学はしていなかった。だから電車の乗り方もよく分からなくて、この電車が自分の乗るべき路線なのかも分からない。もし間違えていたらこの人混みの中を掻き分けて電車を降りなければならず、けれどもこんな人垣の厚さなら、もしかしたら出ていくことも出来ないのではないか。出ていけたとして、田舎から出てきたばかりの自分に都会の駅は迷路のように広すぎる。
 きちんと入学式に間に合えるだろうか。もし間に合わなければ、自分は高校生活一日目から遅刻犯になってしまう。行き先もわからない電車に揺られて。他人の肩とぎゅうぎゅうに触れ合うなか、幸村は微かに怯えていた。
「――大丈夫か?」
 ぎゅっと瞑っていた目を開くと、一人、同い年くらいの少年がいた。その人の着ている制服のボタンを見て、幸村はあっと声を上げる。同じ、BASARA学園の制服だ。
 幸村が事情を掻い摘んで話すと、その人は「この電車に乗っていれば大丈夫だ」と微笑んでくれた。学園まで一緒に行こう、とも。
 彼に手を引かれ、慣れない改札を通り、道を歩いた。自分より少し背が高くて、頼もしいその人の隣に並ぶ。少しだけ、胸がどきどきと鳴った。
 玄関口まで来ると、その人は「ワシは別に用があるから」と別の場所へ向かってしまった。自分の下駄箱を探す中で、そういえばあの人の名前を聞きそびれてしまった、と思った。
 すぐに、彼の名前を知った。新入生代表として登壇したのが、その人――徳川家康だったのだ。
 それからしばらくして、確かクラス間を超えた新入生の交流会だったかと思う。その班の振り分けの中に家康がいて、顔を合わせたとき、家康は「また会えて嬉しい」と笑ってくれた。
 その頃から、たぶん、自分は恋をしていたのだと思う。

 とんとん、と小気味よく鳴る包丁の音は、佐助の手によるものではない。玉ねぎが綺麗な微塵切りになって小さな山を作る。幸村は玉ねぎを火に通さないままタネを作るハンバーグの方が好みだ。微塵切りにした玉ねぎを、ひき肉、パン粉、卵、牛乳、塩胡椒と捏ねて混ぜる。程よく粘りが出てきたら、小判型に整形して空気を抜く。中央を凹ませて、温めておいたフライパンに並べて中火にかける。
 なんてことのない、ごくごく普通のハンバーグのレシピ。これを難なく一人でこなせるようになるまでは、元々料理などしていなかった幸村にとって長い道のりだった。
 隣のコンロで火にかけていた味噌汁の鍋がコトコトと煮立ち始める。ハンバーグの片面が焼き上がるまでに、味噌汁の火を弱めて豆腐を一丁、サイコロ型に切って入れる。
 頃合いを見てハンバーグをひっくり返し、料理酒を少し注いで酒蒸しにした。こうすると肉の臭みも抜けて、蒸し焼きの効果で中までよく火が通るのは、佐助から教わった技である。
 ハンバーグが焼き上がるまですることがなくなったので、幸村が冷蔵庫を背に体を預けて少し、玄関のインターホンが鳴った。はぁい、と返事をして、佐助がリビングからぱたぱたと迎えに行く音が聞こえる。――家康がやって来たのだ。
 どっと心臓が跳ねた。家康が通されるであろうリビングからキッチンの様子が見えないのだけが幸いである。高鳴る心臓を抑え、フライパンの蓋をとってハンバーグの火の通りを確認した。刺した爪楊枝から透明な肉汁が滴る。十分に火は通ったようだ。

「いらっしゃい、徳川の旦那」
 佐助が玄関の扉を開けた先には、案の定、家康が私服に着替えて立っていた。黄色のパーカーにジーンズというラフな出立ちである。
「こんばんは。……おお、なんだかもういい匂いがするな」
「もうすぐ出来ると思うよ。さ、上がって上がって」
「ああ。お邪魔します」
 家に上がった家康は、佐助の案内でリビングに通される。黄色いドーナツクッションが置かれているところに目をつけ、家康はそこに腰を下ろした。佐助がそのすぐ隣にある緑のクッションに座ったのを見て、「今日は真田ひとりで作っているのか?」と、家康が尋ねてきた。
「そうそう! 俺様はなんにも手貸してないよ」
「そうなのか……、ふふ、楽しみだなぁ」
 突然の誘いだったにも関わらず、家康は友達の家での夕食に招かれたのが余程嬉しいのか、ニコニコと上機嫌だ。その様子を横から見ていると、なんとなく、幸村が家康に惹かれた理由もわかる気がする。
 底抜けに明るい太陽のような人。そのあたたかさは、どんな人でもきっと魅了する。幸村とて。
「そういえば、徳川の旦那さ」
「何だ?」
「……ここならキッチンまで声届かないんだけどさ。正直真田の旦那のこと、どう思ってるの?」
 佐助の質問に、家康は困ったように眉尻を下げた。
「どう思っている、と言われても……。だが、真田はいい友達だと思っているぞ。武田先生を慕う者同士だからかな、気も合うし、面白いやつだから一緒にいても楽しいし」
「そっか」
 ごく普通の友人に向ける所感だろう。幸村のように、友人を超えた特別な感情があるとは思えない。
「……ああ、でも」
「でも?」
「真田はなんというか、ちょっと……可愛いなって思うときは、あるかもな」
「可愛い?」
 意外な単語に佐助が思わず復唱してしまうと、家康は少し視線を彷徨わせながら頬をかいた。
「なんというか……、少し危ういというか。そんなヤワな奴ではないとは分かっているんだが、守ってやりたくなるというのかな……。ワシが側にいてやりたいと思うときはある。こんなことを、真田といつも一緒にいるお前に言うのも変な話だが」
「……ふぅん?」
 心の中で、お、と少し身を乗り出した。ただの友人関係に過ぎない印象に、少しだけ、幸村だけに向けた特別な感情がある。全くチャンスが無いわけではないようだ。
「側にいてやりたい、ねぇ。気持ちは分かるけど……俺様はなんか、親みたいな気持ちなんだよね。徳川の旦那は違うんじゃない?」
 家康はしばらく思考を巡らせてから、「そうだな」と一言、ぽつり呟く。
「なんと言えばいいのか分からないが……、親や兄弟のようなものでは、ないのかもしれないな。なんだろう……」
「……友達とか、恋人とか?」
「こいっ!? いや、それは……!」
「違う?」
 からかうような佐助の笑みを見つめて、家康は頬を染めた。視線を逸らすと、後ろ首をさする。
「……わからん、が……」
 そうかもしれない、と小さく呟いた声は、佐助の耳にしっかりと届いていた。
「それならさ」
 そろそろと視線を戻した家康に、佐助はぐっと顔を近づける。鼻先が触れ合いそうなくらいの距離で、佐助は家康の琥珀色の瞳を覗き込む。
「俺様にこうされたら、嫌なわけでしょ」
「猿飛……?」
 佐助の薄く形の良い唇が、ニヒルに歪んだ。
「真田の旦那にされたら、どう?」
 ――ガシャン!
 その鋭い音が鼓膜を刺して、家康はハッと我に返った。音のした方を見やると幸村が立っていて、足元には割れた白い皿の破片が散らばっている。取り皿なのか、料理が乗っていなかったことだけは幸いだった。幸村は呆然としたまま、弱々しく声を発する。
「……佐助……?」
「あれ、早かったね旦那」
 佐助は何事もなかったかのようにけろりと笑って家康から身体を離す。
「せっかくこれから徳川の旦那と良いトコだったんだけど」
 立ち上がって幸村の方へ向かう佐助に、キョトンとしたまま家康が訊ねる。
「猿飛? お前は……」
「掃除しなきゃでしょ。箒取りに行くの」
 幸村の隣を通り過ぎるさま、佐助は幸村の肩に手を置いて耳元に唇を寄せた。
「後は頑張りな」
 そう言い残して。
 佐助が立ち去り、幸村と家康の二人が残された。家康が「怪我はないか」と聞くと、幸村はなおも呆然としたまま、「ありませぬ」と首を振った。
「徳川殿、……佐助と、なにを」
「いや、あいつがいきなりああしてきて……」
「……」
 ふらふらとおぼつかない足取りで、幸村が家康に近づいていく。膝をついて、家康の顔を覗き込む。幸村は、瞳を潤ませて不安げにこちらを見ていた。家康の唇に、指を伸ばす。
「……キスを、」
「してない!」
 家康は咄嗟に否定した。
「なんだ、その、きっとワシをからかいに来ただけだ。キスなんてしていない」
「……まことにござるか……?」
 幸村はなおも不安げな表情だった。家康は何度も首を縦に振る。
 わずかに、「もしかして」という思いが浮かび上がった。幸村の表情を見れば、いくら鈍い家康でも分かる。幸村の想いに。佐助と口付けをしていたかもしれない家康に、こうも泣き出しそうになりながら問いかける感情に。
 家康は幸村の手に触れて、自らの唇に伸びた手をそっと下ろしてやった。そのまま柔く握る。骨張って男らしい手つきだが、それでも自分よりは華奢で細い指先だった。
 佐助の帰ってくる気配はない。彼のお膳立てに苦笑する。
「真田」
「……はい」
「ワシがもし、猿飛とキスをしていたら、嫌か?」
 幸村は少しの沈黙の後に、こくりと頷いた。頬が赤く染まっている。
「相手が、佐助ではなくとも」
 そして、はた、はたと、花びらが散るように涙がこぼれ落ちた。
「某以外とそうする貴殿を、見たくありませぬ」
 家康は息を吐いて笑った。安心した。空いていた片腕で幸村の体を引き寄せる。互いの鼻先が触れ合う。
「真田」
 もう一度名を呼ぶ。
「ワシはお前が好きだよ」
「某も、……お慕いして、おりまする……」
 そして、ゆっくりと、唇を重ねた。

「美味しくできたじゃない、旦那。よかったね」
 佐助がハンバーグを飲み込んで、幸村にそつなく褒め言葉を贈る。幸村は「ああ」と返事しつつ、その視線はずっと下に向いたままで頬は赤い。その隣に並ぶ家康も、同じように下を向いたまま頬を染めて黙々と料理を食べ進めている。
「もう恋人なんだから、堂々としてればいいじゃないの」
 ガタン! と机に膝がぶつかるくらい、二人はほぼ同時に身体を跳ねさせた。
「それは、その……」
「まだ無理だ、猿飛……」
 キスまでしたくせに、今更気恥ずかしくて目を合わせることもできなくなったらしい。うぶな中学生じゃないんだから、と呆れながら、佐助は味噌汁を啜った。


「家康殿、お味は如何にござろうか?」
「すごく美味いぞ、幸村。また腕を上げたな」
「それを言えば家康殿も、一段と美味しく……」
 教室の窓際の席で、家康と幸村が昼食をとっている。二人の手元にある弁当箱のおかずは色とりどりで目にも楽しく、二人がそれぞれ手作りしたものばかりだ。二人ともこの時間を楽しみに、毎日夜から仕込みをしたり、早起きして作っているらしい。
 それを遠目から眺めつつ、佐助が幸村の弁当箱に詰まっているものと同じ卵焼きを口に放り込んだ。
「なんか寂しくなっちゃったなあ」
 そうぼやく佐助の目の前には、呆れた顔で焼きそばパンをかじる伊達政宗。購買の安いパンを無造作に頬張る姿も様になる男だ。仔細は語っていないが、どうやら昨日小十郎の怒りを買って弁当を作って貰えなかったらしい。不機嫌な政宗は佐助に半ば八つ当たりのように、
「ならあんなことやらせんじゃねえよ猿」
と毒づいた。
「旦那には幸せになってほしいじゃないの」
「それに俺を巻き込むな」
「でもあの二人と仲良くって、いい感じに適任なのあんただったんだもん」
 そう言われればなんとなく返す言葉を失ってしまう。政宗は家康や幸村のいる窓際に視線をやりつつ、また焼きそばパンを貪る。
 恋人になったことを特別公言したわけではなく、あくまで親しい友として周囲には映っているようだが、仲睦まじく会話に花を咲かせる二人を引き裂くように間に入るのは悪い気がする。二人が親しくなるのなら、政宗としても悪いことではない。
 でも、まあ、確かに寂しい。それをこのお調子者に話す気はさらさらないが。
「……猿」
「なに?」
「俺もアンタの、“お裾分け”してもらうぜ」
「え? あっちょっと! 俺様の好きなおかず!」
 佐助の弁当から串刺しの肉団子を奪い取って口に放る。家康が幸村の弁当箱からもらって嬉しそうに食べているものと、同じものを。
「アンタのためにお弁当持ってきたわけじゃないんだけど!」
「これ一つくらいいいだろうが。お友達が侘しく焼きそばパンしか食ってねえのに薄情なヤツだな」
 ギャイギャイと騒ぎ出す二人の声に釣られて、家康と幸村が視線をやったのに、佐助と政宗は気づいていない。家康と幸村は二人で顔を見合わせて、思わず笑いあった。
 とても幸せなお昼休み。新学期の春のことである。

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