第三章
巡る輪廻の
セレナーデ







 レジスタンス基地に、紗のカーテンのように霧雨が降る。時刻は薄暮に差し掛かる頃。イエヤスとヒデタダの姿は、ユキムラも交えた三人で使っている部屋にあった。
 ユキムラは仰向けになってベッドでぐっすりと眠っている。イエヤスとヒデタダはそのすぐそばに腰掛けているのだが、ベッドが少し軋んでも、それに反応することもないほど深い眠りのようだ。眠りにつくまで泣いていたのだろう、頬には涙の跡が残っている。
「……少し、私の言い方が無神経でしたか……」
「いいや、俺も言い方が悪かった。君だけが悪いわけではない」
「ですが……」
 ヒデタダが小さくため息をつくと、ユキムラが少し身じろいで、寝返りを打った。「う、」と小さく唸るような声も繰り返し上げる。
「……また、大坂の陣の夢とやらを見ているのでしょうか」
「そうやもしれん」
 イエヤスがユキムラの髪をやわく撫でる。くるまるように背を曲げて身体が強ばっていたが、繰り返し撫でてやると少しだけその力が抜けた。ユキムラを見つめながら、イエヤスは口を開く。
「近頃のユキムラは……俺たちと良く接してくれているだろう?」
「ええ、とても」
「だが、ユキムラの中で俺が信繁公の仇なのは変わらん。俺が貴銃士イエヤスで、ユキムラが貴銃士ユキムラである限り……事実として、それはもう変えられない。
 決着をつけず一時休戦という体をとるのが、今の俺に出来る一番良い選択だと思ったのだが……憎む相手にもなりきれず、他の者たちのような仲間にもなりきれない、曖昧ゆえにかえって辛い場所に立たせてしまった」
「たとえ良くしていたとしても、ユキムラなりに、葛藤するところはまだ残っていたのでしょうね」
「ああ。……ユキムラは、自分が何処で誰に作られたのかも覚えていない。ただ、大坂の陣で信繁公に使われ、家康様を撃ち損じたという事実だけが、ユキムラの全てなのだろう。
 だから、決して忘れろと言いたかった訳では無いが、ユキムラがユキムラである全てを否定したと捉えられてもおかしくないことを、俺は言おうとしてしまったのかもしれないな」
 ──貴銃士としての身体を与えてくれた今のマスターと同等か、それ以上に、ユキムラにとって真田信繁という存在は大きい。彼の存在、行動原理、そのすべての根底に真田信繁が居る。明るく能天気で何も考えていないと思われがちだが、ことさら信繁に関しては繊細な彼のことだ。特に自分たちの知らないところで、気落ちして一人悩んでいる時だってあるのだろう。それが顕現したのが、大坂の陣の夢だとも言えた。
「……俺たちが他の者と同じように、純粋に仲間として居ることは、それほど難しいことなのだろうか。因果というのは、簡単に解けはしないのか……」
「……私は、大坂の陣のことと私たちがこうしていることは、別物だと思っているのですが……、ユキムラにとって私たちと親しくするというのは、彼の持ち主への裏切りのように思えるのやもしれませぬな……」
「……そう、だろうな。ユキムラの気持ちが変わらない限り、もう俺達には……」
「……いえ、やす……。ひでただ……、」
「!」
 イエヤスとヒデタダの視線が、ユキムラに向く。ユキムラの目は閉じたまま、眉間に皺を寄せて呻きながら、ふらふらと右手を宙にさまよわせた。その手を、イエヤスは優しくとってやる。
「なあ、ヒデタダ。覚えているか? ずっと昔、こんなことがあったな」
「……ユキムラが熱を出した時のことですか?」
「ああ。こうしてユキムラが眠っていて、俺たちはユキムラのそばにいて。ユキムラが貴銃士になったばかりで、俺たちもどう接すればいいか、よく分からなかったとき」
「そんなこともありましたね。そういえば、その時に決めたのでしたな。過去は過去に過ぎぬゆえ……仲間としてユキムラを受け入れようと」
「ユキムラを、仲間として愛そうと……」
 ユキムラの右手人差し指には、今朝イエヤスが巻いた絆創膏が残ったままだ。
「ユキムラ。俺は、君と親しくなることが家康様への裏切りになるなど思っていない。むしろ……」
  霧雨が、ぽつぽつと屋根を叩く雨粒に変わる。ユキムラの手を両手で包み、自らの胸に寄せて、祈るように──イエヤスは静かに口を開いた。
「……家康様であろうと、信繁公であろうと……あの時代を生きた者であれば、皆、そう望むと思うのだ……」
 ヒデタダは、その言葉の意味を理解する。そっとユキムラの手を下ろしてやり、イエヤスはヒデタダに顔を向けた。少しだけ、瞳を潤ませながら。
「伝わって、くれるだろうか」
「きっと、いつか……分かってくれると思います」
「そうだと良いな。……ユキムラが目覚めたら、仲直りをしようか。ユキムラの好きなものをたんと作ってやろう」
「ええ。私たちはユキムラを仲間だと思っていると……、それだけは、変わらないままで」

◇◇◇

 また、夢を見ていた。夢の中でも俺は眠っている。真っ白なシーツ、真っ白な壁、真っ白なカーテン。レジスタンス基地の部屋に似ているけれど、それよりももっとずっと綺麗で白い部屋の中で目を閉じている。
 春の風にも似た優しい手つきで、俺は頭を撫でられている。ぼんやりと目を開いた。うまそうな匂いがする。湯気を立てた小さな鍋を誰かが持ってきてくれたらしい。頭を撫でていた人はその人と少し言葉を交わして、「ユキムラ」と名前を呼んできた。
「イエヤス……ヒデタダ……」
 自然と名前を呼び返して、 頭を撫でていたのはイエヤスで、 鍋を持ってきたのはヒデタダだとその時気づいた。
 鍋の中はヒデタダが作ってくれたたまご粥で。そうしたら俺はイエヤスに支えられながら体を起こしてそれを食べる。食べ終わるとイエヤスに額を触られて「まだ熱いな」と言われて、ぬるくなったタオルを変えてくれる。
(……なんで俺、この先のこと分かるんだろ)
 夢の淡い意識の中で、俺は記憶を手繰り寄せた。
「君はまだ貴銃士になったばかりだからな。マスターが戻るまでの辛抱だ」
 夢の中のイエヤスが、頭を撫でていた手でそっとユキムラの頬に触れる。
(──あ、そうか)
 この夢は、俺が貴銃士として呼ばれたばかりの頃の記憶の再生だ。
 人間の体の勝手が分からなくて無茶をした俺が熱を出して、イエヤスとヒデタダに看病してもらった日。
「イエヤス……」
「うん?」
「……お前の手、つめてー……」
 イエヤスの手に頬を寄せるユキムラに、イエヤスは「そうか?」と小首を傾げる。
「それだけユキムラが熱を出しているということでしょう。今は粥を食べて、精を付けねばなりませんね」
「そうだな。後でタオルも変えてやるから」
 イエヤスの補助とともに体を起こすと、ヒデタダが蓮華に粥を掬って軽く冷ましてから、俺の口元に持ってきてくれる。それを食べるとやさしい味が口の中に広がって、そのまま腹の中まであたたかく満たしてくれた。
「ん……イエヤス……ヒデタダぁ……」
「どうしました?」
「……あんがとぉ……」
「……、ふふ、どういたしまして」
「このくらい、当然ですよ。私たちは──」

 目が覚めた。まだ夜明け前だった。土や錆や血、死の匂い。様々なものが混じり合ったすえた臭いの充満する城内は、未だ暗闇に包まれている。一瞬レジスタンス基地の部屋ではなくて戸惑ったけれど、すぐに、昨日は大坂城の柱にもたれて眠ったのを思い出した。いつもと違う体勢だからか、あまり深い眠りではなかった。
 武士や農民、老人から女子供まで、見張りの兵以外の人間は皆床に寝転がって眠っている。そんな彼らの間を縫うように、足音に気をつけながら俺は外に出た。
(……なんでこんなときに、昔の夢なんて見たんだろう)

 薄暗い夜明けの風は涼しかった。外でも休息をとる人達はいたけれど、城の天守から少し離れた場所まで歩けば誰もいなくなった。
 もう堀もない大坂城を頼りなく守ろうと立つ柵の向こうに、小さく徳川軍の宿営地が見える。柵に手を添えて、ぼんやりとそれを見つめた。
(……あれのどっかに、イエヤスとヒデタダがいるのかな……)
 そう考えると昨日のヒデタダを思い出して、ぎゅっと胸が締め付けられたように痛む。
『いつ私とそなたが仲間であったと言うのです!?』
(……夢だとしても、ここのイエヤスとヒデタダは、俺の敵だ。俺を仲間だなんて言わない)
 もう傷は癒えているのに、ヒデタダに撃たれた脚がぞわりとして手を当てた。この世界のヒデタダは、貴銃士ユキムラへ引き金を引くことに何の躊躇いもない。それはイエヤスも同じだろう。
(……なんで、こんなに苦しいんだろ。俺はあいつらのこと、仇だって思ってる。敵意を向けられて……むしろその方が正解だろ……?)
 ──分からない。昨日から、もう分からないことだらけだ。
「ユキムラ」
 背後から声をかけられて、俺は振り返った。信繁様だった。
「作戦の決行は朝日が昇りきってからだ。もう少し寝ておけ」
「……眠れなくて。なんか、色々考え事を……」
「そうか、……ならば、致し方ないな」
 信繁様が俺の隣に並んで、笹の葉に包んだ握り飯をひとつ、手渡してきた。
「腹が減っては戦ができんぞ」
 そういえば昨日からほとんど物を食べていない。握りたてのようで湯気を立てるその匂いに釣られて、早速俺はかぶりつく。塩気の強い、俺の好きな塩おむすびだ。信繁様は微笑んで、柵の向こうに視線をやる。
「……悩みは人に話せと言うなぁ」
 信繁様は、俺の顔は見なかった。それ以上何も言わないで、ぼんやりと景色を眺めているみたいに、俺の言葉を待っていた。
 無理に言えとは言わない。言いたければ言え。……信繁様は、そういう人だった。
「あの、多分……信繁様には意味わかんねーし、信じられない話かもしれないんですけど」
「うん」
「……ここは、この世界は、俺の見てる夢だと思うんです。ここに来るまでに何回も、こういう大坂の陣の夢を見てた。……でも、なんかよくわかんなくなってきて。今まで見てた夢とは全然違うんです。今まではただ見てるだけだったのに、この夢は、俺が動いて、考えて、喋ってる。音も匂いも世界も、みんな俺の記憶にある通りで……ここがまるで現実みたいに思えて」
 握り飯を持ち直す。右手の黒手袋の下に、人差し指に巻かれた絆創膏の感触があった。
「俺の知ってる奴が、向こうにいたんです。そいつに撃たれちまって、……なんか、びっくりしたっていうか……」
「……悲しかったのではないか? 知り合いにそうされたら、衝撃を受けるのも致し方ないことさ」
「そう、ですけど。でもそいつとは、元々敵で。最近はちょっと仲良くしてたけど……。だから敵として撃たれて、悲しいとか辛いとか思っちゃダメじゃねーのかなとか、考えて。わからないことがありすぎて、何にも答えが出せなくなっちまって……」
 言いたいことは、きっとうまくまとまっていなかったけれど。信繁様はそれを責めたりはしないで、ただ、変わらず視線を景色に向けたままだった。
「……その君を撃った知り合いというのは、絆創膏をくれた者か?」
「そいつではないんですけど、でも……撃ってきたやつと絆創膏をくれたやつ、仲良いから。多分今、一緒にいるんじゃねーかなって思います」
「そうか。……ならばその二人が、今まさにあの宿営地にいるのかもしれぬのだな」
「はい……」
「複雑なところであろう。だがこの戦が終わって、君が生きてさえいれば。その者と、澱みなく友になれる日もきっと来る」
「……信繁様。その……そいつらが、……もし、信繁様を殺すやつだったら。……それでも俺は、そいつと友達に……なれるんでしょうか……」
「なれるさ」
 信繁様は即答する。また信繁様の考えが分からなくて、俺は何も返せないまま、夜明け前の大坂の地を見渡した。
 かつての天下人である豊臣秀吉が築いた大坂城は、もはや崩れかけでそびえ立つ。
そんな大坂城に見下ろされるように広がるのは、広い城下町と、田植え前の水田と、兵士たちに踏み荒らされてなお、夏に向かって茂る青々とした植物たち。木々の葉が擦れるさざめき。まだ夏の盛りには少し早い、涼やかな風と湿気た土の匂い。そのどれもが、懐かしい。
しばらく、俺と信繁様は黙り込んでいた。塩粒がわかるくらいの塩おにぎりは、疲れて空っぽの体に染み込むようで、うまかった。けれどなんだか、ヒデタダの作る焼き味噌おにぎりが無性に食べたくなった。
俺が握り飯を食べ終わる頃には、次第に東の空が白んで、朝焼けの光が山間から差し込んでくる。
「……ユキムラ」
 ふと信繁様が口を開いた。目の前にどこまでも広がる初夏の朝焼けを瞳に映したまま。
「憎しみだろうが、愛しさだろうが……過去を思う気持ちは、陶酔に似ている。心地好くて、それにいつまでも縋りたくなるものよ。──けれどそれでは未来には進めぬ。過去は変えられん。それなのにいつだって足を搦めて離してはくれぬ」
「だから人は、どのような形であれ、過去を仕舞うことが必要なのだ。それは一種の逃げに見えるかもしれないが、私は逃げだとは思わん。未来へ進む背を押してくれるのだから。
 人もどきの君だって同じだ。……今は分からずとも、いつか分かるさ」
 俺は唇を引き締めて、何も返せなかった。
 この世界は懐かしい。大坂の陣が終わってから少しずつ変わっていった世界の形が、あの時のままで目の前に蘇っている。地平線の見える場所。どこまでも広い、夏風にそよぐ大坂の土地。隣には生きている信繁様。愛しくて、縋りたくなるもの。
 俺が俺である、世界の全て。
(それを、俺は手放さなきゃいけないのかな)
 ふと、イエヤスとヒデタダの顔が浮かんだ。あいつらは以前俺に言っていた。なぜ大坂の陣に未だこだわるのかと。もう大坂の陣は過去のことだと思っている、と。
(……あいつらはもう、過去を仕舞い込んでいるのかな)
 それなら俺だって、いつかこの夏を過去にしなければいけなくて。それでもまだ、俺は信繁様の手をとって強く握った。
 目の前に広がる光景が、生きて俺の名前を呼んでくれる信繁様が、俺の夢という偽りだとしても。それを手放していいと思うほど、……きっとまだ、俺は強くない。
信繁様はきょとんとした後、寂しそうに微笑むだけだった。

第四章

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