梅雨の
ヒデタダと
ユキムラ







 駅の構内から一歩出た途端、ポツリと頬に当たった冷たい雫に釣られて、ヒデタダは空を見上げる。朝から厚く空を覆っていた雲が、とうとう雨を落とし始めたようだ。小雨なら走って帰ろうと思ったが、遠くでは雷が唸る音がする。この様子では家に着く前にかなり大降りになりそうだ。鞄の中に折り畳み傘がないか探ってみるが、そういえばこの前ユキムラに貸したまま返してもらっていなかったことを思い出す。
 この時間なら、イエヤスもユキムラもアパートに帰っているはずだ。仕方ありませんね、と呟きながら、ヒデタダはイエヤスとのラインメッセージを開いた。


 帰りの遅いヒデタダの代わりに、今日はイエヤスとユキムラが料理担当である。サラダを作るユキムラの隣でイエヤスがせっせとハンバーグの種を捏ねているとき、傍らにレシピを表示したまま置いていたイエヤスのスマートフォンが音を立てた。ボウルから手を離せないので、視線だけそちらに向ける。通知欄にはヒデタダからのラインメッセージが表示されていた。
「……おや、ヒデタダが駅まで迎えに来てほしいそうだ。あと、君に傘を貸しっぱなしらしいが」
「傘ぁ? ……あ、そういや借りたような気が……。てか、雨降ってんのか?」
「そうだな、まだ小雨だろうか。……まぁ、走って帰らないということは、あちらはかなり降っているのやもしれんな。ユキムラ、行ってきてくれないか」
「ええっ、なんで俺?」
「俺は今手がべたべただからな。帰ってくる頃には俺が全部作っておいてやるから」
「んー、それならいっか! りょーかい! あ、サラダできたからな!」
「ああ」
 キッチンから飛び出したユキムラは、玄関の傘立てから赤い傘を一本引き抜くと、ヒナワハイツの階段を下りていく。外を見てみると、イエヤスの言った通りこちらはまだ小雨程度だが、駅の方の雲はここより黒くて重々しい。階段を降りきると傘を差して、足を滑らせないように気をつけながら、少し駆け足で駅へと向かった。
 キッチンに残されたイエヤスは、一通りハンバーグを整形し終えたあとで、ユキムラの作ったサラダに目を向けた。
「……うん、サラダは作れるようになってきたようだな」


 まさに帰宅ラッシュ真っ只中の駅は、一日を終えたサラリーマンや学生で溢れていた。その中にひとり、赤い傘を片手に真っ赤なTシャツという、ずいぶん目立つ格好をしたユキムラ。
「ヒデタダーッ! ヒデタダーッ? ヒデタダーッ!」
「うるさいですよユキムラ! 私はここです!」
「あっ、いた!」
 改札近くで大声で名前を呼んでいるユキムラに、ヒデタダは背中から声を掛けた。探したんだぞー、とむくれるユキムラだが、改札の方ではなく雨の降る外を向いていたらいくら探しても見つからないだろうに。
「ふん、相変わらずの間抜けですな」
「なんだとー! おまえ地味だからさ、もう少し存在感出してくれないと分かんねーって!」
「し、失礼な!! そもそも、傘を持っていない私が屋根のないところに居るわけないでしょう!」
「おお、それもそっか。わりーなヒデタダ!」
 けろりと笑うユキムラに、ヒデタダは額を抑えてため息をつく。これがユキムラの通常運転である。
「……ところで。私の傘は何処にあるのです?」
「え? ここに一本だろ、……、……あっ」
「まったく……」
 ユキムラが持っているのはここに来るまでに差していた赤い傘一本だけだ。早く行ってやろうと気持ちがはやるあまり、ヒデタダの分の傘も持っていくことなんてすっかり頭から抜けてしまっていた。……これもユキムラの通常運転である。
「うーん、どうしよ? あっ、ヒデタダはスーツだろー? 俺Tシャツだし、濡れても平気だからさ。おまえが傘使えよ!」
「……いいえ。少しくらい濡れたって構いませんよ」
 ヒデタダはユキムラから傘を受け取ると、それを開いて、ユキムラに視線を向ける。
「一緒に入れば、良いでしょう?」
「……! そうだなっ!」

 大粒の雨が降りしきるなか、赤い傘の下で押し込みあって、ヒデタダとユキムラは帰路に着く。社会人と高校生の身体でひとつの傘はやはり狭すぎて、お互い肩はもうぐっしょり濡れていた。
「イエヤスが、俺たちが帰ってくる頃には晩メシ作っておくって言ってたぜー! ヒデタダのメシもうまいけどさ、イエヤスも意外と料理うめーよなー」
「無論でしょう、大御所様ですからな! ユキムラは何か手伝いのひとつでもしたのでしょうね?」
「俺はサラダ作ってた! たぶんうまいと思う!」
「サラダを不味く作れる者がいたら才能ですよ。でもまあ、手伝いができたなら及第点ですな」
「へへん!」
 そう会話しているうちに、ヒナワハイツが見えてきた。もうイエヤスは食事の用意もできて、ふたりが帰ってくるのを待っているだろう。雨はまだ止みそうになく、濡れた肩が肌寒くなってきた。階段まで来ると傘を閉じて、201号室へ。「たっだいまー!」とユキムラが扉を開けると、リビングの方からイエヤスがひょっこりと顔を出した。
「おかえり、ヒデタダ、ユキムラ。……うん? 何故そんなに肩が濡れているんだ?」
「ユキムラが私の傘を忘れておりまして……。二人でひとつの傘に入って帰ってきたのです」
「はは、なるほど。じゃあふたりとも、早く着替えた方が良いな。夕食はもうできているから」
「おお! ありがとなーイエヤス!」
 るんるんと足取り軽く家に上がったユキムラと、リビングに戻るイエヤスの背中。香ばしいハンバーグの美味しそうな匂い。雨に濡れた寒さで少し縮こまっていた身体がほっと息をついて、じんわりと広がる安堵感にヒデタダは頬を緩めた。
 何処にでもありふれた、ささやかで、けれどとても幸せな場所。
(あぁ、我が家に帰ってきたなと、思いますな)

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