君がいれば







 夜が怖い。

 そう誰かに打ち明けたことはまだない。誰かに共感してもらえる感覚だとも思わない。夜が来るのが怖いからと言って、特別何か支障が出ているわけではない。ただ、ふとしたとき、夜の静けさと暗闇に恐怖心を覚える。まるで気付かぬうちに崖から落ちる一歩手前まで来てしまっていたかのような、そんな感覚がある。


「ジョージくん、もう電気を消してもいいかい?」
「うん! いいぞ!」
 ジョージの返答を聞くと、ぱちんと軽い音を立て、ザクロ寮の一室が静かな夜に沈んだ。月が出ている。二段ベッドの上段から視線を横にやると、薄暗い室内でどこかにぶつからないよう、ドア付近からベッドまでそろそろと歩いてくる影のような十手の姿が見えた。
 ザクロ寮の部屋割りで同室であるジョージと十手は、毎晩寝る前に電気を消す担当を交代制にしている。今日は十手が担当の日だ。
 十手がベッドの前まで無事に辿りついた。薄暗くて、影のようだけれど。差し込む月明かりでぼんやりと浮かび上がる彼の頬がゆるんで、「おやすみ、ジョージくん」と、おやすみのあいさつをする。
「……うん、おやすみ、十手」
 それにジョージも微笑み返すと、十手はベッドの下段に潜り込んでしまう。シーツの擦れる音が収まって静かになると、ジョージはゆっくりと目を閉じる。
 夜の暗闇が怖い。だから目を瞑った方がマシだ。
 目を閉じると、不思議と他の感覚が鋭くなると思う。しんと静まり返った部屋の中で、下段に眠っている十手が立てる、シーツの擦れる音、彼の呼吸音を、探り当てる。夜の静けさが怖いから。
 ザクロ寮は一人か二人部屋になるよう部屋が振り分けられている。ルームメイトに十手がいてくれて良かったと思う。きっと一人部屋だったなら、この夜に抱く恐怖心に、もっと怯えながら眠っていたかもしれない。
 自分のすぐ下に彼が居ることを毎晩こっそりと確かめていると、心が落ち着く。夜に怯えなくても済むのだから。


 朝、起きるのが早いのはいつも十手だ。少し早めに起きて身支度を整え、ジョージの服を用意したあとにすやすや眠っている彼を起こすのがいつもの朝のルーティンである。
 だが、今日は違った。ジョージの枕元に置いている目覚まし時計が音を立てたのだ。
 けたたましい電子音に無理矢理叩き起されて、ジョージはのろのろと布団から起き上がる。――いつもならこの目覚まし時計が鳴る前に、十手が軽く体を揺さぶって起こしてくれるのだが。
 ベッドの上段から降りたジョージは下段を覗き込む。十手はまだ布団にくるまっている。
「……十手?」
 これまた珍しいことだと思いつつ声を掛けてみるが、反応はない。仕方なく、ジョージは十手の身体を揺さぶった。
「十手、じーって! 起きろってー!」
「……、……うう、ん……?」
 ようやく布団の中から顔を出した十手はまだ瞼が重たいようで、しかめ面でジョージのことをしばらく見つめる。はっとなにかに気づいたような顔になって、勢いよくベッドから起き上がった。
「じょ、ジョージくん!? す、すまん、起こしてもらって……!」
「それは全然いいけど……珍しいな! 十手がオレより寝てるなんてさー! Good morning☆」
「あぁ、いや……はは。うっかりしてたよ……。おはよう、ジョージくん」
 十手が布団から出て、寝起きゆえにおぼつかない足取りで箪笥に近づき、抽斗を開ける。ジョージと十手の制服は、いつもここに畳んでしまってあるのだ。
「早く朝の支度をしないと……。今は何時だい?」
「いつもよりちょっと遅いくらい! まだ急がなくても大丈夫だぜ!」
「おお、それなら良かった。遅刻してたらどうしようかと……」
「十手はマジメだなぁ、遅刻してる貴銃士なんていっぱい居るぞ?」
「あはは、それくらいしか取り柄がないからね……」
「そんなことないと思うけどなぁ?」
 それぞれの制服を手に取り、シャツに腕を通す。髪を梳かしてネクタイを締める。朝食を摂るため食堂に向かうあいだ、ジョージは隣を歩く十手の顔を伺った。
「……なぁ十手、今日はちょっと元気ないのか?」
「えっ? そ、そうかい?」
「あんまり顔色良くないぞ。寝坊もしてたし。どこか悪いのか?」
「いや、体調は平気なんだけれど……。そうだね、最近少し眠れなくて。いや、眠れないというか、寝つきが悪くなってしまったというか……」
「んー? どうしたんだ? なんか悩みか?」
「うーん……、特に悩みはないんだけど、なんだか落ち着けなくてね。気づいたら随分時間が経っていたりするから、それで少し寝不足なのかもしれないなぁ」
「そっかぁ。どうにかしてやりたいけど、落ち着かないって難しいなー」
「その通りなんだ。りらっくすできるようなことは、色々試してみたんだけどね……」
 二人して考え込みながら歩いていると、いつの間にか食堂に着いてしまっていた。マスターをはじめ一般の士官候補生たちはいつも決まった時間に朝食を摂るため、彼らが出ていったあとの食堂はがらんとしている。あとは士官学校の規則にあまり縛られない貴銃士の姿がちらほらとあるだけだ。そのテーブルのひとつにマークスやライクツーらが居ることに気づいて、ジョージと十手は彼らに手を振りながら朝の挨拶をした。

 一日を終えて夜着に着替えたジョージは、テーブルランプを灯して読書をしている十手に声をかけた。
「十手、何読んでるんだ?」
「ジョージくん。図書館で借りてきた本だよ。ほら、寝つきが良くない話を朝にしただろう? 何か手がかりがないかと思って、そういう病気なんかのことを書いてある本を読んでいるんだが……」
「成果なしか?」
「残念だけどね。やっぱり人間と貴銃士じゃあ、身体のことも違うだろうし……。どうしてだろうなぁ、あんまり続くようだと困るんだが」
「うーん……」
 十手がページをめくるその本を覗き込む。ぱっと見ただけでも、自分には難しい文章がずらりと並んでいるのは分かる。分厚いハードカバーのそれを読み込もうとすればあっさりと眠れてしまいそうなものだが、十手はそうではなさそうだった。
「でも、これだけ難しそうな本なら、ちょっとくらいなんかあっても良いのになー。治し方とか、全部やってみたのしか載ってなかったのか?」
「ほとんどそうだったね。……ああでも、ひとつ試してないものはあったなぁ」
「おお! じゃあそれやってみよーぜ! 寝れるかもしれないし!」
「あ、ああ……、それなんだけど……今日はできないというか、いや、できるというか……」
 十手は頬を染めて、歯切れの悪い返事をする。
「ど、どっちだ? ……あっ、何か必要なものでもあるのか? 持ってきてやるよ!」
「ああ、いや、そうじゃないんだ! でも、その……今日はジョージくんに手伝ってもらわないとできなくて……」
「協力なら任せてくれ! それで、何するんだ?」
 ジョージが首を傾げると、十手はどこだったかな、とぼやきながらページをめくる。目当てのページを見つけると、十手はその中の一文を指差した。


「……、へへっ、照れるな、これ!」
「す、すまん、ジョージくん……。こんなことを頼んでしまって……」
 ジョージの姿は、今日は二段ベッドの上段ではなく――十手の腕の中にあった。抱き枕にされているかのように、けれど繊細なものを扱うように優しく、十手に抱きしめられている。
 十手の試していない安眠法というのは、何かを抱きしめながら眠る、というものだった。ぬいぐるみや抱き枕を使おうと本には書いてあるが、生憎それらが手元にないので、今回抱き枕役はジョージなのである。
「十手、これなら寝れそうか?」
「うん……、そうだね。何だかいつもより穏やかな気分になって……」
 そっと抱き寄せられて、ふたりの身体はぴったりと密着する。十手はジョージよりも背が高く体格も良い。こうして抱きしめられていると、あたたかい大きな繭に包まれているかのようだ。
「……へへ。寝れそうならよかった。おやすみ、十手」
「うん。……おやすみ、ジョージくん」
 十手の胸元に耳を寄せた。とくん、とくん、と微かに伝わる、規則正しい心臓の音。十手の生きている音。その音に誘われるように、ジョージもすぐに、眠りに落ちてしまった。

 朝が来て、窓の外で小鳥が鳴いている声を目覚ましにして、十手が目を覚ます。腕の中にジョージがいて驚いてしまったが――昨晩自分が頼んで抱き枕になってもらったことを思い出し、十手はほっと息をついた。
 久方ぶりの寝付きのよい夜だった。深く眠ったあとの身体はすっきりと目覚めている。ジョージを起こさないように、と慎重に身体を離したつもりだったが、その揺れやベッドの軋みでジョージの瞼がゆっくりと起こされた。
「……じって……?」
「ああ、ごめんよ、ジョージくん。起こしてしまったね」
「んー……んーん……」
 寝ぼけ眼を擦りながら、ジョージも身体を起こした。ぐっと伸びをして、「……寝れたか?」と一言十手に問う。
「おかげで今日はよく眠れたよ。ありがとう、ジョージくん」
「……おお、良かったな、十手! 寝れる方法が見つかって!」
「ああ! 今日は土曜日だから、これから街で抱き枕になりそうなものを買ってくるよ。いやあ、本当にありがとう!」
 十手の笑顔とは裏腹に、ジョージはきょとんとした顔になる。それから少し寂しそうに、
「……オレはもう抱き枕できないのか?」
と、ひとこと呟いた。
「……うん? 毎日俺の抱き枕になってもらうのは、流石にジョージくんに悪いだろう?」
「そっか、……ん、……なぁ、十手が良ければ、だけどさ。今夜も、オレと一緒に寝てくれよ。オレも今日、すごくよく寝れたんだ」
「……えっ、ええ? 俺としちゃあ有り難いが、迷惑じゃないかい……?」
「ぜんぜん! じゃあ今夜も一緒に寝ような、十手!」
 ジョージの弾けるような笑顔に、十手は少し頬を赤らめる。「今夜もよろしくね」と、頬を掻きながら返事をした。


 ――それから、ジョージと十手が同じ布団で眠るのは習慣になっていった。
 互いに体温が高いからだろうか、温かくてとろけそうな心地良さは、ぽかぽかと日だまりのように気分を落ち着かせてくれる。触れ合う肌のぬくもりが、髪からほのかに香る甘いシャンプーの匂いが、あたたかい水になって空っぽの全身を満たしていくように。何となく落ち着かずに寝付けない、という十手の不眠はすっかり解消されていた。
 十手の不眠が解消されたのだから、そろそろこれもやめても良いのではないか、と思っても、ジョージにやめる気はなさそうだった。
(そういえば、こうやって初めて一緒に寝たとき、ジョージくんもよく眠れていなかったようなことを言っていたなぁ)
 いつものように自分の腕の中で眠るジョージの頭をやわく撫でながら、十手は少し、彼のことを考える。
 初めて一緒に眠った日の朝、『オレもよく寝れたんだ』と話していたから、ジョージも何かしら睡眠に悩みを抱えていたのだとは思う。だが、十手のように寝付けず起きてしまっている様子もなければ、日中寝不足で疲れている様子なども見たことはないので、普段から不眠に悩んでいるようには見えない。
 なのでその日、十手はささやき声のように小さく、「ジョージくん」と名を呼んだ。
「なんだ? 十手」
「ひとつ聞きたいことがあって。……ジョージくんも、うまく眠れないとか、そういう悩みがあるのかい? なんだか俺にずっと付き合わせてしまっているから……」
「気にしなくていいのに。……でも、そうだな。十手みたいに寝れないとか、そういうのじゃないけど。……ヘンだなとか、思わないでくれよ?」
「思うわけないよ。……ジョージくんの悩みを言ってくれるなら、嬉しいな」
 十手の言葉を聞いたジョージの手が、手繰り寄せるように十手の胸元の夜着を掴む。
「……夜が、怖かったんだ」
 息を吸って、吐くのに合わせて、か細く吐き出された声は微かに震えていた。
「……どういうことだい?」
「なんか、上手く言えないんだけどさ。夜の暗さとか、静かさとかが、なんとなく怖くなるときがあって。寝る時もときどき、怖くて寝れなくなりそうになるんだ。
 ……だから、十手が下で寝てるだろ? 夜が怖いときは、十手の寝てるときの音を聞いて、気を紛らわせて寝てたんだ」
「……それは、ずっと?」
「ずっと。"オレ"が貴銃士になってから、ずっと」
「……そう、だったんだね……」
 ジョージを抱きしめる腕の力が、少し強まったのが分かった。
「……なんで夜が怖いのか、分からなかった。オレにも分かんないから、他の人にも分かんないだろうって、ずっと思ってた」
「……それは、ジョージくんが……、お天道様みたいだからじゃないのかな」
「オテントサマ?」
「太陽のことだよ。太陽が出てるあいだは明るくて賑やかだけれど……それが無くなると、暗くて静かになってしまうから。ジョージくんも、明るくて賑やかで楽しい場所が好きだろう? だから、そうじゃない場所……夜なんてもんは、怖いと思ってもおかしくないと思うよ」
「……そうかな」
「そうさ」
 十手は、自分よりも背が低くて細いジョージの身体を抱き寄せたまま、また、頭を撫でてやった。慰められているようにも、子どものようにあやされているようにも思えた。
(……十手、あったかい。あつい、くらい……)
 目の奥が熱くなって、じわりと、涙が滲んでくる。十手の肯定の言葉が、うれしかった。
「……俺も、同じかもしれないな」
 ふと紡がれた言葉に、ジョージは十手の胸元に埋めるようになっていた顔を上げた。
「俺が最近眠れなかったのも、夜が怖かったからかもしれない。暗くて静かで、一人ぼっちになっているみたいで、気になって。
 ……だからジョージくんが俺の腕の中に居てくれると、すごく安心するんだ。ああ、俺は一人ぼっちなんかじゃないんだなぁ、って……」
 今夜は月が出ていないから、十手がどんな顔をしているのか分からなかった。――けれどきっと、十手も泣きそうな顔をしているのだと思った。
「……オレも。オレも、同じだ。十手とはじめて一緒に寝た日……夜が全然、怖くなかったんだ。十手の生きてる音がするから。目の前に十手が居てくれるから。暗闇も静かさもなくて……すごく、落ち着く。十手が、いてくれるおかげで」
 暗闇の中でそっと手を伸ばすと、十手の頬に触れた。その形を確かめるように、輪郭をなぞる。
「……だから、ありがとう、十手」
「こちらこそ。ありがとう、ジョージくん」
 目を閉じた。ひと粒だけ、涙が落ちた。


 ――夢を見た。
 遠い昔の夢。遠い遠い──アメリカ独立戦争の真っ只中の頃の夢。
 ブラウン・ベスは、矛盾した自分の存在意義に悩んでいた。心を壊してしまいそうになっていた。そんななか、同じブラウン・ベスからもう一人のブラウン・ベスが生まれた。それが自分。アメリカ側のブラウン・ベスという人格。
 戸惑うブラウン・ベスに笑いかけて、あやすようにただひとこと、自分は言うのだ。
「おやすみ、ブラウン。」
 ――分かってる。それを言われるべきなのは、自分なのだということを。


 夢を見た。
 遠い昔の夢。遠い遠い──そう、あれは海を渡って、色々な人の手を渡り――暗い部屋に仕舞いこまれて、静かに朽ちるのを待っていた、あの頃。
 人が訪れることさえ少なかった。暗く静かで、昼か夜かも分からないまま、永い時を過ごしていた。
 あのときラッセル教官にぶつかられていなければ。今のマスターに触れてもらえていなければ。あの部屋で物言えぬまま、いつかは鉄屑と化していたのだろう。
 そう考えたとき、足が竦むような思いがする。


 夜が怖い。
 夜が怖い、けど。

 手を伸ばせば、そこに君がいる。
 耳を澄ませば、君の音がする。
 一人ぼっちでは怖い夜も。

(十手がいれば)
(ジョージくんがいれば)

 ――君がいれば、大丈夫だ。

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