重ね合わせた
約束







 ユキムラにも眠れない夜のひとつはある。屋根を叩く雨の音に誘われるようにゆるりと瞼を開くと、ため息をつきながら重い身体を起こした。なんだか今夜は寝付けない。妙に思考がぐるぐる渦巻いて騒がしいのだ。
 喉が渇いている。騒がしい頭をすっきりさせるためにも、冷えた水を飲もうとユキムラはベッドから音を立てないようにそろりと抜け出す。
「……ユキムラ?」
 と、床に足をつけた途端に頭上から声がかかった。ユキムラのベッドの隣にある、二段ベッドの上段からだ。
「イエヤス。起こしちまったのか」
「いいや、気にしないでくれ。寝付けていなかったもので。君はどこに行くんだ?」
「俺も寝付けなくてさ。水飲もうかなって思って」
「君もか。……俺もついて行って構わないだろうか」
「好きにしろよ」
 そう返すとイエヤスは二段ベッドの梯子を降りてきて、下段で寝ているヒデタダの様子を伺う。規則正しい寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。
「……起こすのは悪いな」
「そうだな」
 声を潜めて、足音を立てないように薄暗い室内を出た。皆はもう寝静まっているようで、基地の中には雨音だけが響いている。
「あ、ユキムラ。そこは雨漏りしているぞ」
「うおっ、ほんとだ。あぶねー、ありがとな」
 イエヤスの忠告に合わせてユキムラが顔を上げると、天井に入った亀裂からぽつぽつと雨水が滴っていた。古い建物を流用しているこの基地ではこう言ったことも珍しくはないが、
「……こういうのも、もうないかもしれねーんだよなぁ……」
「……そうだなぁ」
今はそれが名残惜しくもある。
 先日イエヤスやキセル達が向かった作戦で、イレーネ城の地図が手に入った。それからレジスタンス基地は一気に慌ただしくなり、最終決戦が近いことは言わずとも肌で解る。──そして、マスターの薔薇の傷が薄くなっており、その最終決戦の後におそらく自分たちはいないということも。
『この戦いが終わったあとに、決着をつけよう』
 ユキムラは隣のイエヤスを見やる。彼と交したそんな約束も、もしかしたら、果たせないかもしれないのだ。

 てっきり井戸から水を汲んでくるのだと思っていたユキムラは、厨房で足を止めたイエヤスに振り返って首を傾げた。
「水飲まねーの?」
「いや、俺はホットミルクを飲もうと思って。君も飲むかい?」
「ほっとみるく?」
「温めた牛の乳さ。蜂蜜を入れて飲むとよく眠れるのだそうだ」
「ふーん……ウマそーだな! 飲む!」
「ふふ、わかった。ええと、蜂蜜はどこにあったかな……」
 ランタンに火を灯して戸棚の中を探るイエヤスを横目に、ユキムラはマグカップをふたつ手に取る。蜂蜜の入った瓶を取り出したイエヤスに「これでいいか?」と訊ねると、イエヤスはああ、と縦に頷いた。
 マグカップに小さじで二杯蜂蜜を入れ、やかんで牛乳を温めているあいだ、ユキムラは窓の外を眺めていた。暗闇の中に雨の音だけが聞こえる。イエヤスとの間に会話はない。少し耳をすませば、雨とやかんのふつふつという音に混じって、かすかな呼吸音さえ聞こえるような。
「……沸いたかな」
 そんな静けさを、ふとイエヤスが破った。赤いやかんから白い湯気が立っている。やかんを火からおろして、そっとマグカップに牛乳を注ぎながら、マドラーで蜂蜜と混ぜ合わせていく。イエヤスの白い指先が、ランタンのあたたかい色にほのかに照らされている。
「……きれーだな……」
「……うん? 何か言ったか?」
「へ? ……あ、いや……なんでもねー」
「そうか。さあ、できたぞ。食堂でゆっくり飲もう」
 二つのマグカップを持って、イエヤスは食堂の方へ向かっていく。古い木のテーブルにそれを並べて、席に着くイエヤスの隣にユキムラも座った。
「少し冷ました方がいいかもしれんな。熱過ぎると余計目が覚めてしまう」
「そーなのか? じゃあ……」
「待つ間に、おしゃべりでもしようか。ユキムラ」
 そう呟いたイエヤスの声が、雨音だけの部屋に甘い響きを残して溶ける。ランタンの灯りしかない、広い食堂に二人きり。肩の触れ合いそうな距離でイエヤスと目を合わせるのはなんだか少し恥ずかしくて、まだ飲めないホットミルクの白い水面に視線を落とした。
「君が寝付けないというのは、珍しいな。何かあったのか」
「なんかあった訳じゃねーけど……でも、ちょっと考えごとしてた」
「考えごと? ……イレーネ城の……いや、君のことだから、俺との約束のことか」
「はは、お見通しだな。その通りだ」
 少し前にイエヤスと交わした約束のこと。
 貴銃士の彼らは、マスターとなる人がいなければ存在さえできない脆いものだ。だから遠い未来の約束は軽率に交わさない。けれど二人は約束を交わした。世界帝を倒した後で、正々堂々勝負しようと。その約束が、交わしたことが、間違っているとは思わないけれど。
「俺たちが消えるかもしれないのに、おまえと勝負できるような時間があるか、分かんねーだろ。だから……果たせない約束を交わしちゃったんじゃねーのかなって、気がかりだったんだ。武士が交わした約束は、必ず果たすもんだから」
「そういうことか。……確かにそうだな。マスターの傷はもうじき消える……世界帝を倒すという役目が終わったら、俺たちは銃に戻るのだろうな。だが、そう悲観することもないだろう。きっと約束は果たせるさ」
「なんでそう言えんだよ?」
 イエヤスは微笑みながら、マグカップの側面に指先を触れさせた。まだ熱いな、と呟いて、小さく息を吸う。
「……俺の推測なのだが、世界帝を倒したら、少なくとも俺たちのような一品銃は、国や美術館に返還されると思う。マスターはあくまで俺たちを借りているだけだ。そうすると、俺と君はどうなる?」
「えっと……一緒に日本に返される?」
「その通り。レジスタンスの貴銃士の本体として、ある程度まとまって保管されると思う。そうしたら、いつかまた一緒に貴銃士として目覚める時が来るかもしれない。遠い未来の話かもしれないが、離れ離れになることはきっとないさ。約束だって、その時に果たせる」
「そっか、おまえやっぱ頭いいな……」
「ふふ。そうなれば、次に目覚めるのは日本だな。それこそ大坂で決着をつけようか?」
「それは……」
 そうだ、と言うべきだったろう。
「嫌かも、しれない……」
 けれどユキムラの喉から出たのは、まるで正反対の言葉だった。
「どうしてだ?」
「……勝負できないかもしれないってことだけじゃねーんだ、考えてたのは。
 おまえと勝負して、決着がつけられたら……その後はどうすればいいのかなって。戦うことも無くて、おまえとの約束もなくなって、そうしたら、……俺の居る意味がない気がして……」
 怖くなったんだ、と呟いた声が、ひどく震えて、か弱かった。普段の快活な自分とは違って随分弱気になってしまうのが、肌寒い食堂と、寝付けない雨夜のせいにしたかった。
「……ユキムラ」
 名前を呼ばれて、顔を上げたユキムラはイエヤスと視線が合う。イエヤスの手が、指先の冷えたユキムラの手を拾い上げて包み込む。そうされるだけで彼には何もかも伝わってくれている気がして、変わらず微笑んでいるイエヤスの顔が、なぜだか滲んで、目頭が熱くなる。
「──勝負をして、決着をつけて……君は俺を、殺したいのか?」
「……」
 問いかけに、ユキムラは弱々しく首を横に振った。勝負をしたいだけ。あの日の決着をつけたいだけ。それ普通どちらかの死を意味しているけれど。
「……おまえがいなくなるのは、いやだ……」
 自分の言っていることが、わがままなのは分かっている。同じ士道を全うしようとしているイエヤスにも甘い考えだと思われるだろうし、何より信繁様が聞いたらきっと怒る。それでも少しずつ、思い始めていたのだ。
「おまえと一緒にいるときが、嫌じゃなくて。楽しいって、幸せだって、……もっと続けばいいのにって……。それがなくなる方が嫌だって、思ったんだ……」
 なんとなくバツが悪くて視線を落とした。そんなユキムラに投げかけられるのは、相変わらずやさしい響きをしたイエヤスの声。
「なら、ユキムラ。また、約束をしないか」
「……また?」
「ああ。世界帝を倒して、決着をつけて、その後で……今みたいに、一緒にいよう。茶を飲むのも、出かけに行くのも、なんだって、君が望むことをしよう。
 それが、君のいる意味にならないだろうか」
「……決着がついても、殺さないってことか?」
「ああ。俺も君を喪うのは嫌さ。叶うなら、君とずっと一緒にいたいと思う。君を好ましく思っているから」
「……っ」
 心臓を直接撫でられたように身体が跳ねて、鼓動が急にどくどくと音を立てる。ユキムラの手を包み込んでいた白い指先が離れたと思えば、ユキムラの指と絡み合ってぎゅっと握られた。
「……約束を、してくれるか。ユキムラ」
 震えた呼吸を飲み込んで、小さく、縦に頷く。
 交わした約束は、果たさなければならない。それならたった今交わした約束は。
(イエヤスと俺は、ずっと、一緒にいる。……決着がついても、その後も、ずっと)
 それはまるで、婚姻の契りのように思えて。それなのに、高鳴る胸が嫌ではない。
 イエヤスが仇敵であることは変わらない。けれど向けている感情はきっと仇敵に向けるべきものではない。そんな矛盾したこの想いの名前を、ユキムラはもう知っている。
(きっと俺は、イエヤスのことが)
 それでもまだ、言葉にはしないで。
「……そろそろ冷めたかな」
 何気ないように、イエヤスがマグカップに視線をやった。ホットミルクはほのかに湯気を立ち上がらせていて、ちょうど飲み頃のように見える。指先が離れることさえ切なくて、イエヤスの手の温もりがなくならないうちに、ユキムラもマグカップに手を伸ばした。体温より少し高い熱が、陶器の向こうから伝わってくる。
「甘さは……君はもう少し甘い方が好みだろうか」
 先に一口飲んだイエヤスがぼやく。ユキムラも続くように一口飲んでみた。蜂蜜のほのかな甘みが牛乳にとろけて、冷えた身体のなかにじんわりとあたたかく染み込む。
「うめーな、これっ」
「ふふ、それならよかった。飲み終わったら戻ろうか」
 ランタンの中の小さな炎が微かに揺らぐ。ホットミルクの蜂蜜は少し物足りないけれど、今日はそれでちょうどいい。
 望むなら、こんな二人だけの甘やかな時間を、もう一度、何度でも。



 ──雨が降る、少し寒い丑三つ時に、イエヤスはそんな夜の日のことを思い出す。そして一人こっそりと厨房に向かい、ホットミルクを入れるのだ。
 静かに寝息を立てていたヒデタダも、厨房までの廊下を一緒に歩くユキムラも、そばにはいない。桜國幕府が召銃しているのは、未だにイエヤスただ一人だ。
「……やはりお前たちがいないと、寂しいな。雨の夜というのは」
 静まり返った厨房でそう呟く。まだ飲むには熱すぎるマグカップが、飲み頃になるまで待つ時間がひどく長い。雨音の中に、あの夜のユキムラの呼吸音を探している。
 焦れったくなって、冷ますのもそこそこにホットミルクに口をつけた。一口飲んで息をつく。
「……やっぱり、蜂蜜が足りないな」
 それはただ胸を熱く焦がすだけ。

 眠れない夜が続いている。

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