茨の婚約指輪 | ナノ
運命の切り返し地点
( 9/11 )


目の前で頭を下げて動かない淳くん。私にはどうして彼が土下座なんかをするのか分からなかった。


「ごめん、名前」
「…………」


彼が言う「ごめん」は何に対してなんだろう。プロポーズの返事だとしたら、あの夜だって同じように言われた筈だけど。最後にもう一度、別れをはっきりさせておきたかった、とか?

それとも、もしこれが……一緒にいた女の子とのことだとしたら、そんな謝罪なんて聞きたくない。必要もないのに。


「僕が……悪かった、です」


まだ伏せたままの淳くん。時計が針を進める音だけが部屋の中に響いていた。

どう返事をしたらいいのかと迷った私は、とりあえず顔を上げるようにお願いした。少しすると、淳くんがそろそろと体を起こした。


「僕が不甲斐ないから、名前を泣かせてもて……ほんま、後悔してる」
「そんな……謝ることじゃ……」
「ちゃうねん」
「……?」


パッと顔を上げた彼は、私と目を合わせた。眉を下げ、鼻も目尻も赤くしている。淳くんのこんな泣きそうな顔、初めて見た。


「名前がしてくれた、プロポーズ」
「……うん」


頷いて、ごくりと唾を飲み込んだ。大丈夫。弱々しい淳くんを目の前にしていると、不思議と落ち着く自分がいる。

本心では逃げだしたくても、今この瞬間、彼の言葉をちゃんと聞かなきゃいけないと私の中の何かが予感していた。


「断りたかったわけやない」


苦しげで、痛そうな声音だった。私まで胸が締め付けられているような感覚になる。


(……っ、……)


「自分が情けなかった。ただでさえ年下の僕は、かっこつけられへんことの方が多い、のに……」


(……そんなこと、ないやんか)


否定するように首を振った。鼻がつんとする。視界がちょっとぼやけてきた。


「名前は年上で、普段は年の差なんか感じさせへんのに、やっぱりその差が大きくて……ちゃんと余裕もある」


淳くんのほうがしっかりしてるのに、と口にはせずに心の中で唱える。


「いつも見栄を張るので精一杯やから……せやから、プロポーズくらいちゃんとせなあかんと思ってた」


私のプロポーズは、失敗じゃなかった。タイミングを誤っただけだ。

そう考えて飛び上りたくなるほど嬉しくなる胸中とは裏腹に、私の中で黒い感情が浮かび上がってきた。それはつまり、あの女の子のこと。


「……一緒におった子、は?」


耐えきれず口にしたその疑問は、淳くんをとても驚かせたようだった。まさか知っていたのかという表情。飲み会の席で見たのだと言えば、彼は少しバツが悪そうにしている。

ギリ、と唇を噛んで、拳を強く握った淳くん。


「ただの会社の後輩、や」
「……今日も、デパートで」
「そ、れは!……、あの子とは、ほんまに、偶然会ったんや……たしかに前から言い寄られてたけど、ちゃんと断ってる。誓ってやましい事なんか無い」


その悔しそうな顔を見て、なんとなく全部分かった気がした。信じようとも思えた。もう淳くんと女の子の仲を疑ったりなんてしない。

私が抱えていた身勝手な怒りは、綺麗に消えて無くなった。


「名前に嘘はつかへん」
「……うん」
「ほんまはもっと早く名前に会いに来たかったんやけど、用意に時間がかかって……」
「!……そ、れ」
「今日はな、お店に……これ取りに行っとった」

淳くんが上着のポケットからそっと取り出したのは、シンプルな黒の指輪ケースだった。彼の手で開かれ、綺麗な指輪が姿を見せた。


「出来合いのやなくて、名前を想って作ってもらった」


さっきからずっと我慢してたのに熱くなった目尻からぼろぼろと涙が溢れて流れ、私は両手で顔を覆う。手を伝うそれは温かく、点々と床に痕を残した。


「……、ぅ……っ」
「名前」


僅かに動く気配がしたかと思えば、鼻先をふわりと彼の匂いが掠めた。それと一緒に私の肩口へ顔を埋めた淳くん。視線は交わっていなくても、触れ合った体温がお互いの気持ちを運んでくれる。

口を開いた淳くんの声は、少しくぐもっていた。


「遅なってごめん。名前のことを誰より想っとる……死ぬまで名前のそばにおりたいから……」



ーーー 僕と、結婚してください。



淳くんの、本当に心の底から懇願するようなプロポーズ。その言葉をしっかりと耳に記憶した。


「……は、い」


涙も鼻水も出て、顔はぐちゃぐちゃで、返事だって鼻声になってしまったけれど。そんなのどうでも良かった。心から幸せだと思えた。

背中に腕が回され、ぎゅう、と力強く抱きしめられる。淳くんに包まれ、心地よい体温に頬を寄せると、首元で彼の深いため息が皮膚をなぞった。熱い吐息。お腹の底からゾクゾクと何かがせり上がってくる。


「……もう遅いかもしれんて、思ってた」


私の耳に唇を寄せた淳くんが、そのままどさりと被さってきた。両腕を押さえられ、床に組み敷かれた私は、彼の手に視線をやって「ゆ、指輪…!」とその存在を心配する。

いつの間にかしっかりとテーブルの上に置かれていたそれに意識が向いていると、そんな事お構いなしにたくさんの口付けをされた。


「ちょ……待って、っ」
「あかん。抱く」


ぽたり


キスの合間に落ちてきたのは、淳くんの涙だった。


「待たれへん……一生後悔するとこやったんや」


彼の泣き顔を目にして、私も涙が止まらなくなった。またぐちゃぐちゃだ。


「ん、淳くん……」
「名前……」


首筋に強く吸い付いた彼の背中に手を伸ばす。

服の中に入ってきた手が冷たくて震えた私を、淳くんはこれ以上ないほど優しく、愛おしむように見つめて微笑んだ。



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