飾らない言葉
牧 紳一と言えば、海南第附属高校のバスケ部が誇る神奈川No.1プレイヤーだ。入学当初からその実力は「怪物」といわれていたし、三年になった今では「帝王」と呼ばれてさえいた。
そんな彼は誰からも尊敬されて、そしてみんなの人気者だった。
「……名前」
廊下で呼び止められた私は、友人と話していたのをやめて振り返る。
「ちょっといいか?」
友人たちに先に教室へ戻るように伝えてから、もう一度彼の方を向く。チラチラと私に送られる視線はいっさいがっさい無視して隣を見上げた。
私を見下ろすのは大きな背に逞しい体格、よく焼けた肌に大人っぽいを通り越してむしろ老け……ゴホン、大人びた顔をした同級生で、牧 紳一その人だった。
「どうしたの?」
「今日の部活が無くなったんだ」
「……ほんとっ?じゃ、じゃあ……」
「ああ。この前言ってた店、行けるぞ」
「やった!」
喜ぶ私を見て彼は柔らかな微笑みを浮かべていて、そのまま私の頭をそっと撫でた。店というのは、先日私が見つけた隠れ家的なカフェだった。一緒に行ってみたいと言ってたのを、覚えてくれてたんだ。どうしよう、すごく嬉しい。
「放課後、校門前な」
「うん」
何を隠そう私も、牧君に憧れる女の子の中のひとりで、そして奇跡的にも彼の彼女にしてもらえた唯一の果報者だ。
牧君との何度目かのデート、楽しみに決まってる!
「ねえ、決まった?」
「んー……そうだな、俺はコーヒーにする」
「デザートは?」
「どうせ何個かあるんだろ、食べたいやつ」
「……えへへ」
「好きなの頼めよ。一緒に食べるから」
ここのカフェは学校からは少し遠いから、同じ制服の人は見当たらなかった。その代わり他校の女の子がいたり、あとは常連っぽいお姉さんがいたり、どちらかというと女性が多かった。向かい合った彼に「居心地悪い?」と聞くと「そうでもない」と笑ってくれたから、ほっと胸を撫で下ろす。
私たちが案内された席は、お店の本棚に隠れた場所にあって、他の席からは少し見えにくくなっていた。それが店員さんのご好意なのかは分からなかったけど、心の中でありがとうと感謝せずにはいられなかった。
「ふふふ……牧君に生クリーム、似合わない」
「そう言うなよ」
私が頼んだのは、イチゴのタルトとシフォンケーキで、ケーキには生クリームが添えられていた。それを器用にフォークで掬って食べる牧君を見ていたら、なんだか笑ってしまう。
だって、クリームの白さと牧君の黒さが……なんかこう、ね?
「その牧君っての、どうにかならないか」
コーヒーを一口飲んでカチャリと置くと、ニコニコしたままの私に牧君が向き直った。
「え?」
突然のことに、言葉を詰まらせた私。
「いや……そろそろ、名前で呼んでくれないかと思って。俺のこと」
彼は人と話すとき、必ず真っ直ぐに相手を見る。その目力にいつもドキドキしてしまうのは、それだけ彼のことが好きだからだ。
そんな牧君を名前で呼ぶのは、正直まだ照れる。だって、彼の友人やチームメイトでさえ、名前で呼んでる人はいないし。でも、牧君が望んでくれてるなら、私だって呼びたい。
お付き合いを始めてからキスだってハグだってしてるのに、名前だけ呼べないなんて、思えば変だよね。よし、今から、名前で呼ぼう。心の中で気合を入れる。牧君が期待のこもった目でこちらを見ていた。
「……しんい「あの、海南の牧君だよね!?」
意を決して口にした恋人の名が、最後まで紡がれることは無かった。
ぎゅう、と握っていた両手の力を抜いて横を見ると、知らない女の子が二人、私たちのテーブルの側に立っていた。他校の制服を着ていて、年は同じくらいに見える。
「私たちもバスケやってるんだけど、牧君のファンなんです!」
「…………それは、どうも」
「まさかこんな所で会えるなんて思わなくて…!」
口々に聞こえる「嬉しい」という言葉から、彼女たちが牧君に好意を持ってるのが分かった。
「よかったら一緒にお茶しませんか?牧君と仲良くなりたいなぁ、なんて」
「ね、いいでしょ?」
「…………」
「…………」
その子たちは、きゃっきゃと楽しそうに牧君に話しかけて、私のことは眼中に無いといった様子。そりゃあ、牧君はバスケ界じゃ有名人だし、誰よりもカッコいいけど。
だからって何も彼女の私の前でお茶に誘わなくても……と少し悲しくなった。
「あ、あの……」
「悪いけど」
この状況をどうにかしなくちゃと思い何か言おうとした私を、牧君が制した。黙ってろ、と視線で伝えられる。
「……俺は今、彼女といるんだ」
「彼女って、恋人……?」
「もしかしてその子が?」
ギロ、と鋭い視線が突き刺さり、私は身を縮ませながら愛想笑いだけ返した。
「せっかく恋人と過ごしてるんだから、そっとしといてくれないか」
「あ、あの……邪魔してごめんなさい」
「いこっ」
牧君の迫力に、そそくさと去っていった女の子たち。
「結構はっきり言っちゃったね」
「ああいうのは、あんまり好かない。お前にも失礼だったし……けど、その、ちょっと強すぎたか?」
「ううん。私のために言ってくれたんだもん。ありがとう……紳一君」
「……っ、おう」
さっきは邪魔されて言えなかったけど、今度はしっかりと彼の名前を呼んだ。自分で呼んでくれと言ったくせに、驚いた顔をする紳一君を見て、私は紅茶のカップを傾けながら、彼に見つからないように口元を緩めた。
「送ってくれてありがとう」
「当たり前だ」
帰り道を並んで歩きながら、他愛ない話をする。せっかく楽しかったデートも、もう終わっちゃうんだと思ったらすごく寂しくて、無意識のうちに紳一君の手を握った。すると、何も言わずに握り返してくれた大きな手。その温もりに私の頬は緩みっぱなしだ。
「あまり一緒にいられなくて、悪いな」
「えー?気にしないでよ。私はバスケを頑張ってる紳一君が好きなんだもん」
「……」
「あ、ちょっと照れてる」
紳一君と付き合ってからまだ日は浅いけど、彼が意外と照れ屋なところとか、他にもいろんな表情があるってことを私はちゃんと知っていた。今だって言い当てられて、耳を赤くしてる紳一君。
きっと名前を呼ばれたことにも照れてる。こんなことならもっと早くから呼ぶべきだったかなと、少しだけ後悔した。
「……名前」
「ん?」
「これからも……俺は部活ばかりで、あまり時間を作れないかもしれない、けど」
改まった雰囲気で、彼にしては珍しく小さな声だった。聞き逃さないようにしっかり耳を傾けていると、繋いでいた手が解けて、かわりにフワリと頬を包まれた。
「……他の男に、心変わりなんてしないでくれよ」
「…………」
一瞬、ポカンと惚けて、それからくすくすと笑みをこぼす。いつもはカッコいい紳一君だけど、今日はなんだか可愛いかもしれない。
笑うだけで返事をしない私を、拗ねたような顔で見下ろしていた。
「その逆はあっても、私は、紳一君しか見てないから……」
「逆なんてあるわけ無いだろ」
「うん……信じてる」
目を細めて数秒間見つめ合った後、グッと腰を引き寄せられて、今度は後頭部に手が添えられた。
押し付けるように触れた彼の唇は少し冷んやりとしていて、次第に熱へと変わっていった。最後に私の下唇を喰んでからそっと離れた紳一君は、さっきまでとは違いこれでもかというほどに色気を持っていた。
「……じゃあ、な」
神奈川No.1プレイヤーだとかみんなの憧れだとか、そういうのを一切感じさせない無邪気な顔で笑った紳一君。目の前にいたのは、ただの高校三年生の男の子で。そんな彼が私の恋人なんだと改めて思い知り、例えようがないほどに胸が温かくなる。
キスの合間に囁かれた「好きだ」という飾らない言葉が、いつまでも耳に残って心地良かった。