高熱
(・・・どうしちゃったんだろう)
昨日から、私の後ろは空席のままだった。それは一限目が終わった今朝も変わらなくて。
花道が学校に来ないのだ。
「今日も休みなんて珍しいね」
私の隣に来ていた洋平もその珍しさに眉をひそめていた。
「だよなー。無断で部活休んでっからハルコちゃんも心配してた」
以前よりはマシになったものの、『ハルコ』という名前には未だに体が反応してしまう。なんでも無い風を装うけど、目が一瞬泳いでしまうのだけはどうしようもなかった。
「まさか、サボりじゃないでしょ?」
「多分違うな。今のあいつはバスケ馬鹿だからさ、授業はサボっても部活には出るだろ」
私は桜木軍団なんてものに入るような不良じゃないけど、同じ中学出身で高校でも同じクラスの私たちはいわゆる気の置けない友達というやつだった。そうなるまでには色々とあったけどまあそれは割愛させてもらう。とにかく彼らとは長い付き合いだった。
「考えられるとしたら、風邪かもな」
「・・・花道が?」
「あいつも人の子って事だ」
馬鹿は風邪をひかないなんて言葉をよく耳にするけれどまったくあてにならないなぁと、思わずため息を吐いた。
一日の授業が終わって、帰り支度をしていた私の肩にぽんと手が置かれる。
「名前、花道の様子見に行ってくれよ。俺、今日バイトで行けないしさ」
振り向けばそこには洋平がいて、「頼むよ」と眉を下げていた。
「いいけど私、花道の家知らないよ?」
「紙に書いてやっから」
「・・・大楠たちは?私が行くよりいいと思う、けど」
「あいつらが行っても騒ぐだろうしな。名前のほーが適任」
ヘラヘラしているように見えても内心では花道の事を心配している洋平に、私は小さく笑った。
それを見て口を尖らせた彼が年相応でとても可愛いと思った。本人には言わないけど。
「あ、チャンスだからって寝込み襲ったりすんなよ!」
「しっ しないから!!!」
「どうだかなー」
私を送り出す直前、にやりと笑いながら親指を立ててそう言われた。しかも上手なウインク付きで。
(・・・そんな行動力があるなら、とっくに告白してるってば・・・)
私が花道の事を好きなのは、割とみんなに知られている。もちろん洋平にも。彼はいつも何かと私にけしかけるような言動をしてくるけど、応援してくれているのかどうなのか、正直分からない所があった。
それにしても、寝込みを襲うなとは酷い言い草だとぶつくさ文句を言いながら、手書きの地図を片手に花道の家へ向かった。
「ここか・・・」
地図の通りに歩いて向かうと、ごく普通のアパートがあった。迷わず到着したのはいいものの、なかなかチャイムを鳴らせない。『桜木』と書かれた表札の前で足踏みする私は、きっと怪しく見えているに違いなかった。
でも、何時までもこうしている訳にはいかない。勇気を出せ、私!と自分に気合を入れて、ようやく桜木家のチャイムを鳴らした。
(・・・あれ?)
反応が無いということは出掛けているのだろうか。怪訝に思いながらも、風邪をひいてるかもしれないという洋平の予想を信じて買ってきた薬やらポカリやらが入った袋を、ギュッと握り直す。
家族の人はいつも帰るのが遅いと聞いていたので、もしかしたら一人で風邪に苦しんでいるのかもしれない。だから動けなくて、チャイムに出られないのかも。
そう思うと、意を決してドアノブを回している私がいた。
ガチャリ
難なく空いてしまったドアに驚きつつ、そっと顔を出して中を覗いた。まったく、無用心だ。
「花道・・・生きてる?」
廊下の先に僅かだけど人の気配がする。
「お、お邪魔しまーす・・・」
花道の家を訪ねるなんて初めての事だったし、ましてや無断で上がってしまっているので、緊張して心音がものすごいことになっていた。
しかも、好きな人の家だし。
「・・・花道?」
「名前・・・ゲホッ ゴホッ」
「あらら」
開けっ放しだった部屋の一つに、息を荒くして寝込んでいる花道を見つけた。目が合うと、体を起こそうとして途端に咳込んでいる。
どうやら洋平の予想は当たっていたようだ。とりあえず急な事故とかに巻き込まれていたんじゃなくて良かったとホッと息を吐いた。
「名前・・・名前・・・水、くれ・・・」
顔を真っ赤にして鼻水を垂らす姿に、不謹慎だけど笑ってしまった。小さな子供のように何度も名前を呼ばれれば、悪い気はしなかった。
買ってきていたポカリを手渡して、洗面台から勝手に拝借して濡らしたタオルを持ってくる。着替えはどこにあるのかと聞くと、起こしていた上半身をフラフラさせながら箪笥を指差したのでこれも勝手に物色する。手頃なものを手渡すと、ちゃんと着替えるように言ってから台所にお邪魔した。電子レンジを借りて、買ってきていたレトルトのお粥を放り込んだ。
「お粥温めたんだけど、食べられそう?」
「・・・お、ぅ」
「熱いから・・・はい、気を付けて。あとこれ薬ね」
何時もは決して見せない、すっかり弱ってしまった姿を目の当たりにして、心底様子を見にきて良かったと思った。
「名前・・・ありがとな・・・」
昨日今日と休んで、きっと明日には回復しているに違いない。もしかしたら部活はしんどいかもしれないけど、花道なら無理してでも練習に戻るだろうと思った。小さく呟かれたお礼に、私は目を細めて頷いた。役に立てたようで良かった。
「じゃあ・・・花道、私そろそろ帰るね」
花道が脱いだ洗濯物をまとめて洗濯機にいれて、帰る前に部屋を覗いた。すでに寝息を立てている彼から返事はない。さっきよりも大分楽そうな彼の様子に自然と笑みが出る私。
最後にもう一度と思って花道のおでこに手を乗せた。そして今度こそ帰ろうと私が背を向けた時、急に右手を掴まれた。誰にって、そんなの分かりきってる。この部屋には私と花道しかいないから。それに、繋がれた手はとても熱かった。
「花、道・・・?」
本当は起きてたのかと思い、恐る恐る声をかけた。いや、やっぱり寝てる。自分の心音が早鐘のように鳴っているのが分かった。
でも、それはすぐに止んだ。
「ハルコ・・・さん」
「・・・え?」
花道の口から呟かれた名前に、今度は心臓が締め付けられるような感覚がした。
繋いだ手の温度がじわじわと体温を上げるのに比例して、私の心は静かに冷たくなっていく。
彼はいま、彼女の夢でも見ているのだろうか。そばにいるのが、看病しているのが、「ハルコさん」だと思っているのだろうか。
確かに寝ているはずなのに口元が薄っすらと微笑んでいる花道の顔を、見ていられなくなった。
(・・・こんな事って、無いよ・・・)
さっきまでの、幸せで胸が暖かくなるような気持ちがどこかに行ってしまった。縋るように名前を呼ばれたことに少しでも喜んでいた自分が馬鹿みたいだ。
・・・結局、現実でも夢でも、彼女には勝てない。花道はあの人を想ってる。私が来たのは間違いだった。洋平はハルコさんに頼むべきだった。
離してくれない手を見下ろしながら、ぼろぼろと涙が溢れてくる。泣きたくなんてないのに、止まらなかった。ああ、本当、遣る瀬無いこの想いをどうしよう。
「このまま・・・花道が治らなければいいのに・・・」
それは決して私の本心では無いけれど。
せめて今この瞬間だけでも花道を独占していたいと、もう一度強く手を握り直した。