唇にキス
フラフラする頭と足をなんとか奮い立たせて、ようやく校門にたどり着いた。
朝起きた時から微熱があった私は当然休む気満々だったのに、一学期最後の登校日とあって無理やりお母さんに送り出されてしまった。こんな体調で見たくもない悲惨な通知表を受け取るのかと思うと、今日は厄日だとしか考えられない。
「よう、名字」
「・・・オハヨウ」
「ああ?お前、風邪ひいてんのか?」
「・・・よくお気付きで」
「マスクなんかしてたら誰だってそう思うだろ。それに顔、赤いし」
そう言ってグッと顔を近づけてきたこの男、三井寿は、同じ湘北高校に通う私の彼氏だ。と言っても付き合い始めたのはつい先日の事で、こうして二人で歩くのもまだちょっと馴れてない。
その理由は彼がこの夏のインターハイ出場を決めた男子バスケ部の一員で、今では時の人だったりするからだ。現に下駄箱に着いた三井君が靴箱を開けると、中には上履きの他に何通かの手紙が入っている。彼が不良だった数ヶ月前まではこんなこと無かったのに、更生した途端これかと何度目かも分からない溜息を吐いた。
まあ、自分もその更生した彼に惹かれて告白をオッケーしたんだから同じと言えばそれまでなんだけど。
私が三井君の彼女だという事は割と知られているハズなのになあ、と心の内で呟く。そうやって、彼を取り巻く顔も知らない女の子たちに少なからず嫉妬している私。もちろん、三井君には気付かれないようにだけど。
「ん?何だよ、大丈夫か?・・・あ、さっきの手紙なら読んだりしねーから心配すんなよ」
普段はガサツで不器用で、お世辞にも人の気持ちを汲み取るなんて出来ないタイプの男のくせに。何故か私の事になるとこうやって鋭かったりするから、自惚れじゃなく彼に想われてるんだと実感して、いつもむず痒い気持ちになる。
「暑苦しいよ・・・」
三井君がぴったりくっ付いて歩くのでそう言って煙たがっても、何故かニヤッと笑って離れようとしない。「嬉しいくせに」とご機嫌な様子なので、まあいいかとそれ以上は何も言わずに教室を目指した。
私の鞄を持つと言って聞かない彼に、軽いから大丈夫だと断る。ただでさえ周りに注目されてしまっているのに、これ以上見られるのは精神的に辛いものがあった。というか、恥ずかしい。もともと大人しい私の性格を考えると、この距離感でよく頑張っているほうだと褒めて欲しいくらいだ。
「にしても、明日から夏休みだってのに、可哀想なやつ」
そんな私の葛藤はどこ吹く風で、鍛え方が足りないだの腹出して寝てたんだろうだの、好き勝手に言ってくる三井君を軽く睨んだ。
「っくしゅん…! う、うるさい」
「夏風邪は治りにくいんだぜー?つーかインターハイまでには元気になれよ!あ、試合観に来るだろ?来いよ」
絶対だからな、と子供のように笑って私の頭を撫でてきた。体調が悪い彼女の隣でよくしゃべるなと呆れつつも、その言葉には頷いてしまう私がいて。
見上げた先にある三井君の無邪気な顔を見て胸がじわりと暖かくなる。ああ、好きだ。自分勝手で俺様な彼だけど。心からバスケを楽しんでいるのが分かる。真剣なのが、分かる。
何かに夢中になって一生懸命な人っていうのは、どうしてこうもキラキラしてるんだろう。
「じゃあ、三井君が大活躍できるようになるべく近付かない方がいいね。風邪、うつったら大変だもん」
「あん?別に気にすんなって。俺、風邪とか引かねえし」
「馬鹿だもんね」
「ばっ・・・なんだとコラ!」
「冗談だってば」
「・・・ったくよー」
三井君の行動にときめいたり嬉しくてにやけそうになっても、照れ隠しでついつい今みたいな会話をしてしまう私は、誰よりも子供だ。
「・・・名字」
気が付けば彼の教室を通り越して、私の教室まで来ていた。
入り口の少し手前あたりで三井君がグイッと腕を掴んできた。バランスを崩した私の背に手を添えると、さっきまでとは打って変わってどこか言い辛そうな、ソワソワした様子で口を開く。
「・・・俺、練習とかで会う時間、あんま作れねえと思う」
「うん?そ、だね」
「けど、」
廊下の柱の影になってる所で話す私たちは、あまり周りからは目立っていない様だった。じゃないと私たちのこの距離感じゃ悪目立ちするに違いないから、好都合だった。
私は内心で少しホッとしつつ、話の続きを待った。
「・・・本当はもっと一緒にいてえし、その、話してたいし・・・あー、なんだ。出かけたりも、してえと思ってる」
「え・・・あ、うん。わ、私もだよ」
いきなり何を言い出すんだと身構える私。
でっかい図体のくせに、不思議と今は三井君が小さく見える。眉間にシワを寄せて、難しい表情をしていた。
「だから今は・・・これで我慢、な」
今よりもさらに顔が近づいたと思ったら、次の瞬間には顔を少し赤くして微笑む三井君。
「・・・っ!」
「・・・じゃ、じゃあな」
一瞬の出来事で呆気にとられていた私は、そこから立ち去る彼の後ろ姿を、ただ見つめることしか出来なかった。
「名字さん?教室入らないでどうしたの?」
いつまでも壁に張り付いたままの私を見つけた通りがかりのクラスメイトが、不思議そうに顔を覗き込んでいた。ハッと我に帰ると、先ほどの記憶が鮮明に蘇ってきて、急に顔が熱くなる。
(ヤバい。絶対に熱上がってきてる・・・)
今まで忘れていた頭痛やら目眩やらが一気に押し寄せてきてフラフラする私に、クラスメイトが「大丈夫?」と声をかけた。それに慌てて問題ないと答えると、なんとか早足で席に座る。幸い、赤くなった顔はマスクをしていたおかげで誰かに追求されたりは無かったけれど。
(あんなとこで・・・キ、キスするなんて!!)
そもそもマスクの上からされたアレはキスのうちに入るのだろうか。何にせよ、布越しに伝わった感触と温もりがいつまでも唇に残って、普通にされるよりもドキドキしてしまった私は、相当具合が悪いのだと自分に言い聞かせた。