「貴之さん」


その声に振り向けば、柔らかく微笑んだ彼女が居た。それは先程までの何かを隠そうとする曖昧な笑みでは無く、慈愛に満ちているものだった。それを見て確信する。貴女はどうしてそこまで、俺に良くしてくれるんだ、と。どうしようも無く泣きたくなる。


「言いましたよね。今日だけは私の言うこと聞いて下さるって。貴之さん、お願いです。自分の気持ちに嘘を付かないで下さい。今度こそきちんと向き合って下さい。貴方にも幸せになる権利があります。…もちろん、私にも」


最後の一言は消え入りそうな声だった。でも、なんとなく分かった。この人は俺と同じだったんだと言うことを。諦めていた自分の気持ちを、俺と出逢ってから思い出してしまったんだろう。時折見せていた彼女の不安定な言動の意味が、漸く分かった。


「…ありがとうございます。貴女に出逢えて本当に良かった。今度は貴女の幸せを、心から願っています」


ありがとう、こんな俺の為に、ありがとう。その気持ちを込めて精一杯の笑顔を浮かべれば、彼女も綺麗に微笑み返してくれた。

もう、迷いは無い。数年前の自分ではない。伝えられなかった事を、今。

男鹿の手を取った。そのまま、広い胸に飛び込んだ。とても暖かくて落ち着く。勢いのまま、唇に自分のそれを押し付けた。男鹿の方が相変わらず背が高いから、すがる様に。
男鹿は言葉の代わりに俺をぎゅっと抱き締めてくれた。少しだけ痛いと感じる程に。遠くで牧師が聖書を落とす音が聞こえた。来賓の人たちが驚く声も、聞こえた気がした。でも、凄く幸せだった。今なら死んでも良いと本気で思えるくらいに。


「おが、男鹿、好きだ。す、き…」


男鹿が好きだ。何年経ってもこの気持ちを変える事は出来なかった。震え切った拙い言葉の羅列に、男鹿は照れ臭そうに頬を染める。どうしよう、泣きそうだ。


「俺もだ。勝手に居なくなりやがって、アホ古市め」
「ご、ごめん…っうぅ、」
「おい、泣くなよ。…ったく。いいか、しっかり掴まってろよ」


返事をする前に、浮遊感がやってきて、俺は慌てて目の前にあった男鹿の首に腕を回す。膝の下と腰に腕を回されて、俺は所謂“お姫様抱っこ”をされていた。滲む視界の中でも、周りの人間の目が点になってるのが分かる。かく言う俺も、流石に恥ずかしくて憤死しそうだ。


「お、男鹿、ちょっ」
「まずはこっから逃げっぞ」


楽しそうに不敵な笑みを浮かべながら、男鹿はそのまま俺を抱えて式場を飛び出した。背後から「花婿が連れ去られたぞー!」と叫ぶ声が聞こえる。もうどうにもなれ、と俺は純白のタキシード姿のまま、男鹿の腕に身を任せた。