「おにーちゃん、起きて!学校遅刻するよ!」


どろどろした沼を掻き分けるように、やたらと重い目蓋を上げた。まるで深淵から這い上がってきたみたいに、倦怠感が身体を包む。


「ほの、か…?」
「もう、お兄ちゃんまだ寝惚けてんの?早くご飯食べないと遅刻するってお母さん呼んでたわよ」


私はもう知らないからねと、ほのかは慌ただしく俺の部屋を出ていった。鈍い動作で辺りを見渡す。いつもと何ら変わらない風景だった。


なんとか朝食を詰め込んで玄関を出た。この時間ならあいつを拾って行っても間に合いそうだ。俺は駆け足で学生の多い通学路の波に逆らう。


「お兄ちゃん、どこ行くのよ。学校あっちでしょ。そっち、反対方向じゃない」
「いや、あいつん家行かねーと。また寝坊してるかもしれないし」
「あいつって、誰?この辺り石矢魔の生徒いないから、お兄ちゃんいつも一人で学校行ってたじゃない」
「え……?」


踏み出した足が空中で固まる。だって、俺が毎朝起こしにいかないと、あいつは平気で遅刻するんだ。そんなの放って置いたらいくら石矢魔だろうが進級が危うくなる。だから毎朝俺はわざわざ通学路とは反対方向のあいつん家に行って…


あれ、あいつって、誰だ?


「お兄ちゃん?」
「あ……わ、分からない。あはは、何言ってんだろうな俺。まだ寝惚けてたんだろうな。しっかりしないと」
「もう、今日のお兄ちゃん何時にも増しておかしいよ」
「ごめんって。ほら、急がないと遅刻するぞ」


訝しげなほのかを宥めながら踵を返した。どうしてか、後ろ髪を引かれる様な不安に襲われた。



***



やたらと長く感じた授業を終え、俺は寄り道もせず真っ直ぐに帰宅した。家には俺以外まだ誰も帰って来ていない。
ばふん、と制服のままベッドに沈む。制服が皺になるかも、なんて危惧がどうでも良く思えるくらいに、良く分からない喪失感の様な気持ちで胸がいっぱいだった。


それは教室に入って俺の後ろにある誰も在席していない机を見たときに。昼休みの購買でコロッケパンを見た時に。帰りに通る商店街でフジノのあげたてコロッケの匂いがした時により強く感じた。


「なんなんだよ、畜生…」


はぁ、と大きくため息を着く。身体中に付きまとう得体の知れない不安の正体が何時になっても掴めないでいた。

昼寝ならぬ夕寝でもするか、とごろんとベッドに潜った時だった。枕に黒い髪の毛が落ちている。俺と母さんは銀髪だし、ほのかは亜麻色をした茶髪だし、父さんは滅多に俺の部屋に入ってくることはない。だとしたら、この真っ黒い髪の持ち主は一体誰だ。見慣れないはずのそれはどうしてか、酷く慣れ親しんでいたもののように感じた。


「っ、あ…?」


突然、ずきりと頭が軽く痛んだ。それからちくちくと脳を直接針で刺される様な感触が続く。なにかがゆっくり剥がれて行く気がした。


『お前、なに俺のベッドに寝てんだこら。つーか早く家帰れ』
『いいだろケチ。間違って姉貴のプリン食っちまって、めちゃくちゃキレてんだよ。今帰ったら確実に殺される』
『だからって俺ん家に泊まりにくるな!つーか客人が堂々とベッドに寝るな!』
『うっせーな。じゃあ一緒に寝れば文句ねーだろ』
『そういう意味じゃねぇ!って、おいっ!やめろばか男鹿っ!!』


「あ……」


思い、出した。


「お、が…っ、」


その名前を口にした途端、ズキンと頭が痛み出す。何かがベリベリと、脳から剥がれいく音がした。頭をかきむしりたくなる痛みが一気に襲う。


「う、あ、あああああああっ!!!!!」


痛い、痛い痛い痛い痛いっ!!!

堪らず頭皮をガリガリ引っ掻いた。ベッドの上でのたうち回る。こめかみがピクピクと痙攣して、生理的な涙が押し出された。

記憶が、津波のように押し寄せてくる。それはとても膨大で、俺の脳内はキャパオーバーでショート寸前だった。なんとか戻ってきた記憶を押し込めた時には、全身が弛緩し、ヒューヒューと荒い息を吐く事しか出来なかった。
ぐったりしたまま、ベッドに沈み込む。疲れ切った思考でこれからどうしようか模索してみても、俺の前から居なくなったヒルダさんを呼び出す術がない。最も、俺がそう出来ないように強制的に記憶を消したのであろうから。
漸く靄が開けたのに、どっちみち八方塞がりなのには変わり無かった。


「ち、くしょ…」


ひび割れた酷い声が出た。ベッドに俯せになったまま、ギリリとシーツを強く握りしめた。疲れきった身体は睡眠を欲しているように、俺の意識をそのまま眠りに尽かそうとする。結局、俺は非力なんだ。一人じゃ何も出来ない、ただの弱い人間なんだ。

視界がぐにゃりと歪んだ。まっさらなシーツに点滴と染みが出来る。


「…良く、思い出しなされた」


ふと、沈み掛けた意識の中で聞き覚えのある低い声が鼓膜を揺すった。ぼんやりとしたまま目蓋を上げる。


「お久しぶりです、貴之殿」
「あらん、どろ…?」
「はい。そのままお聞きになって下され。強制的に魔界の薬の効力をはね除けたのですから、相当身体に負担が掛かっている筈ですぞ。そのまま、私の話を聞いて下され」


鈍い動作でこくりと頷いた。本当に小さな動作なので伝わったか不安だったが、アランドロンはゆっくりと語り始めた。


「察しの通り、我々は人間界で記憶を忘却する薬を使いました。それは私たち悪魔に関する記憶ともう一つ、男鹿殿に関する記憶です。関わりの深い方たちには直前注射と云う形で、その他の方たちにはミスト状にして町全体に降らせました。これはヒルダ様独断の行動です。なぜなら男鹿殿はいま、魔界に幽閉されておられるからです」
「ゆ、うへい…!?」
「安心してくだされ、危害は加えておりません。最も、加えられないと言った方が正しいでしょうな。男鹿殿は人間界での修行の際、ゼブルスペルを暴走させベルゼ坊っちゃまの意識まで乗っ取ってしまったのです。コントロール出来ないとは言え、完全に二人はリンクをしてしまい、大魔王様に匹敵するほどの存在となってしまいました。やむを得ず、なんとか男鹿殿を魔界の城の地下牢に押し込めましたが、いつまた暴走するか分からない状況でございます。それに…」


アランドロンは言葉を一旦区切り、苦悶の表情のまま呟いた。


「男鹿殿の身体は強大な魔力を宿しております。例え坊っちゃまとのリンクを切れたとしても、男鹿殿の意識が戻る可能性は限りなく低いです」


その言葉に思わず身体を起こした。脱力仕切った身体が悲鳴を上げていたが、そんな事気にする余裕なんてなかった。


「そんな…」
「けれどまだ決まった訳ではありません。その為にも貴之殿、私は貴方に頼みがあってここに戻って来たのですぞ」
「頼み…?でもお前、それじゃあヒルダさんが」
「ヒルダ様も承知の上です。貴方の記憶を消す際、私はそれを黙認する代わりにヒルダ様に条件を出したのです。もし貴之殿が薬の効力をはね除けてまで記憶を取り戻す事があるなら、その後は私の好きにさせて下さると。正直、可能性は限りなくゼロに近かったですが、こうして貴方はまた男鹿殿の事を思い出したのです。人間である貴方が悪魔の力に勝ったのです」


アランドロンはそう言ってまだうっすらと涙の名残がある俺の目尻を拭った。非力だと嘆いていた自分を宥めるような言葉と動作にうっかりまた目の奥がつんとする。けど、なんとかそれを押し留めた。今は惨めに泣いてる暇なんて、無いんだ。
目を閉じる。ゆっくり息を吸った。もう迷わない。そう決意をして目を開き、真っ直ぐにアランドロンを見据えた。


「連れて行ってくれ。男鹿の元へ」








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