男鹿が帰ってこない。
ベヘモットとの抗争の後、強くなると宣言して男鹿が姿を消してからゆうに三ヶ月以上が経とうとしていた。あの時惜敗を喫した男鹿の決意や悔しさは相当のものだったが、何の音沙汰も無しにただ刻々と時間が過ぎて行く。

そして三日前、突如ヒルダさんとアランドロンが帰ってきた。いつの間にか居なくなっていた悪魔勢はてっきり後の戦いのキーとなる男鹿の元へ行ったのだと思っていたため、二人が平然と帰ってきたのに幾分拍子抜けした。それに恐らく二人に着いていったであろうラミアの姿も無い。


「ヒルダさん、どこ行ってたんですか?男鹿は?一緒じゃないんですか?ラミアも見当たらないみたいだし…」


普段ならこんな質問攻め、手痛い罵倒をひとしきりしてからそれでも律儀に答えてくれるのが平生のヒルダさんだった。しかし今日は傍らで騒ぐ俺をただ一瞥することで全てを一蹴した。いつものクールな雰囲気とは違う。冷たい、と云う形容詞がぴったりと当てはまりそうな空気がヒルダさんの周りを取り巻いていた。人間界に来てから長い付き合いである俺も戦く程に、だ。

何かが、おかしい。


「ヒルダさん…?」
「古市、貴様、男鹿とどのくらいの付き合いなのだ」
「え…?あまり正確には覚えていないけど、たぶん小学校上がってからだと思います」


脈絡の無い質問を怪訝に思いつつも答える。ヒルダさんはその言葉を聞いて神妙な顔付きになった。傍らに立っているアランドロンは真剣な顔のまま俺たちをただ見詰めていた。
異様な緊張感が辺りを包む。足を一歩、後ろに踏み出した。完全に無意識だった。脊髄の奥深くに組み込まれた動物としての本能が警鐘を鳴らす。


「人間は忘れる生き物だと云う。これは魔界でも有名だ。しかし人間はよりによって自らが大切だと感じた存在は永劫忘れはしない。追憶に苛まれるとしても、それでも人間は覚えていたいと記憶にすがる。私はそんなもの、忘却してしまえば幸せに暮らせるではないかと甚だ疑問だったのだ」


ヒルダさんがこっちに一歩近付く。俺は反射的に一歩退く。


「私はお人好しではない。軟弱な人間に寄せる同情なんて元から皆無だ。しかし貴様等はただの人間としては私たちに関わり過ぎた。どんな虫けらだろうが何ヶ月も共におれば多少の情は湧く」


また一歩、ヒルダさんが近付く。俺はまた一歩、退く。その時、背中に何かが当たる感触がした。慌てて振り返ると先程まで遠巻きにこちらを見詰めていたはずのアランドロンが居た。動いた気配が全くしなかった事に驚いてると、突然後ろから羽交い締めにされる。もがいても無駄にがっしりとした体躯の悪魔に敵うはずがなかった。


「おい、離せよっ!なんなんだよ、どうしたんだよ二人とも!」


異様な雰囲気と、自分だけが取り残されているような雰囲気に気圧される。そう感じた途端、不安の波が襲ってきた。

なんだよこれ。だってこんなの、おかしいだろ?
忘れるってなんだよ。大切な存在ってなんだよ。情ってなんだよ。

ねぇ、ヒルダさん。教えて下さいよ。その言葉が示す真意を。そして、なにより、

あなたが持ってるその注射器は、一体誰に使うものなんですか…?


「忘れた方が幸せな事もある。これは私のエゴだ。そして貴様ら人間に無様にも情を抱いてしまった自らの戒めに過ぎぬ」


その言葉とは裏腹に、ヒルダさんの瞳は哀しさを孕んでいた。どうしてそんな顔をするんですか。そう言いたかったのに、右腕にちくりとした痛みを感じて意識が遠退く。脳に靄が掛かっているみたいに、思考が白いものに覆われて行った。
強制的に、侵食されていく。記憶が、存在が滅却されていく。あらがっても、鼓動と共に白い靄は俺の思考を白く染め上げて行った。嫌だ、忘れたくなんてない。
あなたは酷い人だヒルダさん。なのに、そんな哀しそうな瞳をするから、何も責められないじゃないですか。

頬に生ぬるいものが伝う感触がする。俺の意識はそこで途切れた。









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