文旦(ボンタン)飴のような人だった。
どんなに踏み込もうとしても、その薄く纏った膜だけは決して外さなかった。
優しい人だった。
ぼん、とその柔らかいテノールで呼ばれる度に、おれはぼんじゃないとむきになって自分の名前を叫んだ記憶は、確かに色褪せつつあった。
その人の顔は霞みがかってはっきりとは思い出せなくとも、頭を撫でる大きな掌の体温と、その人が好きだった文旦飴の甘さは、十年たった今でも肌と舌が覚えている。
組関係の遠い親戚の人だとは知っていた。
そして小学生に入るか入らないか位の餓鬼に付き合ってくれる、変わった人だった。
家にいるいかついやつらとは違って、腫れ物に触れるような素振りなど微塵も見せずに、ただふらりと現れては他愛のない話をして、そうして帰り際に文旦飴を一つ寄越すのだ。

名前さえ知らない。
自分のことは一切話さないくせに俺のことは聞きたがる人だった。
学校であったこと、今日上級生との喧嘩に勝ったこと、その人は静かに相槌を打つだけだった。
楽しいのかなんて言うまでもない。
それなのにその人は俺の頭に掌を置いてこう言うのだ。


『ぼんはほんまに、強い子やね』












その人が家に来なくなったのはいつからだったろうか。
昨日のことさえ思い出すのが危ういこの頭じゃ、いつになっても思い出せる自信がない。
諦めて枕に顔を埋める。
先日大阪から来た親戚が大きな土産袋と共に持ってきた言葉を聞いてから、俺はあの文旦飴の味を忘れられずにいた。

病気だったそうだ。
十年以上、闘病生活を続けていたらしいと後から聞いた。
亡くなったのは一年も前の話だった。
その話も、その場で聞いたあの人の本当の名前さえも、非現実的なものに思えた。
どんな関係なのかと問われれば、ただの知り合いとしか答えるしかなかった。
そうか、ただの知り合いだったのか。
子供のころ組のやつらの目を盗んであの人を待っていた時に感じた、秘密を共有するようなどきどきした感情も、高鳴る胸の鼓動もただの十年で変わってしまったんだ。
そしてなにより一番変わってしまったのは、あの人はもう、ここにはいないということなんだ。

















「大阪に行きたい?」


それでもあの人の元へ行きたいと願ったのは何故だろうか。
目の前にある姫川のサングラスが光を鈍く反射して光るのを、どこか夢の中にいるような感覚で見ていた。


「なんだよいきなり。行きたいとこでもあるのか」
「墓参りに、行きたいんだよ」


姫川の顔が少し動く。
光を受ける角度が変わったサングラスは全て反射して白く光ってしまい、俺から姫川の表情を伺うことは出来ない。
それでも姫川が俺の突然の頼みに疑問を抱いてるのは分かった。

俺は姫川に全てを話した。
疚しいことではないが、今まで隠してきたあの人とのことを包み隠さず話すのは、多少は抵抗があると思ったのに、何も言わずに聞いてくれた姫川を見てると口が勝手に動いてしまった。
姫川はもう、俺たちの全部を知っている。
けどあの人は姫川のことを知らない。
おかしな三角関係が出来た気がしたが、姫川が首を縦に振ってくれたのを見てどうでもいいと感じた。















新幹線に乗ったのは修学旅行以来だ。
たった数時間で遠く離れた大阪に着いてしまうのだから日本も便利になったものだ。
すぐにあの人が眠る墓へと向かう。
その前に、墓に供える花を買いに行こうとした足が向かったのは、近くにある廃れた駄菓子屋で、目当ての物を引っ付かんでから買ってから、俺は墓へと急いだ。


「お前にとってその人はどんな人だったんだ」


あの人が眠る霊園はかなり土地が広く、あの人の墓を探すのは一苦労だった。
ふいに後ろから姫川にぽつりと言葉を投げ掛けられる。
どんな人、と言われて浮かぶ単語は数える程しかなく、ああ俺はあの人のことなんてこれっぽっちも分かっていなかったんだと、今更ながらに実感した。
それでも未練がましく大阪にやってきたのだ。
我ながら情けないにも程がある。


「優しい人だった。たまにうちに来ればどーでもいい事ばっか喋って、くそつまんねー餓鬼かまって、とにかく変なやつだった。ああ、あと帰り際にはいつも飴をくれたぜ。あのオブラートに包んである飴。あれ甘いからあんま好きじゃねーって言ってるのに毎回寄越すんだよ」


そう喋っているうちに、あの人の名前が彫られた墓石を見つけた。
綺麗に掃除してあり花瓶に生けられた鮮やかな花に、この人は他の誰かに充分に愛されているのだというのが伝わってきた。
線香の煙が立ち上るその横に、あの人が好きだった文旦飴の箱を置く。


「花なんかどんなの買っていいかなんて分かんねーから、これで許せよ。あんた好きだったろ」


そっと墓石を撫でる。冷たい。
あの人はもう、一年も前に死んだんだ。
悲しさはあるのに、涙は出ない。
女みたいにわんわん泣くような性分じゃないが、それでもこの人といざ対面したら惨めにも泣くだろうと、予測していたのに。
ふと、隣に立つ姫川が笑った気がした。


「お前の言った通りだな」
「何が」
「本当に優しい人だ、この人」


視界が揺れた。
インクの滲みみたいにぐにゃりとへし曲がった姫川の姿に、自分がようやく泣いている事に気が付いた。

分かってる、この人は優しい人だ。
けど心のどこかでは、俺に合わせて虚勢を張っていたのではないかと疑っていた。
組長の息子である俺のために、いやいやながら付き合っていただけではないのかと思っていた。
でも、違った。
俺が感じていたオブラートの様な膜は、俺を包み込み、内側から触れたそれだったのだ。
あの人の外側に隔たりなど一切なかったんだ。



姫川は惨めに泣きじゃくる俺の頭に掌を乗せながらぽつりぽつりと呟く。
あの人とは違う体温、あの人とは違う声なのに、ここまで安心してしまうのは何故だろうか。


「きっとこの人は闘ってたんだよ。お前と会うずっと前から。闘って闘って闘い疲れて、もう諦めようとした時に、お前に出会ってもう一度立ち上がってみようって思ったんじゃねーか」


『ぼんはほんまに、強い子やね』


儚く笑いながらそう呟いたあの人の声が反響する。
霞んでいたはずの記憶から確かにあの人が微笑む姿が浮かんできた。


「強いのはあんたの方だろ」


悪戯っぽくそう呟けば、生けられた花が風によりふわりと揺れた。



















「そーいえば今日お彼岸だな。ぼた餅買ってくか」
「は、もう帰るのか?」


折角大阪まで来たのにと呟くが、断固として姫川は納得しなかった。
まぁ連れてきた身であれこれ言えないのだが。


「お前が昔の男に未練たらたらなのを間近で見て、これ以上耐えられると思ってんのか?」
「うわ、故人に嫉妬かよ情けねー」
「自然の原理だろ。帰ったら覚えとけよ」
「知るか勝手にやってろ」


それにあの人は昔の男とかそんなんじゃねーよ、と言えば分かってるよめんどくせーなと大変むかつく答えが返って来た。
結局はこいつもお人好しなのだ。
そして世話になった礼に、こいつの要求を受け入れてやろうとか考えている俺もきっと。






――――――――――



神崎を泣かせる姫川、というリクエストを頂いて、ゲス川が女癖の悪さで乙女神崎を泣かすのも大変美味しいのですが、今回はあえて(性格が)イケ川が傷心神崎を良い意味で泣かすというテーマにしました。
泣かすって色々なニュアンスが含まれてますよね。
そして今日(3/21日)が丁度春分の日ということもあって、お彼岸もテーマに、そして管理人が昔好きだったボンタン飴も入れさせて頂きました。
一風変わった姫神ですが、お気に召して頂ければ幸いです。

いなみ様、素敵なリクエスト有難うございました!






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