「おひざー…かしてー…」

そう言った彼が膝で寝息をたて始めて十分が経った。
基本的に筆談をする俺と、あまり喋る事を得意としない彼とは相性が良くて時間さえ合えばほとんど毎日のように顔をあわせていた。
大体は俺が大学を終える時間辺りに彼が門まで迎えに来る。フリースクールと呼ばれる学校へ通う自分は時間がたくさんあるのだと前に彼から聞かされた。
真っ白な服に身を包んだ彼は、初めて俺を迎えに来たときにその独特の雰囲気から病院を抜け出してきた患者ではないのかと教授に捕まっていたっけ。
彼と俺を引き合わせた少女を瞼の裏に思い描きながら、膝の上で小さな寝息をたてる彼を見下ろした。

うちのリビングの真ん中を陣取る大きなソファは彼のお気に入りの昼寝スポットだ、柔らかい感触が好きなのだと言っていた。
色素が抜けてしまったかのように白く細い彼の髪の毛に指を通しながら、見下ろした。



彼――一 二と初めて出会ったのは確かこの地区で一番大きな日本家屋の前だった。
立派な門扉には『月神組』と達筆な文字の表札が貼り付けられている。あぁそういえばここはヤクザの家だとか聞いたことがあるな、なんて思いながら通り過ぎようと足を進めると大きな門扉から少し離れた所にある小さめの木戸の前の地面に腰を下ろす真っ白な人影が目に入った。
髪も肌も服も真っ白で、影の部分がくっきりと黒で表されていた。
弟と同じくらいの歳だろうかと考えながらも突然(もともとそこにいたのだろうけれど)現れた事に驚いた衝撃で固まっていた俺を、一つの灰色の瞳が見上げてきた。
片方はこれまた白い眼帯で覆われている。怪我でもしているのだろうか?


「…なにかー…ごようー…?」


開いた口の隙間から見える舌は赤かった。
どうやら地面に落書きをしていたらしい彼は、すっかり土で茶色く変色してしまった指を何度か払って俺を真っ直ぐに見つめてくる。
地面に描かれていたのはデフォルメされた彼自身の似顔絵と、反対側に眼帯をつけた誰かの似顔絵だった。
可愛い。そう思った。


「……ごようー…?」


黙っている俺を不思議に思ったのか、立ち上がった彼は身を屈めるようにして一歩近付いてきた。
猫背気味な彼はきちんと立つと俺と同じくらいだろうか、上から下まで真っ白でなんだか現実味がない。
まじまじと見つめてくる彼との交流ツールになりえるものを、残念ながら今日の俺は持っていなかった。
どうしようかと少し考えて、俺はその場に屈んだ。先程の彼と同じように地面に指を押し付ける。


『何をしてたの?』
「んー…?」


長いまつ毛は瞬きをする度に音が聞こえるのではないかと思った。
じっと文字を見下ろした彼は少し考えるような素振りを見せた後傾いでいた首を元に戻した。


「まさとくんとー…あそぼうと、おもったんだけ、どー…」


忙しそうだから、と彼はため息を吐き出した。ゆったりとしたその声は聞きようによってはまるで少女のようだ、稀にいる声変わりを迎えなかった子なのだろうか。


『まさとくんって?』
「…ここのー…いちばん、えらいひとー…?」


指差されたのはその存在を忘れかけていた立派な家。一番偉い人、という事はつまり、彼が遊ぼうとしているのは組長なのだろうか。
まだ高校生くらいだろう彼と組長にどんな繋がりがあるのだろう。
まさか目の前の彼が組の構成員な訳あるはずもないし、と考え込む俺の服を引っ張る指があった。考えるまでもなくその指の持ち主は彼だ。


「ねぇー…おなまえ、なんていうのー…?おれ、ねー…にのまえ、ふたつー…」


一 二と漢数字が二つ地面に並んだ。名字も名前も珍しい。


『神宮零人』


地面にそう書くと彼は何度か口の中で「じんぐうくん」と呟くように繰り返していた。
やがて顔を俺へと向けた彼は決してにっこりと、とは言えないものの柔らかな笑みをその唇へと載せて俺の服の裾をしっかりと握り締めた。
ついさっき会ったばかりだというのに不思議と嫌悪感や不信感が沸いてくる事はなかった。
その日俺達二人は日が暮れるまで絵を描いたり話をしたりした。すっかり意気投合してしまい、あの立派な門から顔を覗かせたピンク色のメッシュを入れた優しそうな雰囲気の男の人に声をかけられるまで日暮れだと気付かなかったくらいだ。



これが、彼と俺のファーストコンタクトだった。今や彼は俺の事を「れーとくん」と呼び俺のすぐ傍で眠ったり俺の手から食事を摂る。なんだか小動物の面倒を見ているようで楽しい。
膝の上で眠る彼の額へ触れるだけの口付けを落とし、俺も眠る事にした。


110416

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