もう随分と長い間、私はザップさんにとって安牌な女を演じ続けてきた。そのほうが彼にとって都合が良いだろうという、健気だが不毛な打算の結果。きっとこれからだって、ずっとそうしていくのだろう、と。思った矢先に事態は急展開を見せた。流石はHL、人々が想像し得る範囲の事柄はなんだって起こる魔都。
「なんで怒ってんの?」
腹這いになって褐色の背中を惜しげもなく晒す男は、子供ですらここまで無邪気にはなれないだろうという愚かしさの中で不思議そうに問う。一瞬にして沸騰しかけた感情を既のところで抑えて微笑んだ私も愚か者。この場を穏便に済ますにはこれ以上ないってくらい素晴らしい大人の対応だったが、長い目で見ればこれは失敗だった。そして私はしくじったまま続けていくつもりなのだ。私が意味も無く笑っているのにつられてザップさんも笑う。勢いだけで越えた夜も、気不味い朝も、彼にとっては馴染み深いものなのだ。
書記官という、仰々しい肩書を私は嫌う。要するに雑用係だし、もっとわかりやすい言葉を使えばいいのだ。例えば、事務員とでも。私の主な仕事が彼等の活動の記録および経過の確認であることを考えれば、仕事量の多いザップさんと頻繁に接触を持つようになったのは必然であった。彼はクズを三乗にしてもまだおつりがくるような人格の持ち主だったが、女受けの良い容姿と性格を持っている。色男はクズだと相場は決まっているのだから。
「なぁ頼むよ〜、ちびっと!ちびィーっとだけでいいから!なッ?なッ?」
両手を合わせて上目遣いに私を見るザップさんは、その惨めったらしさ故に文句なしに可愛らしいが、生憎私が培った鉄仮面はそう易々と崩れはしない。
「私にそんな権限ありませんよ、わかってるくせに」
彼は私に活動資金の賃上げを要求しているのだ。最早、毎月お決まりになった風景。ライブラで不正なんかすれば、そこのデスクで珈琲を啜る番頭が黙ってはいないだろう。そんなこと百も承知だろうに、とりあえず言うだけ言ってみようというザップさんの底知れない根性に育ちの卑しさを見る。勿論、上品にとり澄ました男になどなんの魅力もないが。
「そう言わずにさァ…ほら、気持ちだけでもさァ…」
猫撫で声を出しながら、私の後ろにまわり込んだザップさんが太腿に手を這わす。行儀の悪い右手がスカートの中に忍び込む前に、見兼ねたスターフェイズさんが口を挟んだ。
「ザップ、そのくらいにしとけよ…来月の給料が惜しけりゃな」
離れていく手の平に一抹の寂しさを覚えたことを、誰にも悟られないようにボールペンを置いた。
ザップさんは私のことを、地味で面白味のない女、即ち性的な興味の対象外として扱っていることは火を見るよりも明らかである。ビジネスライクな関係である以上、これは至って正しいことだ。お堅い女と揶揄されても、私は曖昧に笑っていた。それが彼にとってどういう意味を持つのか、わからなかったからだ。プラスに働くならこままでいるし、マイナスに作用するなら即刻態度を改めただろう。尻の軽い派手な女を彼が好むことは百も承知だったが、自分までそのフィールドに降りて行って彼を取り巻くその他大勢の女と同じになることには抵抗があった。色恋沙汰にするつもりはなかったのである。他人は私を臆病者だと嘲るだろうが、百戦錬磨相手に、それも恋愛を遊びの延長としか捉えられない欠落した人間に手を出すほど、落魄れてはいないつもりだったのだ。事実、こちらが本気だとわかればザップさんは裸足どころか裸でだって逃げ出しただろう。
だから、神に誓って私にそんな気は一寸足りとも無かったのだ。おそらく、ザップさんにだって。ただし、酔っぱらっていた彼が私を他の女と間違えていた可能性は否定できない。
チェインと飲んでいた酒場に、スターフェイズさんとザップさんが姿を見せた。日頃から仲良く飲み歩いている私達と違い、珍しい組み合わせだとは思ったが、あり得ないというほどでもない。一同に介した我々は、お互いを労いあいつつ杯を重ね、途中でチェインに気を利かせて意中の上司と二人きりにしてやろうと思い付いた私とザップさんが抜けたのだ。会計はあちらさん持ちで。そこから先の記憶はなく、気付いたら朝だった。
…というのは、対外的な言い訳に過ぎず。残念ながらというべきか、幸運にもというべきか、私の記憶ははっきりしている。酔い潰れてフラフラになったザップさんを部屋に招き入れて、ミネラルウォーターのボトルを無造作に手渡した。震える手では上手く飲めないのか、零れた水が首筋を伝っていく。焦点の定まらないザップの目は潤んでいた。私は思わず生唾を飲んだ。それに気付いたザップさんは首を傾けて、それから片頬を痙攣させた。伸ばされた手はギリギリ私に届かなくて、一度は宙を掻く。その手が触れられるところまで、一歩踏み出したのは疑いようもなく私の意思である。
一線を越えたからといって、今までと何かが変わったかといえば、そういう訳でもなく、強いてあげるならば、ザップさんの私に対する態度が以前より慣れ慣れしくなったことくらいだが、彼は誰に対しても接触過剰なところがあるので、誰からも問題視されなかった。肉体関係を持ったくらいで動揺するには、私達は少々歳をとりすぎていた。
「…いいだろ?その分、夜の肉体労働頑張るからさぁ〜」
人目がないとすぐ調子に乗るザップさんの右手は、すでに私のブラウスの中に侵入を果たしている。流石にこれでは仕事にならないと身を捩ったところで、彼は加虐的に笑うだけである。
「駄目ですッ…てば!」
「そんな顔で言われても説得力ないっつーの」
流されるままに、彼の腕に体を預ける。先程まで手にしていたボールペンが、床を転がっていくのが見えた。
そんな関係を続けている内に、気が付けば我が家もザップさんがいくつか持っている生活拠点の一つになっていた。HLだけで、一体何人の女がこんな風に彼の帰りを待っているのだろうかと、考えるだけでゾッとする。クズのクズたる所以であろう。ザップさんは部屋を散らかしたが、それ以外で自分がいた痕跡を残さない程度には狡猾だった。彼は私の部屋に私物を置かないので、灰皿に積まれた煙草の吸い殻を握りしめて惨めったらしく泣いてみたりした。それでも彼の前では努めて平気なふりをするのが私のなけなしの矜持である。本心を暴くような誠実な真似が出来るザップさんではない。こうなってみても、まだ。私は表向き安牌な女だった。
「まーた、追い出されたからってうちに来たんですか?」
「うるせー」
不貞腐れた表情を見せるザップさんだが、今日は頬に手形がないだけマシだ。簡単な夜食でも作って出せば、彼の機嫌が簡単に良くなることを、私はこの短い付き合いの内に学んでいた。
「もう無理、女恐い…ちょー恐い…マジで恐い」
「今回は何があったんですか?」
「話すと長くなるから割愛」
そして再び女は恐いとブツブツ言いながら、台所に立つ私を半眼で見詰めるザップさんは、私もまた彼のいう「女」の一人であることに、気付いていないか、気付いて知らぬふりをしているのだろう。
私達のプライベートがどんなに爛れていようとも、異界と交わる魔の都HLでは連日連夜事件が起きる。仕事は常に飽和状態。記録した端から風化していく過去の事件に思いを馳せる暇もない。
「うーん…」
ザップさんが新聞記事を見ながら一人で唸っている。連続爆破事件、マフィアの抗争か?なんて、急世界的な見出しが踊る。
「どうかしたのかね?」
優しい我らがリーダーが声をかければ、待ってましたと言わんばかりにザップさんは喋り始めた。
「それがさ〜、前回と前々回に引き続き、俺の知り合いが巻き込まれてるんすよ。偶然にしちゃあ、出来すぎてるような…」
「つまり君が狙われている、と?」
「いや、そこまでは…」
ザップさんの歯切れが悪いのは、事件に巻き込まれた知り合いというのが三人とも女性で、あまり大っぴらに出来ない関係だったこともあるだろう。私は涼しい顔で、書類をファイリングする作業を続ける。
「…程々にしておけよ」
スターフェイズさんが通りすがりに、小声で囁いていった。私は何のことだかわからないという顔でやり過ごす。
「そろそろだよな?…月に一度のお客様」
新聞に厭きたザップさんが、私にすり寄ってくる。目標は活動資金の増額だが、再三主張するように私にそんな権限はない。おねだりついでに薄い唇が私の耳を掠めていく。