※大学生設定
柳か柳生か。
ノートパソコンを操作するゼミの同期は言った。当人である柳くんは入り口付近の机で静かに本を読み、柳生くんはまだゼミに来ていない。パソコンの前に群がるのは話題が欲しい物好き3名だけだ。ディスプレイに表示されているのは大学図書館のホームページ。時刻は13時56分。間もなくホームページが更新される。自分の結果なんて分かりきっている私は部屋に備え付けのコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
立海大の図書館が新設してから今年で15年目になる。15周年を祝うべく、学内で立海大に在籍している学部生全てを対象とした読書論文コンクールが開催されたのである。募集テーマは『人生で影響を受けた本』。今まで自分が読了した本の中で、知的刺激を受けた本や考え方や人生観に影響を受けた本の読書体験を中心に書くという内容だ。最優秀賞には北欧旅行の往復券と滞在費5万円という豪華な商品があり、私が所属するゼミの中でも自分を含む数名がコンクールに論文を提出していた。その中でも最優秀賞の候補として騒がれていたのが、学内でも生粋の読書家である柳くんと柳生くんなのだ。
彼らの論文はどちらが最優秀賞になってもおかしくない。柳くんは夏目漱石のこころを通して痛感した人間の二面性について。柳生くんはアガサ・クリスティのミステリーにおけるトリックの実現の可否について。彼らの論文は作品への愛を感じ取れる、とても濃い内容であった。特に柳生くんの論文はミステリー小説を読んでいるようなワクワクさがあり、原稿用紙を捲る手が止まらなかった。彼らの論文を読み終え、自らの“この本と出会って自分の考えが変わりました”という在り来りな論文がとても恥ずかしいものに感じた。それだけ彼らの論文は良く出来た内容だったのだ。
カチャ、とキーボードの音が聞こえる。腕時計を見ると針が14時を差していた。F5キーで更新をしたのだろう。ホームページ上で受賞者が発表される時間だ。パソコン前に群がる一人が最優秀賞が誰になるか賭けようなんて下らないことを言っている。
「いよいよだね」
「ああ」
コーヒーのマグカップを柳くんの机に2つ置く。彼は読んでいた本を閉じ、一言をお礼を言ってマグカップを口に運んだ。私もその場でコーヒーを飲む。淹れたてのコーヒーは格段に美味しい。コーヒーショップで店員に勧められた粉はすっきりとした味わいで後味のくどさが無く、私好みだ。柳くんの口にも合ったようで、彼の口元は緩やかな弧を描いている。
「柳生くんはこないのかな」
「特に何も聞いていないな」
「ねえ、柳くんは誰が最優秀賞だと思う?」
「そうだな、俺は」
柳だ。
柳くんの声はパソコン前の同期の声によって掻き消された。彼らが一斉に柳くんを見る。そして先程の賭けで柳生くんに賭けていたであろう一人が悔しそうに崩れ落ちた。柳くんに祝いの言葉すら言わずに、彼らは早速ご飯を奢る話をしている。少しは敬意というものがないのかと呆れてしまう。柳くんは動じず、涼し気な顔だ。彼は最優秀賞が自分であることを確信していたのかもしれない。
「おめでとう」
「ああ、有り難う」
焼き肉やしゃぶしゃぶの話題で盛り上がる同期を押し退けて、ノートパソコンを取り上げた。そのまま、柳くんの座る席にパソコンを置き、二人で結果を見る。
最優秀賞は柳くん。優秀賞は柳生くん。優良賞には知らない学部生が数名。私の名前は勿論なかった。優良賞の商品の図書券2万円分に釣られて、あわよくばの気持ちで提出したのだ。画面に表示された結果には不満はない。
「遅れました」
ドアノブがぐるりと回り、講義で遅れた柳生くんが現れた。急いで来たようで普段はきっちりと分けられている前髪が乱れている。彼に向かって手を振り、「遅かったね」と言うと、「仁王くんに捕まってました」と苦笑いをした。
仁王くんは柳生くんの親友だ。仁王くんと柳生くん、それに柳くんを含めた三人は中高と所属していた部活のチームメイトだった。外部受験をして立海大に入学した私は、柳生くんや柳くんの話でしか聞いたことがないが、今でも部活のメンバーとは休日に遊ぶ仲らしい。一度だけ、ゼミまで仁王くんがやって来たことがあった。銀髪で気怠そうな仁王くんと真面目で大人しい柳生くん。あまりにも正反対な二人が親友だと言うのは不思議でならない。
「結果、出てますか」
「うん。出てる」
前髪を手櫛できっちり直した柳生くんは、失礼します、と私達の間に入る。結果を見た彼は複雑な心境だろう。学内全体では分からないが、ゼミ内では最優秀候補と噂されていた一人だ。自分が最優秀賞を受賞しているかもしれない、と少なからず期待はしていたはずだ。柳生くんはしばらくパソコンの画面を眺め、眼鏡をぐい、と押し上げた後、拍手をしながら微笑んだ。
「流石柳くんですね、きっと貴方が最優秀賞だと思っていました。おめでとうございます」
「有り難う。俺は柳生が最優秀賞だと思っていた」
「そんなご謙遜を」
柳生くんがくすりと笑い、柳くんがくつくつと笑う。予想外の穏やかな雰囲気に私は驚いた。もっと気まずい雰囲気になるのではないかと思っていたからだ。
「柳生くん、悔しくないの」
「ええ。結果なんて初めから興味ありませんでしたから。自分の中では満足のいく論文を書けたので満足しています」
口振りから、負け惜しみではなく本心であることがわかる。だけどもう少しくらい悔しがっても良いのではないかと思う。柳生くんの論文は素晴らしかった。読み手として純粋に感心したのだ。だから興味ない、と言われるのは少しだけもやもやとした。
興味ないじゃねえよ。最優秀賞の受賞者に柳生くんを賭けてご飯を奢ることになった同期が言った。彼は不満顔で「お前のせいで飯奢ることになったじゃん」と柳生くんに奴当たる。本気で怒っているのではないとわかるが、理不尽だ。私は腹が立った。柳生くんが困ったように笑って「私が代わりに奢りますから」と宥めているのが悔しかった。彼は大人で、周りに対して優しすぎる。
「怒ってもいいのに」
柳生くんたちのやり取りを眺めながら、思わず漏らした言葉は柳くんに聞かれていた。柳くんは「柳生は昔からああいう奴だ」と言って、すっかり冷めたコーヒーを啜った。
午後の講義が休みだった私は、ゼミでのんびりと珈琲を飲み、室内を簡単に掃除し、図書館に寄って帰ることにした。丁度借りたい本があったのだ。柳くんと柳生くん、同期の数名は講義や用事で先にゼミを後にしている。だから図書館へ向かう最中に横切った休憩所で、自動販売機で飲み物を買っている人物が、本来、講義に出席している筈の柳生くんだということに目を疑った。思わず立ち止まってしまう。栗色でさらさらとした髪の毛、伸びた背筋、皺一つないチェックのシャツ。後ろ姿でも柳生くんは目立つ。ゼミでの付き合いがある私が間違えることはないのだ。室内テラスの休憩所には彼しか居ない。自販機から飲み物を取り出した柳生くんは、プルタブを開けて缶に口をつけた。缶の色が緑色であることから中身は無糖の珈琲ではないかと思う。
声を掛けようか迷った。どうしてこんな所にいるのかと。講義中ではないのかと。しかし、缶コーヒーを一気に飲み干す彼の後ろ姿からは、誰にも近寄らせようとしない、ピリピリとした雰囲気が漂っていた。
気付かれないうちに立ち去るべきだと判断し、その場を動こうとした瞬間、がこん、と乱暴な音がする。驚いて音の聞こえた方向に視線を向ける。からからと甲高い音を立てながら緑色の缶が床に転がっていた。缶を投げた本人が、今度は缶を乱暴に踏みつける。何度も。何度も。彼の横顔は眼鏡が反射してどんな表情をしているのか分からない。缶がぺたんと潰れているのにも関わらず、柳生くんは踏みつけるのを辞めない。私の身体は全身が硬直していて動けなかった。
彼は憤り、悔しがっていたのだ。それなのに興味ない振りをしていた。普段の彼からは想像つかない取り乱した姿に、私はなんて子供なのだろうと思った。彼は子供だ。本当はものに奴当たりをするくらい幼い。そして彼は周りにそれを悟られないように振る舞うことができるくらい大人だった。
胸がきつく締め付けられたように痛く、息が詰まりそうなくらい苦しい。深呼吸をすると少しだけ身体が軽くなった。脚を曲げ、動くことを確認した私は彼に気付かれないように急ぎ足でその場から逃げる。ああ、図書館に行かなければ。借りたい本があるのだ。こんなにも自分の感情が呆気無いものだとは思わなかった。きっと私は彼が好きだ。
文学コーナー、海外の作家、カ行。
古本の独特の匂いが漂う空間で、私は本棚の上から下まで目を凝らし、目当ての作家を、目当ての本を探す。
スタイルズ荘の怪事件、ゴルフ場殺人事件、アクロイド殺し。
「見つけた」
探していた小説は気品のある黒表紙で、見開きには登場人物の記載があった。ページを捲り、その場で冒頭を読む。硬派なミステリー小説は読んだことが無かった。私が好む小説は青春を描いた温かな話ばかりだ。それでも私はこの本の登場人物を知っていたし、この本の犯人が誰であるかも知っていた。だからこそ、論文に書かれていたトリックを公平と捉えるのか不公平と捉えるのか、自らで読んで確かめたいと思ったのだ。
「貴女がアガサの本を手に取るなんて珍しいですね」
私の隣に並んだ彼は声は穏やかだった。本の中では医師が死体を検死している。その本が一番好きなのです。彼はそう言いながら、隣に並んでいた本を手に取った。
「エルキュール・ポワロシリーズの3作目はビッグ4であると、みょうじさんは知っていますか」
私は本を閉じて首を横に振る。論文にはそんなことは書かれていなかった。だから私は知らない。そう伝えると、彼は「論文、読んで下さってたのですね」と笑って言葉を続ける。眼鏡はまた反射していた。
「単行本化の際にアクロイド殺しが先に出版されたのです。ですので、ポワロの3作目としてはアクロイド殺しの方がメジャーですね」
ビッグ4の結末はアクロイド殺しに繋がるそうだ。宜しければ、と差し出された本を受け取って2冊の本を胸に抱く。休憩室での出来事が信じられないくらい、彼は優しい顔をしていた。私は敢えて知らない振りをして尋ねる。
「柳生くん。講義はどうしたの」
「さぼりです」
「貴方が講義をさぼるなんて珍しいですね」
彼の言葉をそっくりに真似てからかう。彼は「魔が差しました」と言い、眉を八の字にして笑った。
「みょうじさんは休みですか」
「うん。午後の講義は無いから、本を借りたら帰るつもり」
「そうですか」
柳生くんはポワロが並ぶ本棚の端から真っ赤なカーテンの表紙が目立つ小説を手に取る。黒い紐が掛けられたページを開き、見開きに紐を掛け直して本を閉じた。その本は私の知らないタイトルだった。
「では少し、私の気晴らしに付き合っていただけませんか」
彼は隠すのが上手い。穏やかで紳士的に、振る舞おうとする。彼が今、どんな心情なのか私には分からない。柳くんの言っていたことが何となく分かった気がする。柳生くんは昔からこんな人なのだろう。彼は人前で弱みを見せようとしない。
柳生くんに連れられて向かった先は、駅前にある雑貨店の並ぶショッピングモールだった。
CDショップで彼の好きなクラシックCDを教えてもらい、無印の日用品売り場でボールペンとルーズリーフを購入する。同階の奇抜な雑貨店で“18”と大きく書かれたレトルトカレーがどんな味がするかで盛り上がり、結局買わないまま最上階の小洒落たレストランでオムライスを食べた。具だくさんのチキンライスをふわふわの玉子で包んだオムライスは、その上に掛けられたケチャップが甘く、子供向けの懐かしい味がして美味しかった。柳生くんのお気に入りのお店らしい。
「随分夢中で読んでいらっしゃいますね」
オムライスを食べ終え、食後のカフェラテを飲みながら私と柳生くんは互いに借りた本を読んでいた。柳生くんは自分の本を読むのを辞めて、何度か声を掛けていたようだが、物語に夢中になっていた私はすぐに気付くことができなかった。私に向けられる視線にようやく気付き、慌ててごめんと謝れば、柳生くんは愉しそうに笑ってカフェラテを一口飲む。
「そんなに没頭していただけるのは自分のことのように嬉しいです」
「柳生くんは初めて読んだ時、犯人が誰か気付けた?」
「実のところ、私も所見から犯人を知っていました」
有名な作品ですので、と彼は言う。彼曰く、犯人を知っていても読み手を飽きさせない語りと、犯人が誰かを臭わせるヒントがあるのが面白いらしい。私も納得だ。そして読み進めたページが如何に不信感を抱かせるページであるかも理解した。
「フェアじゃないね、この文章。だって真実が曖昧にされているんだもの」
「いいえ、フェアですよ。真実を隠すことはあっても、嘘は吐いていないのですから」
「そんなのずるいよ」
「それではみょうじさん。貴女は私のことをどのように思いますか」
本を鞄に仕舞い、代わりにマグカップに手を添える。少し考えてから私は「優しいと思う」と答えた。柳生くんは人前では如何なる時も紳士に振る舞い、分け隔てなく誰にでも優しい。私の解答に彼は礼を告げ、そして、「それは私が嘘を吐いているからです」と言った。
「“賞なんて興味ありません”、“自分では満足のいく論文でした”そんなのは建前です。内心はドロドロですよ。私だって一番になりたい、周りから評価されたい。私は傲慢で嫉妬深い性格をしています」
マグカップに添える手に力を込めた。じんわりと温かい熱が掌の中心に集まる。返す言葉が見当たらず、カフェラテの泡に出来た空洞を眺めながら口を噤んでいると、柳生くんが私の名前を呼んだ。顔を上げると彼の視線に捕らえられてしまう。
「みょうじさんは、私が空き缶を踏みつけるのを見ていましたね」
私は咄嗟に目を逸らす。彼は気付いていたのだ。
図書館で遭遇したのは偶然ではなく、私を追いかけてきたのかもしれない。
「恐かったでしょう?」と柳生くんは言った。私は首を横に振る。怒りを露わにしている姿に驚きはしたが、恐くはなかった。彼の表情は憂いを帯びた顔をしていた。
「あれが本当の私です。本心を隠して、偽っている私の方がずるい人間で、アンフェアだと思いませんか」
本心を隠すのは確かにずるい。だけど誰しも知られたくない一面はあるはずだ。それに本心を隠して、偽ったとしても、柳生くんが優しいことに変わりはない。
「それでも柳生くんは優しいよ」
反射した眼鏡は彼の表情を隠す。彼は返事をしなかった。
どこか気不味さを感じていたのは私だけだったようで、ショッピングモールから出ると、柳生くんは「オムライス、美味しかったですね」と口元をやんわり緩めて微笑んだ。いつもの穏やかな表情に安堵する。外はすっかり暗くなっており、スマートフォンで時計を見ると時刻は21時を過ぎていた。
「少しと言っておきながら、長々と付き合わせてしまいすみません」
お時間は大丈夫ですか、と紳士らしく心配してくれる彼に、独り暮らしのため時間には余裕があることを伝える。店内が暖かかったせいか、外は少しだけ肌寒く感じた。身震いをする私を見て、柳生くんは独り事のように「寒いですね」と呟いた。
「みょうじさん、」
「柳生くん?どうしたの」
「帰りは責任を持って送りますので、もう少しだけ付き合っていただけませんか」
「うん、大丈夫」
どこに行くのかと尋ねる私に彼は「ここから近い所です」と答える。さりげなく差し出された手に自らの手を乗せるとほっそりと骨張った手に優しく包まれた。交通量の多い大通りを延々と真っ直ぐ歩いていく。やがて着いた先は6階建ての青い壁のマンションだった。ここが何処かなんて愚問だ。
「休んで行きませんか」
その言葉が何を意味するかくらい分かっている。柳生くんは今、何を考え、何を思うのだろう。彼はフェアじゃない。紳士の皮を被った、優しい獣だ。
初めて入る彼の部屋は想像通りの片付けられた綺麗な部屋だった。
シャワーを浴びて元々着ていた服を身に着け直す。髪を乾かし、浴室から部屋に戻ると柳生くんがカフェオレを淹れてくれていた。それを飲みながら、私と入れ替わりでシャワーを浴びに行った彼の帰りを待つ。牛乳が多めのカフェオレは身体を中から温めてくれる。マグカップにヒヨコのキャラクターが描かれているのが可愛いと思った。
カフェオレを飲み干し、手持ち無沙汰になった私は部屋をぐるりと一周する。部屋の隅に置かれた観葉植物。窓際のベッドには水色のシーツがかけられていて、寝台にワンボックスの白いCDコンポが置いてある。ベッドの隣の本棚にはクラシックCDと沢山のミステリー小説。アガサ・クリスティが並ぶ中にひとつ、私の好きな作家を見つけてどきりとした。その本を手にとってベッドに腰を下ろす。
「お待たせしました」
がちゃりと浴室の扉が閉まる音がして、間もなくシャワーから戻ってきたジャージ姿の柳生くんが現れた。ドライヤーで乾かされたばかりの髪の毛がさらさらとしている。普段とは違ったラフなスタイルの中で唯一いつも通りの眼鏡が目立っていた。
「なんです」
「眼鏡、外さないんだなって」
「いいじゃないですか」
奪い取られた小説は本棚に戻されてしまう。私の隣に座った彼の体重でベッドがずしりと沈んだ。残酷で、優しい話だったと柳生くんは言う。大切な女の子のためにうさぎ殺しの犯人に復讐する男の子の話。彼は悪戯に微笑んだ。ああ、やっぱりフェアじゃない。
スプーンと飴玉が書かれた表紙の本は、私が論文に取り上げた小説だった。
柳生くんに服を脱がされながら、飲み物のことを考えていた。ラボで飲んだホットコーヒー、美味しいオムライスのレストランで飲んだカフェラテ、柳生くんが淹れてくれたカフェオレ。これだけカフェインを摂取してしまえば眠れなくなると思うが、それでも身体が温まれば眠くなる。
「眠いですか」
「少しだけ」
カフェオレと同じ色をした彼の髪の毛に触れる。一本一本が細く、人形のように艶がある。高く売れそう、と思っていたことを漏らすと、私が着ていたブラウスを丁寧に畳んだ柳生くんが眉をしかめて眼鏡を中指で押し上げる。「なんでもない」と誤魔化した私は両肩を押されて後ろに倒された。
「柳生くん」
「はい」
「私、初めてだよ」
返事はしない。ベッドの上に正座をした彼は黙ったまま私のショートパンツを脱がせて畳み、ブラウスの上に重ねる。
「柳生くん」
「はい」
「私、柳生くんが好きだよ」
先程と同じく返事は返ってこなかった。私を下着姿にすると、今度は自分のジャージを脱いで綺麗に畳んでいく。初めてだというのに甘いムードは少しも無い。柳生くんは下着姿になっても眼鏡は外さなかった。この眼鏡はずるい。彼の表情を隠すのだ。口元は笑っていても、眉が曲がっていても、どんな目をしているのか分からない。この眼鏡のせいで私は柳生くんの気持ちが分からない。
「柳生くん」
「はい」
「眼鏡、外してよ」
仰向けに倒れたまま見詰めていると、「何故です」
と彼は口を開いた。邪魔だから。私は答える。表情を隠すから邪魔であること、行為の際に邪魔であること、どちらとも捉えられる言葉を使えば、後者だと捉えた柳生くんが小さくため息を吐いて、眼鏡を外してジャージの上に置いた。
「ああ。嫌ですねえ、眼鏡を外すのは」
彼の眼は内に秘める感情を表すかのように鋭く、瞳は穏やかで優しい色をしていた。そして彼は今にも泣きそうな、情けない表情をしていた。
「自分の眼を見る度に、幼い頃の母の言葉を思い出すのです」
“比呂士くんは目付きが悪いから、せめて皆に嫌われないように、お利口で優しい子になりなさい”
母親を真似たのであろう口調で柳生くんは言った。そして直ぐ様、私に誤解されないよう、家族間の関係は良いのだと訂正をする。彼自身も母親のことは大切に思っているそうだ。それでも、幼い時に言われた何気ないその言葉を彼はずっと忘れることが出来ずに、自分の眼にコンプレックスを抱えているのだと打ち明けてくれた。
「みょうじさん」
「うん」
「あなたの瞳に、私はどのように映っていますか」
いつものように眉を曲げて、困り顔で彼は笑う。その顔はいつもと違って子供で、大人気がなかった。
やっぱり私はこの人が好きだと思った。どんな彼でも変わらない。柳生くんは優しいひとだ。
身体を起こして正座をしたままの彼の首に腕を回す。
「柳生くんは優しいよ」
「…有り難うございます」
彼が私に身体を預けたせいで耐え切れず後ろに倒れてしまう。慌てて「すみません」と繰り返し謝り、私の怪我を心配する彼に、堪え切れず噴き出すと柳生くんも安心したかのようにくすくすと笑った。
「背中から、抱き締めてくださりませんか」
柳生くんは、私に背を向けて言った。薄手の毛布で隠れた肌は、互いに何も着けていない。私は言われたとおり背中に身体をぴたりと張り付けて、柳生くんの腹部をゆっくりと撫でた。初めて触れる他人の肌は、絹のようになめらかであたたかい。
「襲ってくれてもよかったのに」
「初めてなのでしょう?もっと身体を大切にして下さい」
「自分から誘っておきながら、今更紳士な振りしないでよ」
柳生くんは腹部に置いた私の手に自らの指を絡めて「みょうじさんが大切だからです」と言った。すかさず「柳生くんだから良かったの」と言い返す。小さなため息が聞こえる。貴女は意外と強情ですね。彼は呆れたように笑った。
「…そうですね、ではそのままでいて下さい。少し、甘えさせていただきます」
低く落とされた声のトーンに胸がどきりとする。繋がっていた指が離れ、彼の手が下の方へと動いていく。体勢は辛くないかと尋ねる彼に私は「大丈夫」と答えた。
「見ないで下さいね」
背中が少し丸まり、毛布がごそごそと音を立て、彼が何をしているのかは察しがついた。戸惑いながらも手を下に移動させようとする。ほんの少し呼吸を乱した柳生くんは「そのままでいいです」と私を制した。行き場を失った掌を彼の胸の中心に当ててみる。ゆっくり上下する胸は心臓が鼓動していた。背を向けられているせいで顔は見えない。背中に抱き着く力を強めて、豊満とはいえない胸を押し付けると、柳生くんは重い息をひとつ吐いた。
「みょうじさん、」
「どうしたの」
「寝台の上にティッシュがあるので、取っていただけませんか」
身体を少しだけ起こして、寝台の上に置かれたティッシュボックスを取る。ブルドッグのぬいぐるみ型のティッシュケースは間抜けな顔をしていて可愛い。何枚使うのか分からず丸ごと手渡すと、柳生くんはブルドッグの背中からティッシュを4枚引っ張って、再び私に背中を向けた。ブルドッグは自分のティッシュがこんなことに使われるとは思っていないだろう。マグカップのヒヨコや、ブルドッグのティッシュケースなど、柳生くんは案外可愛らしいものが好きなのかと思った。背中にもう一度抱き着くと、身体を震わせて柳生くんが果てた。
「はしたない姿をお見せしました。手を洗ってきます」
てきぱきと衣服を身に着け、眼鏡を掛けた柳生くんは台所で手を洗い、私を自宅に送るためにコートを羽織った。私は未だに裸のまま、ベッドの上で毛布にくるまっている。
「…帰らないのですか」
「うん」
「明日、私は午前中から講義なのですが」
「私も」
「でしたら帰った方がいい」
私のわがままも聞いてよ、といじけた振りをする。暫くして観念したかのように柳生くんがため息を吐いて、「風邪を引くので早く着替えなさい」と箪笥からシャツとジャージを取り出して私の目の前に置いた。
「明日、二人で学校に行く所を、誰かに見られて勘違いされるかもしれませんよ」
「いいよ。私、柳生くんが好きだもの」
「そうですか。私もみょうじさんが好きです」
ジャージに着替え終わると、コートを脱いだ柳生くんがベッドに潜り込み、今度は向い合って横になる。私が眼鏡を取り上げるのを彼は拒まなかった。彼は私を抱き寄せて、穏やかに微笑む。寝台に手を伸ばしティッシュカバーのブルドッグに眼鏡を掛けると、あまりにも不似合で私と柳生くんは顔を見合わせて笑った。
「ねえ、柳生くん」
「はい」
「優秀賞って、すごいよ」
「私は最優秀賞が良かったのです」
二番目では格好つかないじゃないですかと柳生くんは言う。
私なんて賞にすら入らなかったんだから贅沢だ。そう言って頬を膨らませると、柳生くんは仰るとおりだと私の頭を撫でた。
「私が初めてだ、って言わなかったら襲ってくれた?」
「さあ。どうでしょう」
柳生くんはくすりと笑ってはぐらかす。
彼ならいいかな、なんて覚悟をしていたはずなのに、着ていたものを全て剥がされ、これから抱かれるのだと思った瞬間、少しだけこわいと思った。彼はそれに気付いていたのだろう。だから、何も手を出さなかった。柳生くんは優しい。
「ねえ、柳生くん」
「はい」
「キスしてよ」
彼は微笑んでキスをくれた。触れるだけのキスは柔らかく、壊れやすいものを扱うかのように優しい。きっと彼ならこわくない。襲っていいよ、と彼の首に腕を回して言う。
「駄目です」
「どうして」
「さあ、もう0時です。寝ましょう」
拗ねた私に柳生くんは「また今度頂きますから」と耳元で囁いた。胸がとくんと跳ねる。彼は目を細めて「おやすみなさい」と挨拶をすると、私が眠りに就くまで頭を撫でてくれた。