永遠なんていらなかった

「オメェも馬鹿な女だなぁ…」

 蔑む言葉とは思えない、あまりに優しいシカクの声が、残っていたわずかな躊躇を洗い流した。

「後悔しても知らねェぞ」

 後悔なんてしない。
 どんな明日が訪れても、私は――




[]






 未来なんて初めから確定していて、私に残された選択肢はたったふたつ。
 白か黒か。
 どちらを選んでも後悔することには変わりなく思えて、長い間立ち止まったまま動けなかった。

 胸の最奥に鬱血した汚い体液が溜まる。
 増殖していく濁った感情が狂おしい。

 沈黙が続くたびに重たくなっていくこの感覚。いっそのこと、なにもかも壊れてしまえばいい――



「奈良先生、お話があるんですが」

 一心不乱に土を捏る背中は、それだけで私の涙腺に作用して、泣きたくなる。
 姿勢を変えるたびに揺れる結い髪が、心の敏感な部分を掻き毟る。

 ふたつの掌から生み出されつつあるものは、形を顕しはじめた途端に力を持ち、奈良シカクの存在感をちいさな塊に内包している。

 やっぱり奈良先生は巨匠なんだ。ほんのひと触れで彼の世界がそこに在る。

 あの土塊に、なりたい。

 あんな風に想いを込めて触れられたら、奈良シカクの色に染められるのなら、ほかにはなにも望まないのに。

 嘔吐感を伴う切なさで身体中がうるみ、気付かれないようにそっと鼻を啜った。


「ちょっと待ってろ」
「はい」

 繊細なのに力強いその指に、焦がれ続けてどれくらい経っただろう。
 最初は、陶芸家として成長したいという、純粋な向上心のはずで。
 技を盗む為に見つめていたつもりが、いつしかその欲はすこしずつ方向を変えて、気が付けば盗まれていた。

 動機が不純なものへと偏って行くのは、私にとって自然なことで。

 自分のなかで膨らみ続ける想いは、刹那を指向し、徐々に正常な判断力を失うのも必然。
 そもそも、正常とはなんなのか。考えるのも馬鹿馬鹿しく思えた。

 この目の前の男が、欲しい。
 ただ、それだけ。

 でも、その感情を隠し通すのももう限界。

「どうした、なまえ。やけに思い詰めた顔してんじゃねぇか」
「あの…」

 私はいま、いったい何を言おうとした?

 不意に我に返ると恐くなる。
 脳内を埋め尽くす感情は、どんな表現をしても取り繕うことなんて出来そうになくて
 なのに、もう黙っているのが苦しい。
 切なくて苦しくて、傍にいるのも辛くて堪らない程に切羽詰っていた。


「なんだぁ?話、あんだろーが…言えよ」
「やっぱり、良いです」

 轆轤を止め、振り返ってこちらを仰ぎ見る奈良先生の表情はいつになく真剣だから、ただの思いつきの延長で口を開きかけた自分が恥ずかしくなる。
 でも本当は、思い付きなんかじゃなくて。

「悩みでもあんのか」

 なんでも言えよ。と、言葉を続ける彼の息が、屈んだ私の前髪をちいさく揺らす。
 噎せ返るような男臭い先生の香りが、鼻腔から私の意識を溶かしていく。

 顔を直視することも出来ずに俯くと、程よく筋肉の付いたキレイな腕が目に入る。

 浮き出た血管に、触れたい。
 土じゃなく、私に触れて欲しい。

 口を開きかけたくせに、どちらの言葉を告げようとしているのか、自分でも分からない。

「ちょっと休憩するか…」

 独り言のように呟いて立ち上がった先生の背中を、ただバカみたいに目で追いながら、低い声が耳に届く距離にいる現実が、嬉しくて堪らなかった。



 工房に隣接した和室には土の香が漂い、お茶を入れる行為は束の間の家庭を思わせる。
 付着した土を洗い、首にかけたタオルで無造作に手を拭いながら近づいてくる姿。
 すこしだけ乱れた結い髪がはらりと頬に一筋かかり、揺れる黒が鳩尾の熱を圧縮していく。

 そう、こうして貴方の姿を近くで見ていられるだけで
 それだけでイイと思っていたのに。


「今日は、いつもとちょっと違うみてェだな」

 何かあったか、と問われるのがうれしい。先生が私のことをちゃんと見ているのだと分かるから。

「そうですか?」

 白々しく問い返しながら、奈良先生が私を気にかけてくれるのが、鳥肌が立つほどにうれしい。

「ああ。憂いを帯びて、女っぷりが上がって見えんぞ」
「……」
「好きな男でも出来たか」

 にやりと笑ったその口から、もれた言葉に打ちのめされる。

「違い、ます」

 違わない。ほんとうは違わない。
 好きな人は、いる。すぐそこに。手の届く場所に。

 貴方も本当は気付いてるんでしょう?

 決して腕を伸ばすことは出来ないけれど、その可否は私の意志に由来していて。

 本気で触れようと思えばすぐに触れられる距離。
 彼の姿が瞳に映り、彼の声が鼓膜をふるえさせる距離。
 奈良先生の存在を感じられる、その微妙な距離感すらも愛おしくて
 ふたりの間に静かに流れる時間が、なによりも大切だった。

 私は本当に、これを手放せる?



「不躾なこと聞いて、悪かったな…」

 目の前のお茶を啜る横顔を、そっと盗み見る。かすかな笑みを浮かべた優しい表情は、ゆるんでいるのに鋭くて。その曖昧で絶妙なバランスが、先生の美しさを際立たせている。

「どうした、ぼーっとして」
「いえ。何でも」

 心配そうに見下ろす瞳が、あまりに深い色を湛えているから。切なくなった。

 奈良シカクという男が、好きなんです。
 どうしようもないくらい。

 右の頬を横切る二つの傷に、視線を吸い寄せられる。

(俺にはオメェの知らねェ過去があんだよ…)


 そう、言外に拒絶されているような気になる。苦しい、やっぱり見ていられない。

「どうした、茶ァ…飲まねェのか」

 冷めちまうぞ、と言いながら、ふっ、と笑みを漏らす表情にみとれていたら、節くれ立った大きな掌が私の髪をなでた。
 触れられている部分に感覚も脈も集中して、きっと彼の指先から私の想いを読み取られる。

 鳩尾に集まった熱はますます凝って、喉の奥から嗚咽となって溢れ出しそうになる。
 口を開けば不毛な感情の吐露になりそうで、こわい。

 眼差しが核を捕らえる。
 表情が思考を麻痺させる。

 いちばん良い方法は、きっと抑え込むこと。それが先生に迷惑を掛けず、自分の傷をも浅く保つ最良の方法で。
 分かっているのに、まだ何処かで納得し切れずにいるのは、浅はかな欲望のせいだ。

 いま、言うべきだろうか?

「先生、」
「ん?」

 この人を試すなんて、そんな大それたことをするつもりはないけど、いまを逃せばこの先もずっとこのまま。耐えられない感情を抱えて苦しむだけに思えた。

 気が狂いそうな程に愛しい顔を見れなくなることと、叶わぬ思いに苛まれ続けること。どちらがより苦しいんだろう。
 頭で幾ら考えても分からなくて、無造作な一言に未来を託す。


「私、この工房を辞めさせて頂きたいんです」
「……」

 なにも言わず、静かな瞳が注視する。
 時計の秒針の音だけが、しずまりかえった部屋に響く。

 分かっていた。
 先生にとっての私は、その程度の存在。

 弟子としても、女としても――

 形だけでも引き止めてくれたら、反抗も反論も出来るのに。なにも言えなくなる。
 自分の口から零れた言葉の連なりが、部屋のなかの空気を重苦しく塗り替えながら浸透していく。

 ごくり、お茶を飲み下す彼の喉音が響き、呼吸をすることさえも苦しいほどの沈黙。

 貴方の近くに居たい。
 でも、近くに居るのが苦しい。

 白か黒か。

 選べない私は――



「理由は聞かねえほうがイイんだろうなァ」
「そうして頂けると嬉しいですけど」

 ふたたび髪を撫でた長い指が、私の頬に滑りおりる。
 表皮細胞への些細な入力刺激は、圧倒的な力を持って全身を駆け巡る。
 横隔膜を突き上げるような狂おしい感覚で、今にも声がもれそうだ。

「俺は、な」
「……」
「オメェと土いじりすんの好きだったけどよ」
「はい」
「エゴの押し付けするつもりもねェし」
 けど、才能あんのに勿体ねェな。

 指先から伝わる先生の繊細なやさしさは、愛情だろうか。
 その顔が示しているのは、ただの師弟の情?
 なんでそんな風に私に触れるの。期待してもいいんですか。
 それとも、気紛れ――

 どう反応すれば良いのかも分からないまま、頬に触れる掌の熱で、彼の言葉を理解する力を失っていく。


「何て顔してんだ、阿呆…」

 私いま、どんな顔をしてるんだろう。

「勘違いしちまうぞ」

 男ってのは単純な生き物なんだからよ。と、続けながらなにげなく膝を詰めて、耳元で囁かれる声が熱い。
 顔の輪郭をゆっくりと滑る指先に、心臓が止まりそうになる。

 さっきまで部屋を埋め尽くしていた陰鬱な空気は、瞬時に艶を増して、胸を締め付ける想いが一気に温度を上げる。

 奈良先生の頭のなかには、いま私がいる。
 奈良先生の瞳のなかに、いま私が映る。

「勘違い、ですか」
「うるんだ目にひそめた眉、苦しげな表情っつったらアレだ」

 アレ?

「オメェみてェな若くて綺麗な女にそんな顔されんのは、男としてわりぃ気はしねェがな」

 押し殺してきた感情に気付かれて嬉しいのか、苦しいのかさえも分からない。
 貴方にバレたのは、私よりもずっと経験が多いからですか。これまでにたくさんの女性を見て、たくさん恋をして来たからですか。
 目に見えぬ対象への嫉妬で、動悸がはげしくなる。醜い女になる。



「なぁ、なまえ――」
「はい…」

 どうしてそんなに切なげな表情をするんですか。そんなに甘い声で私の名前を呼ぶのは何故。
 ここから逃げ出そうと決めたのに、動けなくなる。



 頬から下方にゆっくり移動した指先で、かるく顎を掬われる。
 眉をひそめた先生の顔からは、いつもの余裕が失せていた。
 傾げた首に浮き出た鎖骨が視覚を麻痺させ、なにも考えられず目を閉じる。
 しずかに口を塞いだ唇は溶けそうな程に熱くて、ぐらぐらと頭が揺らぐ。

「先せ……っ」
「シカク、だろ?」

 ざらざらした粘膜が口内で暴れ、長い指が髪の毛を辿る。
 シカクの動きに追随するように肩が震え、吐息が糖度を増して行く。

「…っ、シカ ク」

 自分の呼んだ愛しい男の名で、眩暈がする。
 流されてしまう。力ずくで逃げ出すつもりだったのに。

 やわらかく押さえ付けられた両腕は、簡単に彼の掌から抜き取れるはずなのに、 愛おしそうに見下ろす視線が私を縛る。

 背中に感じる硬い井草の感触も、シカクの向こうに見える安っぽい天井も、何の感慨も引き起こさない。

 こんな所で突然、こんなことになるなんて。

 でも、私がずっと望んでいたことだ。
 結局私はシカクに抱かれたかった。

 ふっ、と漏れた小さな笑いに自嘲が篭る。

 そっと抜き取った左手で、こめかみの傷痕に触れると、シカクは目を細め口端を歪めた。

 その傷にキスしたい。
 そう願うだけで瞳が潤み、指先は震える。



「オメェも馬鹿な女だなぁ」

 蔑む言葉とは思えない、あまりにやさしいシカクの声が、残っていたわずかな躊躇を洗い流す。

「後悔しても知らねェぞ、なまえ」

 頬をなで下ろすシカクの掌は、まるで壊れ物を扱うように限りなく優しい。
 肌を重ねれば伝わってしまう感情があるのだとしたら、いま私が感じているのは秘められた彼の想いだろうか。

 熱を含んだためいきをつく男に、早く貪り尽くされたくて、期待が皮膚をしっとりと汗ばみはじめる。
 こめかみから精悍な頬の骨格を辿り、指を滑らせるとシカクは気持ちよさげにゆるく目を閉じた。
 その表情に魅了される。

「…シカク」

 欲しくて堪らないのは、手に入らないものだからなのかも知れない。
 そっと下唇を食まれると偽善も倫理観も遠ざかる。
 膝をこじあけられ、大きな身体の重みを震える両腕で受け止める。
 眉をひそめた表情が薄い粘膜を焼き、声が嗄れる。


 目を閉じたまま首筋に唇を這わせてくるシカクから、目が離せない。
 かるくめくれた唇は滑らかに潤って、まるでぬるい水のよう。触れられた部分から身体が溶けてゆく。
 日向臭いニオイと微かな土の香にシカクの汗の匂いが混じり、頭の芯が疼きはじめる。

 このままシカクに抱かれたい。

 骨が軋みそうなほど強く抱きしめながら、互いの服を脱がせ合う。
 首筋に、咽喉元に、胸に、肩に、掌に。くちびるを降らせ合うと心が軋んだ。

「なまえ…」

 シカクの切なげな低い声が私の名を呼ぶ。
 肌に直接触れる熱い皮膚の感触で全身が粟立つ。

 自分とは全然違う形をした腕や脚や喉仏、綺麗な筋肉に覆われた厚い胸。シカクの全てを自分のものにしたかった。
 欲しくてほしくて堪らない。

「なまえ…っ」

 シカクの零す息が私をばらばらにほどいてゆく。
 目の前の逞しい肩に歯を立てる。

 あかるい陽光の差し込む室内には湿った淫靡な空気が漂い始めていた。

 もう
 戻れない――



[]

(オメェはずっと此処に居ろ、俺の傍に)
(もう、共犯者だね。逃げられない)
(逃げてェのか?)


2008.07.15
実は微妙に連載[色付く世界][透明な軌跡]のサイドストーリーでもあります。建築士シカマルの父は、世間に名を馳せている陶芸家設定
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