指先の温度差

「セックスなんて、所詮はレクリエーションに過ぎないんじゃないかな」

 貴女はそう思わない?と、問い掛けを続ける先輩の横顔は、すっきりと澄んでいた。
 声に混じるかすかな憂いと表情から受ける印象とのギャップが、妙に鳩尾の辺りを騒がせる。

「肌を合わせる事に、たいした意味なんてないのよ」

 その言葉は、まるで自分に言い聞かせているみたいだった。

 先輩はこんなに綺麗で、理知的なのに
 何かを苦しむことなんてあるのかな?

 同じ研究室に所属する憧れの先輩(念のために補足しておくと、彼女は同性だ)。
 彼女に突然誘われて、ふたりで入ったバーには、耳触りの良いJazzが流れていた。

「そう でしょうか。私はまだ未熟だから」
「ううん。きっとそうよ、でも」

 貴女にはそんな言葉を吐き出さなくちゃならない未来が来なければいい…と、思うわ。

 薄暗い空間に効果的に配置された白熱灯の光は、私たちの前に置かれたグラスに反射してきらきらと輝いている。

「先輩…」
「……なに?」

 脈絡のない言葉の意味を探ろうと、顔を覗きこむ。
 無意味な言動をなにより嫌う彼女の事だ、論理的で粘度の低い男性的な性格を尊敬もしていた。
 だからこそ今夜の彼女は不可解に思えて、薄く微笑みの浮かんだ姿を見つめる。

 美しいのに、痛々しいほどに細い身体。
 長い髪はきちんと手入れされ、夜になっても崩れないように丁寧に巻かれていた。
 初対面で彼女をドクター(医者ではなく、大学院の博士過程という意味だ)だと思う人は多くないだろう。
 すこしお行儀の悪い言い方をすれば、性と知性と美貌を武器に夜のお仕事をしている女性みたい。

「何かあったんですか?」
「いいえ、別に何も…。」

 答える彼女の表情には、色んな感情が綯交ぜになったような複雑な色が浮かんでいた。

「だったら良いんですけど」
「貴女が気にするような事は何もないわ。ただ……」

 琥珀色の液体を飲み下しながら、さらりと紡がれた彼女の言葉に、目の前が真っ暗になった。

 ――奈良君を一晩借りただけ…


 “一晩”。
 その言葉の意味を分からないほど、子供でもない。

 でも、“借りた…”って。
 別に彼は、私のものでも何でもない。


「彼の事、好きなんでしょう」
「……っ!!」

 決まりきった事実をただ述べているだけ…といった調子で淡々と紡がれる言葉に反論の余地はない。

 取り出した細い煙草にかちり、火を点けて、ゆっくりと吸い込んだ息を吐き出す所作は本当に優雅で
 腹を立てるとか、落ち込むとかいうのがきっと普通の感情なんだろうけど、そんな風には思えなかった。

 確かに私は、奈良君のことを好きなはずなのに。
 同じ位、同性として先輩の事も好きらしい。

 なにを喋れば良いのか分からずに、飛び出した台詞は、あまり意味のないもので。

「いつから…いつ、気付いたんですか?」

 べつに隠していた訳ではないのに、彼女に見抜かれていたことに羞恥に似た感情が湧き上がる。

「ふたりが一緒にいるのを最初に見た日からかな」
 だって、貴女分かり易いんだもん。

 わかりやすい?

「そう なんだ」
「うん、そう。そして…私は貴女のそんな所が、可愛くて大好きなのよ」

 混乱していた。

「私、どうすれば……」
「自分の思うように。それが一番よ、私の行為には意味なんてないし」

 頭の中がぐるぐると攪拌されるみたいな気分なのは、アルコールのせいだろうか?

「でも、すくなくとも一晩一緒に過ごしてもいいと思える程度には、奈良君に好意がある訳ですよね?」
「うーん…好意、という表現が適当かどうかは疑問ね」
「どういうこと、ですか?」
「奈良君自身の在り様に惹かれたというよりも、彼の完璧なバランスのビジュアルにくらっと来た…」

 それは、奈良君を好きだということと、どう違うのだろう?

 ぐらぐらと揺れる意識を持て余しつつ、目の前のアルコールを呷る。
 こんな飲み方をすれば、きっと酩酊するに違いないとどこかで思いながら、止められなかった。

「とにかく、他には何の意図もないし。執着する気も毛頭ないから」
「………」
「“好き”じゃないって事。もともと彼は、最初から貴女のものだったし、ね」

 訳が分からない。

 分かっているのは、彼女が奈良君と一晩を共に過ごしたということ。
 彼女にとってそれがレクリエーションに過ぎないというのは、本心だろうか?

 セックスには、2種類あるのかもしれない。
 すくなくとも、私にとってのそれは、先輩の認識とはズレている。

 こくり、最後の一口を嚥下しながら、胸に砂が詰まったように重たくなっていく。


「いい加減、貴女たちもお互い素直になりなさい?」
「え……?」

 ふふっ、と優しい笑いを漏らした先輩は、吸いかけの煙草をアッシュトレイに押し付けて

「もう一杯、彼女に同じものを」

 オーダーしながら、するりとスツールから立ち上がった。

「あの、先輩…?」
「お先に失礼するわ。貴女はもう少し飲みたい気分でしょ」
「いえ…一緒に、」
「ダメよ……バトンタッチ。介抱は彼に任せておくから」

 さらり、頬を撫でられて、初めて自分が泣いている事に気付いた。
 つめたく細い指が、そっと雫を辿る。

「言っておくけど、ただ一晩黙って隣に居て貰っただけだから。誤解しないで」






「今夜、奈良君の大事なあの子とふたりで飲みに行くの」
「珍しいっすね」
「……だから、21時にここに来なさい」

 ちいさなメモを押し付けると、白衣の裾を翻しながら去っていく先輩の姿に胸騒ぎがした。

 第一、大事なあの子ってなんだよ。
 なんで俺の気持ち、バレてんだ…ったく。

「命令っすか?おれ今日中に済ませたい実験があるんすけど」
「どう取るかは、君次第よ。でも、来た方がいいと思うけど?」

 肩越しに不敵な視線を流す彼女に、逆らう気にはなれなくて。
 ふっ…、なんとも言えない溜息を吐き出すと、顕微鏡をのぞき込んだ。





 カラン――
 先輩が店から出て行ったのを、ドアに付いたベルが知らせる。
 絶妙のタイミングですっと差し出されたグラスを受けとって、こくり。一口飲み下して、細く長い息を吐き出す。
 胸に溜まった、説明のつかない負の感情を外へと追い出すように。

 ぼやけた頭に入り込む、低いウッドベースの音が心地いい。
 両手で支えていたグラスをそっとテーブルに下ろすと、先輩が忘れて行った煙草を1本取り出して火を点けた。

 きっと…ワザと置いて行ってくれたんだよね。

 滅多に吸わない煙が肺の中に充満すると、急速に収縮を始めた血管のせいで眩暈がした。
 頭がぎゅーっと締め付けられるみたいに苦しくて、なのにそれが気持ちよくて。
 目の前のセピア色の世界が、ますます曖昧に霞んでいくのと同時に、泣きたくなる。

 右手の指の間から立ち上る煙は、微かに青味を帯びている。
 途切れることなく上へ向かっていく細い筋は、儚くて頼りなくて
 その流れを無心で追いかけていたら、ふわりと空気が揺らいだ。


「バーカ、何泣いてんだよ…」

 不意に耳元で囁かれた声で、肩が震える。
 その台詞を艶っぽいと感じてしまうのは、酔っているせいだろうか。

 ごく当たり前のことのように、頬の涙を掬う奈良君の指は、優しくて。
 さっき触れられたばかりの先輩の指と、明らかに違う感触に背筋がぞくぞくする。

「ん?」
「……っ」

 一時的に私から視線を離し、慣れた様子でお酒を注文すると、奈良君は無造作に隣へと腰をおろす。
 ふわりと大好きな香水の香りが漂った。


「泣いてた理由、言いたくねぇ?」

 何って、上手く説明する自信がない。言いたくない訳じゃなくて。
 悲しい、というのとも違う。嫉妬とも違う気がする。

 この気持ちはなんだろう――

 奈良君は私の手から煙草を奪い取り、一口だけ吸うと直ぐに揉み消して
 じっと眼鏡の奥から私の瞳を見据えた。


「先輩とどんな話したのか知らねぇけど、」

 頬を辿っていた掌がなめらかに移動して、ふわりと髪の毛を優しく乱される。
 そんな風に頭を撫でられたら、余計に泣けてくるじゃない。

「俺は、お前しか見てねぇから」

 テーブルの下で、そっと太腿に重ねられた掌が熱い。


「……多分ね、」
「ああ」

 私の顔を覗き込む表情は、愛おしいものを見るように緩んでいて
 今にも溢れ出てしまいそうな感情で胸が痛くなる。

 先輩が、奈良君の完璧なバランスのビジュアルにくらっと来ちゃうのも分かるな…


「奈良君の指が、余りにも優しいから」
「……」
「切なくて、眩暈がする」



「バーカ。それは俺も一緒だっつうの」


指先の温度差
(この1杯飲んだら、店出んぞ)
(え……)
(続きは、俺ん家で。な?)

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2008.09.20
見えない目印 へ続きます
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