風に靡く黒髪

「奈良君、奈良シカマル君…」

 私がその名前を発した瞬間、教室の中は奇妙に静まり返る。
 また、サボリ?

(あいつなら、今頃…多分屋上じゃねぇかな)

 独り言のように呟く犬塚君の声に、反応を返した方がいいのかどうか。
 戸惑いながら視線を合わせると、ふいっ と瞳を反らされた。

(あんま、シカマルの事には首突っ込まねぇ方がいいっすよ)

 それって…どういう意味?
 でも、たった一人の為に出欠確認を中断する訳にもいかないし、ね。


 月曜日の2時限目は空き時間だから、後で屋上へ――





 ――ギイッ

 屋上の重たい鉄扉を開けると、風に黒髪を靡かせながら寝転ぶ奈良君の姿。
 膝の上で組まれた長い脚、無造作に外された胸元のボタン。
 そこから覗いている鎖骨と胸筋のラインに、目を奪われる。

 ――相変わらず、綺麗な子…


「奈良君…」

 呼びかけると、ほんの少しだけ顔の向きを変えて片目を開けた奈良君が私を捉える。
 鋭い黒眼から、途端に色気が溢れだして、

 心臓が煩い。


「何すか」
「何って…授業、出ないの?」

 肉薄な唇が、ほんの少しだけ意地悪な形に歪む。
 それすらも美しく感じて、自分の中に在る感覚に恥ずかしくなる。

「………」

 黙り込む奈良君には、教師に注意されている生徒の風情なんて欠片もない。

 聞こえてないはず、ないのに。こんな態度をとられると、逆に私の方が後ろめたくなるよね。

 まるで足元がふわりと揺らぐような、不思議な沈黙が続く。
 此処に教師である自分がいることを、何の問題にもしていないような態度。

 相変わらず黒髪を風に靡かせる姿は、涼しげに澄んでいて
 何故か、その白い肌に触れてみたい、と 不意に思った。

 なにを馬鹿なこと考えてるんだろう。

 ふっ、と溜息を吐くと、再び片目をあけた奈良君と目が合う。


「先生…」
「ん?」

 眠たそうにゆるんだ奈良君の声は、いつもより少し掠れていて
 短い言葉から醸し出される響きが、肌を薄く泡立たせる。


「俺、眠ぃんで…夕方出直して貰えません?」
「は…奈良君、あなたねぇ」

 唇に立てた人差し指を当てて「しーっ」と囁く姿に、言葉を紡げなくなる。

 まったく、教師の威厳も何もあったもんじゃない。


「はぁー……」
「溜息なんて吐いてねぇで、先生も寝転んでみたら?」

 建前なんて捨ててしまえるのなら、そうしたかった。
 風に乗って、奈良君からは微かな香水の香りが漂う。


 その空気に包まれて、
 陽射しと奈良君の存在だけを感じていられたら、
 きっと幸せなんだろうな。

 でも

「私はね、奈良君と違ってやることが沢山あるのよ」
「……」

 私の言葉を聞いた途端、奈良君の眉間の皺が深くなったように見えて。
 気のせいかもしれないけど、胸の奥にちくりと痛みが走る。


「ま、いいわ。じゃあ夕方出直して来るから」
 ちゃんと此処に居てよね。

 そう言い残して踵を返すと、職員室へ向かった。




 テストの採点もまだだし、今後の授業のカリキュラムも立て直したいし。
 本当にやることがいっぱいで、忙しいのに。忙しい。なのに、何故か「奈良シカマル」という一生徒のことが気に懸ってならなかった。







「坂田先生、ちょっといいですか」
「んー?銀さんでイイって言ってるのに……」

 いや、先生は先生でしょう?
 そんな友達に呼びかけるような呼び方、出来るほど器用な人間じゃないし。
 無理――


「すみません、まだ慣れなくって」
「ま、いいや。許す、ゆるすー。先生可愛いし。……で“ちょっと”って何かなァ」
 面倒事は勘弁してほしいんだけどォー。

 眼鏡の奥で虚ろな瞳を晒している銀八は、一見だらしなくて。
 なのに、生徒たちのウケが密かにかなり良いという噂で。
 ヤル気のなさそうな風貌の裏には、不思議な魅力が潜んでいるらしい。

 普段は、糖分に執着の強いただの“超甘党男”にしか見えないんだけどね。

 でも、変な具合に筋の通った物言いに、実は教師としてある意味一目置いていた。
 あくまでも「ヘン」なんだけど、「ヘン」なりに彼の言葉には矛盾がなくて。
 ぼんやりしているのに、人間の本質を突くような所が垣間見える。


「いえ、ちょっと…うちのクラスの奈良の事で」
「ああ。あいつなァ、授業には出ねェけど成績はいいし」
 銀さんは、別に気にすることねェと思うよー。

 間延びした声に、こっちのヤル気まで吸い取られそうな気がする。

 うーん…
 この喋りを聞いてると、何処にそれほどの魅力が潜んでいるのか不思議になる。
 確かに低い声の音域は、なかなか好ましいけど。
 今も机の上で開いたジャンプに目を落としたままだし、ここ職員室だよ。非常識と言うか、何と言うか。

 なのに、それを許されてしまうような所が、確かに銀八にはあった。


「ま、先生の手には負えねェ男だろうなー…奈良は」
「どういう意味ですか?」

 手に負えないと言われれば、そうかもしれない。
 現に、さっきもあっさり屋上から追い返されちゃったし、ね。


「んー……あんまり深入りしない方がイイと思うよォ」
「いやいや。全然分からないんですけど」
 ちゃんと説明して下さい。

 犬塚君も坂田先生も、揃って“深入りするな”なんて…いったい何かな。
 奈良くんって、そんなに裏のある生徒な訳?

 理由も言わずに近付くなって言われたら、天邪鬼な私は踏み込みたくなるじゃない。


「だからー、銀さん面倒事はパスって最初から言ってるでしょー?」
 じゃあ、お疲れ〜。

「え?ちょ…坂田先生?!」

 後ろ手にジャンプをパタパタと振りながら去っていく銀八の背中には“声を掛けるな”と書かれているようで、それ以上喰い下がれなかった。

 って言うか
 結局何にも分かんないままじゃない――







 午後の授業終了のチャイムと同時に職員室を飛び出して、屋上へ向かう。

 オレンジ色に染まる眼前は、別世界へ来たような錯覚を引き起こす。
 淡色の空間に溶け込んで、午前中と全く同じ姿勢の奈良君が、そこに居た。


「奈良くん…もしかして、今日は1度も教室に行かなかったの?」
「だったら何すか」

 ひたすらダルそうに言葉を紡ぐ姿が、何故か銀八に重なる。

「それは、良くないよ。流石に担任としては見過ごせない」
「……」

 無言のままで手招きをしている奈良君の方へ、吸い寄せられるように近付く。
 私を見ながら身体を起こした奈良君が、自分のすぐ隣の地面を掌でぽんぽんと叩く。

 それって、ここに座れ…ってこと?
 と言うか、生徒の言いなりになってる私って、教師失格なんじゃないかな。

 でも、何故か言う事を聞いてしまう、心地よい無言の圧力を感じて。促されるままに、そっと奈良君の隣へ腰を下ろした。


「明日は、ちゃんと朝のHRから出てね」

 視線を隣へ向けると、私の目をじっと見つめている鋭い双眸にぶつかる。
 夕陽で浮かび上がる陰影が、奈良君をいつもより大人に見せる。

 もともと大人っぽい子なのに…


「聞こえなかった?」
「……んな風に先生面ばっかされんのって、嫌いなんすけど」

 そんな事言われても。
 私は奈良君の担任だし。仕方ないじゃない。

「…じゃあ、たまには生徒らしくして」
「くくっ…」

 何でそんな風に喉の奥で笑うの?


「先生の中で“生徒らしい”って何すか?」

 まるで悪戯が楽しくて仕方無い、ちいさな男の子みたいなのに
 歪んだ口の端から溢れだす空気は限りなく艶っぽくて。この子はなんなのだろう。


「生徒らしいってのは…真面目に教室に居て、授業に出て、」
「それから?」

 低く掠れた声音に、ドキドキする。
 教師だってことを忘れてしまいそうだ。

「ちゃんとテストでは結果を残して…えーっと」
「……」

 なんで私の方がこんなに焦ってるの?
 どうして、緊張する必要があるんだろ。

「それに、同世代の友人と健全な関係を築いて…」
「ふーん。それが先生の“生徒らしい”っつうやつの定義?」

 これは、奈良君お得意の策だと思う。

「えぇ」
「案外、薄っぺらいんすね」

 むっ……何、この状態。気がつけばすっかり言い負かされている。
 上げ足を取られて、いつの間にか奈良君の方が優位に立っている。気付いているのに、覆せないのは何故なんだろう。


「俺、授業には出てねぇけど…テストの成績は悪くねぇし。友達もいるし」
 それで勘弁してくれねぇっすか。

「でも、そういう訳にはいかないでしょう?」
「何で」

 食い下がる奈良君の語気は緩やかなのに、何故か圧倒された。
 大目に見たいのはヤマヤマだし、そうしても良いような気さえしてくる。

「か、仮にも私は、奈良くんの担任なんだし」
「担任だから、何?大目には見れねぇってこと?」
「…ほら、奈良君を特別扱いするのはさ、立場的に…」







「じゃあ、俺の彼女になって下さいよ」







 顔が熱いのは、
 今迄意識してなかった子が、そう言葉を放ったから、頬を染めてしまったのではなく、
 奈良君の意地悪な笑みに、つい見惚れてしまったから。


 息を飲むほど完璧なバランスを醸す笑みに、
 魅入られてしまったから――


風にく黒髪
(お前、顔赤ェ…)
(夕陽が眩しいだけ、)

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2008.09.10
銀八先生友情出演ありがとう
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テーマ「人外ファンタジー」
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