I could have cried.
「これ、頼むわ」
机越しに手渡される書類の束には、いつも通りの付箋が貼られていて。ちいさな紙片の中には奈良さんの綺麗な文字が並ぶ。
字のキレイな男の人ってそれだけで魅力的だ、と思う。
「今週中で、よろしく」
「了解しました」
ジャケットを脱いで、少しネクタイを緩めた奈良さんの首筋に、不謹慎だと思いつつ目が吸い寄せられる。
スーツをきっちり着こなしている姿も、こうして着崩した姿もどちらもさまになるのは、きっと彼が持っている元来の絶妙なバランスのせいに違いない。
いつみても溜息が出そう。
「それから、」
受け取って席へ戻りかけた私を引き留める低い声は、まるで内緒話をするようなトーンで
いつもの事ながら、鼓膜を緩やかに振動させるその波長で、胸までも震える気がした。
「ちょっと、ここ座れ」
奈良さんの隣に置かれた椅子へ、そっと腰を下ろす。何気なく近づけられた頭に、ドキドキする。
普段より少しだけ距離が近いせいか、奈良さんの身に着けた香水の香りが鼻腔の奥を快く刺激した。
いやいや、仕事の話だから。何、変な事考えてるんだろう、私。
「日曜の午後、空いてる?」
「……ええ。今のところは」
「じゃ、わりぃけど付き合って」
これってデートのお誘いだろうか?
首を傾げた私に向かって、くくっと漏らされる笑みは艶っぽくて。ココが職場だという事を忘れてしまいそうになる。
「一応、仕事…な」
「分かりました」
私の表情に落胆を読み取ったらしい奈良さんは、ごく当たり前の調子で言葉を続けた。
「終わったら、晩飯くらい奢るから」
日曜日、待ち合わせ場所に奈良さんが現れた瞬間、視線が釘付けになる。
勿論、今日の商談相手の前情報(外資系企業の役員で、日本文化に傾倒した白人らしい)は入れられていたし、奈良さんがこの格好で来る事も知っていたのに。
想像以上だ…
「じゃ、行くか」
第一の目的地(私の着物をレンタルするためのショップ)に向かいながら、高鳴る鼓動を抑えられなかった。
「あんま、緊張すんなよ?」
今こんなに苦しいのは、きっと着慣れない帯で胸を締め付けられている所為だけではない。
奈良さんの姿が、ぞくぞくするほどに美しいから。
「お前、そういう恰好も似合うのな」
「そう ですか?」
それよりも、奈良さんの方がずっと。
男の人の和服姿って、なんでこんなに悩ましいんだろう。
いや、男の人だからじゃなくて、これは奈良さんだからだ。きっと。
開いた胸元からちらりと覗く鎖骨のラインも、襟足にかかるおくれ毛すらも色っぽい。
「奈良さんも、すごくお似合いです」
「さんきゅ」
いつものスーツも捨て難いけど、和装も本当に似合っていて。木漏れ日の降り注ぐ歩道を並んで歩いていると、自分が何の為にこんな恰好をしているのか忘れそうになる。
すくなくとも傍目に見れば、上司と仕事中という光景には見えないよね?
「ほら、こっち歩けよ」
当然のように車道側に立つ奈良さんは、歩幅を気にしながら歩いてくれているらしい。
慣れない鼻緒で痛む足を気遣って、さり気なく差し伸べられる手がくすぐったい。
このままでは、目的地に着く前に、
仕事モードを逸脱しそう――
隣で流暢な英語を喋る奈良さんの腕に手を掛け、ただ微笑みを作る。
会話の意味は分かっても言葉なんて出て来なくて。
これで、果たして自分が此処に居る意味があるんだろうか?奈良さんは、何故同行相手に私を選んだんだろう。
疑問を抱えたままただ時間だけが過ぎる。
にこやかな顔で握手を求める商談相手から解放されたのは、外が暗くなった頃だった。
それにしても奈良さん、英語の発音もすごくキレイだった。
益々、心が囚われてしまいそうになるのは、日常とは異なる空気のせいだろうか?
「お疲れさん」
「…私は、なにも。全て奈良さんのお力です」
「いや、充分助かったぜ?」
このまま飯、行くか。と腕を取られ、ホッと気が抜けた。
「ご馳走様でした」
連れて行かれた料亭のお料理は本当に美味しくて、ついお酒がすすんだ。
目の前の奈良さんの姿が、ゆらゆらと揺れて見える。
「奈良さんって、ホントに…」
「ん?」
綺麗、と言おうとしたのか。
それとも全然別の言葉なのか。
酔いで霞んだ頭では、自分の言動の理由すら見付けられなかった。
「んだよ、黙りこんで…」
「いえ、別に」
口の端を歪めて笑う姿も、いつもと違う髪型も、恰好も、ただ眩しくて。
愛おしくて仕方無い、とただその意識だけがぐるぐると頭の中を回る。
「酔っちまった?」
「…少し」
「帯、苦しいとか?いっそ、取っちまうか」
「え…?」
酩酊した聴覚が、聞き間違えたんだろうか。奈良さんらしくない台詞。
明らかにセクハラ発言なのに、嫌な感じはしなくて。むしろ、ドキドキする。
「あれ…もっと反応しねぇの?今の、結構本気だったんだけど」
「……っ!!」
どういうことだろう、本気って。
目の前の奈良さんからは、俄かに妖しい空気が漂い始めていて、ますます酔いが回る気がする。
「そろそろさ、奈良さんって呼ぶの止めにしねェ…?」
「あの……」
いつの間にか隣へ移動した奈良さんに、肩を抱かれていて。
「お前もバカじゃねぇんだし…意味、分かんだろ?」
「は…い」
すこしはだけた胸元から立ち上る、噎せるような色っぽい風情に、眩暈がした。
「今夜は、日ぃ変わるまで一緒に居てもらうつもりだから」
「……明日は」
「ん?」
「お誕生日、ですよね」
顎に掛けられたもう一方の手で、視線を固定される。
すでに見惚れていたのに、魅入られたように少しも動けなくなって。酔いの所為なのか、ガードが緩んでいく。
「知ってたのか…」
「好きな人の生まれた日、ですから」
じゃあ、話は早ェな。と言いながら唇を塞がれて、身体からは力が抜けた。
「今日は休日出勤つうことで、」
しゅるり、器用に帯締めを外す指がやけに艶めかしく見える。
慣れた手付きで剥がされていく布たちが、ぱさりと音を立てて畳へ広がり
私と言えばただその行為を見つめるしか出来なくて。
「明日お前の有給申請してあるから」
「……あ、の」
ひとつ、ふたつ。
身に付けていたものを少しずつ取り去られるごとに
上司と部下だからと無意識に抑えつけていた、見えない鎖が解けていく。
「今夜は、たっぷり付き合えよ?」
濃密で、甘ったるい空気。
自然に唇に浮かぶ笑みを止められずに、浮き出た鎖骨に軽く吸い付くと
そっと目の前の男に身を委ねた。
I could have cried.(泣きたい位だった)