曖昧な私たち
放課後の理科室は、不思議な空気に満ちている。
陽が翳るほどに、室内の無機質な備品が妖しい色を醸して、見慣れている筈の俺まで変な気分になる。
一人の女生徒と黙って向き合ったまま、緊迫した時を過ごして数十分。
息苦しさに耐えかねたらしい彼女は、ちいさな呟きを漏らした。
「奈良先生、ずるい」
ぽつり、と紡がれた短い言葉は、思いの外俺の中に強い化学反応を引き起こして、息が上がる。
そう、かもな。
お前の気持ちも、質問の裏にある意図も、分かっててはぐらかしてるんだから。
「何がだよ」
「黙ってれば、私が諦めると思ってるんでしょ」
お前って結構賢い生徒だと思ってたんだけど。俺の見込み違い、だったか。
俺たちの関係、分かってるよな。
俺が教師で、お前は生徒。
禁忌を侵すなんてつもりは毛頭ないし、面倒なのは勘弁。なにより、この微妙な距離感も心地いい。
「んな事ねぇって」
「じゃ、どうして…」
互いが互いの想いに気付いていて、それでも言葉にしない空気が、その緊張感がイイんだって。
そう言い聞かせて我慢してる俺の気持ち、すこしぐらい汲んでくんねぇかな。
ふたりの間での暗黙の了解、言外の共通認識。
今までもそうだったし、お前だってそれを承知の上で俺の傍に居るのだと思っていた。
そのバランスを、なんで今になってわざわざ壊そうとするのかが分からなくて。
抱えきれないくらいに感情が昂ってるんだとしたら、それは俺も同じ(大人だから見せないだけだ)。
でも、簡単にどうにかできるような問題じゃないだろ。
そのもどかしさすら、互いに楽しめるくらいには大人だ、と。そう思っていたのは俺の買い被りすぎだったのか?
「今日はもう遅いし、帰れ」
「イヤ!!質問に答えてくれるまで帰らない!!」
さっきから何度も繰り返した押し問答を、また最初からやり直すつもりかよ?
だから、俺は何もいらねぇって言ってんだろうが。
「じゃ、考えとくから。とにかく今日は帰れっての」
「……」
机の上に置かれていたやけに重たい鞄を持って隣に並ぶと、細い肩がぴくりと揺れる。
いつもはこれでもかって位に押しが強いくせに、何でそんな反応すんだ?
そういう所はまだ可愛い女子高生ってわけか。
それとも、無垢な子供を気取ってるつもりなのか(…今更遅ェって)。
別に、取って喰いやしねぇから。
つうか、怯えるようなその所作に、逆にそそられてたりして。
――天邪鬼な性格してるよな、俺って。
「校門まで送ってってやるから、な?」
「鞄返してっ!!1人で帰れます」
俺の手から強引に鞄を奪う際、軽く触れた指先に、柄にもなく心臓が反応を示すから。つい、苦笑が漏れた。
「んな、意地張んなっつうの。一体何が入ってんだよ」
「先生には関係ないでしょ?」
意地悪な人には、教えるつもりありませんから。
ったく、その生意気な口。
塞ぎたくなんだろうが…――
白衣の裾を翻し、足早に立ち去る背中を追いかけると、腕を掴んで引き留める。
怒りを込めて見上げられるその視線が、堪らない。
強気な女の子は、結構好きだぜ。この曖昧で生温い関係を、崩しちまってもいいと思える程度には、な。
「先生、放して…」
抵抗されると、ますます煽られる。そんな単純な理論もわからないほどお前が子供じゃないのも知ってる。
掴んだままの細い腕を引き寄せて、後ろからそっと抱き締めると、肩に顎を乗せた。
「嫌だ、って言ったら?」
「やっぱり、奈良先生はずるい」
ああ。お前の為なら、幾らでもずるい大人になってやるよ。
「でも お前も、な」
睨み上げるような大きな瞳に、吸い込まれてしまいたいと
本気で、そう思った。
曖昧な私たち(誕生日に欲しいもの、教えてくれますか?)
(じゃ、先生って呼ぶの止めろ。俺の名前、知ってんだろ?) -----------------
2008.09.18
クールの崩壊 へ続きます