遠くの光にふれるまで

 肩を押す腕に、意志がこもらないように、出来るだけさり気なく触れた(でも、心の中では抑えきれない衝動が渦巻いていた)。
 とん、身体の前面から背中に向けてベクトルが作用するように、軽く力を加える。
 華奢な身体はあっけなく地面に横たわり、お前は驚いた顔で俺を見上げる。

 そりゃ、驚くよな?
 何の前触れもなく、上司に押し倒されてんだから(しかも、ここは屋外だ)。

 おいおい、俺も何やってんだ…――

 別に、嫌がる相手を無理に組み伏せて興奮するなんて趣味はない。
 有難いことに、こんな髭面でも身体を重ねる相手に困ったことはなくて、餓えている訳でもない。
 脳の出す指令が思考のフィルターをすっ飛ばして、身体に伝わっちまっただけだ(いや"だけ"とか言っててイイ問題でもねぇけど)。

 お前は声を上げなかった。
 いっそ怯えてくれたら、必死で抵抗してくれたら、俺は無理やりにでも襲えたのに。



「明日もいい天気になりそうですね」

 今のふたりの体勢には何の意味もないかのように、空を見上げる横顔は余りにもやわらかく緩んでいる。
 細めた眼には、遠くの太陽と綺麗な秋晴れの空が映り、適温の風がさらさらの髪を撫でながら通り過ぎる。


「気持ちいい…風も陽差しも、この季節のが一番好き」

 独り言めいて紡がれる台詞の中に、俺の存在を示す要素は何もない。
 苦しい。
 鈍感なのか、それとも俺の意図を見抜いての言動か(…でも、お前はそんなに計算高いオンナじゃねぇよな)。


「アスマさんも、寝転んだら?」

 膝をついた姿勢で固まっていた俺の手を、お前が軽く引く。
 引力に逆らわず隣に倒れ込んだら、爽やかな草の匂いに混じって、なんとも言えない甘い香りが鼻の奥に忍び込んだ。

 いつから、こんな香りを漂わせるようになった?

 鼻孔から入り込んだ僅かな成分が、粘膜を通過して後頭部にずんと重い刺激を送る。
 嗅覚が欲情とダイレクトに結びついている事を、改めて意識する。

 薄れかけた衝動が、再燃し始める。

 このまま想いをぶつけたら、こいつはどうなる?
 壊れちまいそうに細くて儚くて。だから尚更抱き締めて、壊してしまいたくなる(愛情の果ての破壊衝動ってヤツなのか、これが)。
 抱き締めるだけで止まるわけがない。きっと一度始めてしまったら、最後まで止まれないのだ。それ位、お前は俺の中で大きな存在で。
 朝から晩まで、俺の頭の中はお前のことでいっぱいだよ。そう、叫べたらラクになれるんだろうか。



「何、黙ってるんですか?」
「あ…ああ、別に」
「変なの」

 なんの疑いも持たずに俺を見上げる瞳は、なめらかに澄んでいて。
 ふたりの距離感を、少しも侵せない観念に捉われる。

 ごろり、隣に横たわって、片肘を突く。


「せっかくの空なのに、堪能しないんですか?」
「お前が眩しそうだから、影作ってやってんだろうが」

 俺の堪能したいものは、別にある。

「灰、落ちそう」

 銜えていた煙草を揉み消すと、風で額にかかったさらさらの前髪をそっと掻き分ける。
 指先の神経から伝わる柔肌の感触が、身体全体に鈍い(でもその存在感だけはやけに明瞭な)刺激を伝える。

 このまま――

 額から頬に掌を滑らせて、そっと小さな顔を包み込む。
 自分よりすこし低い体温も、溶けてしまいそうにやわらかい肌も、全身に伝わる刺激量を増幅する働きしかしない。
 頬から唇へ、指先を移動しようと思ったとたんに、静かな声が響いた(また、独り言みたいな声だった)。


「アスマさんの掌も、気持ちいい……」

 心から幸せそうに微笑まれると、自分の中の欲望が急に愚かなものに見えてくる。
 でも、確かにオレのなかにそれは存在して。
 煙草の匂いがする。という、当然の台詞(だって、ついさっきまでこの指で挟んでたんだから)が、じわりと身体の芯を溶かしていく。

 オトコに向かって、そんな無防備な台詞は禁句だろうが。
 でも、信頼を露わにされると抑止力を発揮せざるを得ない(俺は大人のオトコだからな)。

 ったく…こいつには、頭上がらねぇ。

 頭ふたつほど下の顔を見下ろしながら、考えるのは皮肉なセリフ。

 広げた掌で髪をくしゃりと撫でると、気持ち良さそうに目を閉じる(まるでどこぞの猫みたいだ)。
 ふっ……溜息が洩れる。

 こいつはまだ、俺をオトコだと意識もしてないらしい。
 時期尚早ってことか――


くのにふれまで
きしめようと持ち上げた腕を、そっと身体の脇に垂らした)
(ほんとうはきしめてほしかった)
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