インスタントラブに乾杯
軽々しい物言いが決してそのまま彼の性質をあらわしている訳じゃないと、頭では分かっていたのに、どうしても受け入れられなかった。
明るくて、軽くて、誰にでも優しくて。別に、私じゃなくても君に似合う人はいっぱいいるでしょう?
だから、あんな賭けに負けるなんて、全く思わなかった。
「なあ」
犬塚君のハスキーな声が私を呼び止める。
「お前さー…いい加減俺のこと受け入れろよ」
「イヤだよ。なんで私が」
犬塚君こそいい加減に諦めたら?と続けたらほんの少しだけ彼の顔が歪んだ。
冗談と本気の境界線を浮遊するような、ふたりの間では定番の会話。
そのやり取りを楽しんでいられたのは、互いの感情がカテゴライズ出来ないくらい曖昧なものだと思い込んでいたから。
目の前におかれた琥珀の液体には、薄暗い店内の照明が月のように浮かんで、ゆらゆらと揺れている。
ふっ……、彼の口から漏れたのは、まるで溜息のような呼吸。
凪いだ空気にのって、微かに酒気を帯びた呼気が甘く香る。
「いつまで拒否すんだ?」
「え……」
いつもより幾分低い声音に、手元のグラスから顔を上げた。
ガハハと笑って、お前も意地っ張りはんぱねえよな的な会話が続くんだと思っていたのに、意外だ。
「そうやってどっち付かずのまま、いつまで拒否すんだっつの」
「……」
「なあ、俺 いつまで待てばいい?」
「あの、」
何も言えない。犬塚君の切羽詰まった声に、言葉を失った。
見上げた瞳は、思いがけず真っ直ぐに私を見つめていて、頭の芯がじん、と痺れる。
「聞こえてねぇの?」
「……」
「いつまで待てば良いデスカ」
「なんで、片言?」
「んなの、今は問題じゃねぇだろ?」
がしり、机の上で両手を取られて、吐息が漏れる。
なんなの、今日の犬塚君 強引だ。いや、強引なのはいつもの事だけど、どうしてこんなに真っ直ぐ私を見つめるんだろう。でも、それは今に始まった事じゃなくて、彼は確かにいつも私のことを真っ直ぐに見ていた。そうだ、それから目を反らしてきたのは私。
「なあ」
返事をかえせず、そっと目を反らす。
「目ぇ反らすなって」
「犬塚君、コワい…」
「何が?」
「全部」
怖い訳じゃない。本当は、どうすれば良いのか分からなかっただけ。
余りに真剣な表情に戸惑っていた。
「分かった。じゃあさ…最後に一個だけ賭けに付き合えよ」
「賭け?」
「おう。もしお前が勝てば、諦める」
「……」
諦める?あんなにしつこく付きまとっていたのに、本当に諦められるの?
それはそれで寂しいだなんて、自分勝手な思いが脳内を満たす。ワタシってなんて現金なんだろう。
「お前が負けたら、諦めて俺を受け入れろ」
「なにを、するの」
「睨めっこ」
「へ…?」
低い声で言葉を続ける彼には、いつもの笑顔はない。って事は本気でそんな馬鹿げた方法に未来を委ねようとしてるんだね。
「このままお互いの目ぇ見つめて、先に反らした方が負け…ってヤツ。どう?」
「わかった」
簡単だと思った。惚れてる訳でもない彼に視線を合わせておくなんて造作もないことだ、と。
「じゃ、行くぜ?」
「うん」
「3、2、1、スタート!!」
犬塚君の鋭い瞳を見つめる。やっぱり全然平気だ。
この勝負、きっと私の勝ち。
きゅっとつり上がった瞳の中で、ちいさな黒眼からこぼれる視線がじっと私の方へ注がれる。
へえ、犬塚君の目ってじっと見たらこんな形してるんだ?
あんなに近くに居たのに、こうして見つめるのは初めてで、緩やかに孤を描く綺麗な双眸のラインに目を奪われる。
胸の奥の方がざわり、さわぎはじめる。
引き結ばれた唇からちらりとはみ出している八重歯は、鋭い瞳と絶妙のバランスを醸している。
ぎゅっ、繋がれた掌に力を込められて、思わず眉を顰める。でも、視線は外さない。
"言葉を発してはいけない"なんて、ルールは交わさなかったけれど、何となく口を開いたら負けのような気がして唇を引き締めた。
犬塚君の熱が指先から伝わる。強く握りしめられたせいで、痛い。胸の奥のざわめきがますます激しくなる。
胸に溜まった熱い空気を吐き出すように、細い息を漏らす。
それに気が付いたのか、犬塚君がふっ、と笑った。
なんでそんな顔するの?
愛おしくて堪らないと滲み出るような視線に、心を溶かされる。
見開いた瞳が少しずつ渇いて、瞬きを繰り返す。これは、目を反らしている訳ではないと、心の中でちいさな言い訳を続けて。
いま、どれくらい経った?
視線を一点に固定している所為で、眉間の奥に鈍い痛みを感じる。
時計を見るために、繋がれたままの掌を持ち上げる。
まだ、たった一分…
呆れるほどに秒針の進みは遅い。
視界の端で捉えたグラスには、何時間も放置されたみたいにびっしりと水滴が付着していた。
犬塚君から目を反らさぬままもう一度時間を確認して、そっと腕をおろす。
その瞬間に強く手を引かれて、腰が浮いた。
額は今にも触れそうに近い。
犬塚君、何がしたいの?
ぱちり、犬塚君の瞬きがスローモーションのように視細胞を通過していく。
至近距離の細い黒目に私がいる。意外に長い睫毛が、震えている。
相変わらず彼は、すこしも視線をずらさない。私を見ているのか、そのずっと向こうを見ているのか分からないような目が心に真っ直ぐ刺さる。
怖い。怖かった、こんなふうに何もかも見透かすように私を見つめて、そんな彼にこれ以上近付くと、自分の底の浅さまで見抜かれてしまうようで コワかった。
それって、嫌われたくないからじゃないの?頭の奥で、響く声からも彼からも、何もかも目を背けたくて。
でも、これは勝負だ。負ける訳には行かない。
ほんのちょっとだけ目を細めると、気合いを入れ直すように眉間に力を入れた。
私を見つめる彼の目がやわらかく緩む。なにもかも包み込んでしまいそうに。
ちいさく漏れた彼の息が、唇にかかる。仄かな煙草の匂いにくらくらする。
まだ目を反らさないの?
見開き過ぎた瞳では水分量の不足を補おうと、涙腺が活動を始めたらしい。鼻の奥が痛い。
ふわり、掌の拘束が解かれたことを少しだけ残念に思っていたら、浮遊した両手に頬を包まれた。
びくっと身体が揺れて、その拍子に少し力が抜ける。
犬塚君はまだ、目を反らさない。硬い指先がゆっくりと肌の表面を撫でていく。ずるい、そんな事をされるとつい目を閉じそうになる。
お返しに私もそっと彼の頬に触れる。皮膚に透けて浮き出した骨のラインを辿る。犬塚君の瞳がますますやわらかく孤を描く。
ドキドキする。
彼は今、何を考えてるんだろう。
私の方はと言えば、犬塚君の視線にひそかに翻弄され続けて。もう、勝負の事なんて忘れそう。
というか、そもそもなんのための勝負だった?何故こんなことをしてるんだった?
そんなことすら分からないくらい、頭がぼんやりとかすんでいる。
彼の指先は唇を辿る。思わず吐息が漏れそうになる。
人差し指で彼の薄い唇に触れると、犬塚君はゆるく眉を顰めた。
その表情に、心臓が跳ねる。
触れた人差し指が彼の唇にゆっくりと食まれて、すぐに離される。濡れた皮膚にかかる息が、頭の芯を痺れさせる。
溶けた理性は冷静な判断力を失って、犬塚君の瞳に吸い込まれそう。
だめだ、もう見ていられない。
今、何分経った?
こつん、ぶつかった額から犬塚君の熱が伝わって、息が止まる程に苦しくて。
私、彼の事が好きなのかも。
たった数分がこんな風に作用するなんて、思っても見なかった。
ぎゅっと目を瞑ったら
唇にやわらかいものが触れた――
インスタントラブに乾杯(俺の勝ち、な…)