魚になって恋をしよう
流されるように始まったふたりだったけれど、踏み込んでしまった以上、多少の汚い部分は見せられても受け入れる自信はあった。
俺ではなく親父を愛している事も、肌を重ねながら見ているのが自分以外の存在だという事も含めて、彼女のすべてを受け止めたかった。
それがつまり"惚れている"という状態なのかもしれないと思い始めたのは随分前のこと。
――どっちの子供だか分からない…
そう聞かされて最初に感じた苛立ちは、すぐに消えた。
続く感情は、名前の付けられない曖昧なもので。偽善でも演技でも何でもなく、黙って寄り添いたいと思った。
父親になる覚悟云々が頭を過ぎった時点で、俺には彼女のすべてを受け入れる意志があったのだと思う。
へらり。はにかむように表情を崩したお前は、本当の意味では決して笑ってはいなくて。
自分が、それと気付けるくらいには冷静さを取り戻せている事実に、ホッとしていた――
◆
「ったく…バカなやつ」
そう言ったシカマルの声は、あまりにもいたわりに満ちていて、どうしたら良いのか分からなくなった。
「俺にどうして欲しい?」
頭をそっと包み込んだまま、耳朶に触れる吐息。鼓膜に直接注がれる響きは、優しいを遥かに通り越した哀しいもので。
脊髄を通り抜けた波長は、身体全体をじわりと潤ませる。
触れ合った肌から染み入る体温にもしも名前を付けるとしたら、それは"愛情"以外のなにものでもなかった。
背中に回した細い腕がみしみしと軋むほど力を込める。顔を埋めた首筋からは、汗と体液の混じったシカマルの匂いがした。
鼻先を擦り付けるといっぱいに匂いを嗅ぐ。
「どうしてほしいなんて…」
何も言えない。鼻腔の奥で知覚したのは、私をやすらげる成分で。
こうして傍にいる現実だけで、充分だった(それが、この先消えてしまうものだとしても、いまはそれだけで)。
「俺も、」
「ん?」
同じように抱き締める腕に力を込めながら、シカマルはゆっくりと口を開く。
「自分がどうしてぇのかなんて」
上手く言えねぇけどな。と、続けながら唇が優しく耳朶を食む。
「ん……」
ぴったりと、肌が吸い付く。薄い二枚の膜越しに、シカマルの存在を感じる。互いの心拍が、伝わる。
言葉にならない曖昧な想いが、重なる熱で伝わる気がした。立ち込める微かなくぐもりで伝わる気がした。
言語よりもずっと有効に、ずっと正確に。
触れた唇で筋の浮き出た皮膚にきつく吸い付く。口の中が痛くなるまで思い切り吸い込むと、そこから何かが私の中へ流れ入る。
残る鮮やかな痕にキスをして、シカマルを見上げる。
「んだよ」
「……何も」
痛みに顰められた表情の余りの艶っぽさに、溜息が漏れる。
やっぱり
私が愛してるのは――
「くくっ…」
額を撫でた指先がするすると髪の隙間に滑り込む。触れられた部分から溶けていく。
鋭い瞳を綺麗な弓型に緩ませて、シカマルが私を捉える。
咽喉の奥から漏れた意地悪な笑いとは、あまりに対照的なやわらかい笑顔。
「何で、笑うの?」
皮膚を這う掌が擽ったくて、軽く肩を竦める。
「言葉にならねぇから」
「何が?」
答えなんて、聞かなくてももう伝わっていた。
それでも聞き返してしまったのは、彼の唇を伝って響くその言葉を、どうしようもなく聞きたいと思ったから。
触覚や嗅覚や視覚で既に認識している感情を、聴覚にも刻んで欲しいと思ったから。五感のすべてで彼を感じたかった。
「お前への気持ち」
「気持ち……」
「ああ」
小さく吐き出されたその相槌だけで、心も身体も蕩けてしまいそうに思えるのは、私たちが互いに求めあっているからで。
吐息を吐き出すような短い響きは、限りなく甘い。
「どうしようもねぇ位、愛してるっつうこと」
きっともう、
恋は始まっていた――
◆
「どっちの子供だか分からない…」
そう言った時、たしかに彼女の視線は泳いでいた。どうして、そんな事を口にしたのか、といえば、俺の拒絶を恐れていたからなのだろう。
子供の父親を曖昧にぼかす事で、自分自身の罪を見え懸り上は重くして、俺から受ける傷に対してバリアを張った。
その方が楽だと思ってしまう彼女の弱さを、愛おしく思う。そうさせてしまった自分を、情けなく思う。
なのに、尚も彼女を試すようなことを口走る俺は、きっとまだまだガキだ。
「親父にはもう伝えてんのか?」
「……」
無言で首を左右に振る姿に、溜息が漏れる。安堵に似た感情が俺を支配している。
最初に話してくれたのが親父ではなく俺だっつうことだけで、こんなに嬉しいなんて…焼きが回ったか(俺より先に親父が見抜いてた事なんて、頭から飛んでいた)。
自分の安堵の為だけに彼女を試すなんて、やっぱり俺はガキで。
「言わないつもり」
「ま、お前が言わなくても…」
伏せられた瞳を、長い睫毛が彩るさまに見惚れる。
「親父はもう気付いてるけどな」
「そう…だったね」
親父に比べたら未熟だという事は分かっている。
でも、お前のガキを背負う覚悟は――
やわらかい腹に耳を当てる。
微かな心音が聞こえた気がした。
それは、気のせいなのかもしれないけれど(時期的に見て、そんなことがあり得ないにしても、その時の俺には届いた)。
細胞が分裂し増加し、いつしか生命が意志を持つのだとしたら、そのとき俺の感じた感覚はきっと、命の意志だったに違いない。
この子がどちらの子供でも、誰の子供でも構わない。なだらかな曲線を描く彼女の身体の中には、たしかに生命が存在していて。ただ、それを傍で見ていたいと想った。
親父には見えていて、俺には気付けなかった理由。それは、冷静さを失っていたから。それほどまでに彼女に捉われていたから。求めるあまり、卑屈になっていたから。
その事が、何故か嬉しかった。
まだ平らに近い腹に、掌をそっと這わせる。くすぐったそうに捩られる身体を、やわらかく押さえ付けて、唇を押し当てる。
盗み見たお前の、薄く開いた唇に、再び欲情を煽られる。
「シカマル……私も、」
「ん?」
少しずつ唇を上へ上へと移動すると、それに併せてお前は眉を顰める。
躊躇いがちに開かれる口は、言葉と溜息を混ぜたような、柔らかい響きを醸す。
「私も、」
「ああ」
肩甲骨に沿って背中を滑り降りる僅かな外圧が、ぬるい快楽とともに腹の底を焦がすような愛おしさを引き出して。
「愛し…て、る」
甘い吐息が漏れて、頭の芯を少しずつ麻痺させる。
鎖骨に吸い付いた唇を、そっと離して、微かに潤んだ瞳を見据える。
「シカ…を」
紡ぐ途中の台詞を塞ぐように、キスをする。
絡まる舌から、熱が伝わる。互いの唾液が混ざりあい、なんとも言えない充足感が体中を満たしていく。
「分かってるっつうの」
背中に立てられた爪が、鈍い快感を呼び起こす。室内は湿った音に包まれて、細い身体に俺のすべてが侵食される。
言葉を紡ぐために逃げようとする彼女の唇を追って、吐息が漏れる。
誰よりも彼女に溺れる。
身体中から掻き集められた熱は、一点に集中して、薄い粘膜を焼くようにあつい。
ざわざわと、皮膚の下で血が騒ぐ。
「シカ…」
とろりと潤んだ瞳には、俺が映っている。俺だけが。
想いの重なることが、こんなふうに作用するなんて知らなかった。
目の眩みそうな愛しさに、脳内が真っ白になる。
意識が霞む前に、言っておくべき言葉。
一生、お前らの傍に――
◆
縁側には、涼しいとは言い難い風が吹き抜けていた。
水面に映る月は、頼りなくゆらゆらと揺らいで、その存在を視覚に訴えている。
薄墨を広げたような淡い闇の中、ぼんやりと思考を巡らしていると、不意に人の気配を感じた。
「シカマル。一杯付き合え」
「……ああ」
近寄って来た親父は、ふたりの間にことり、お銚子を置くと無言で盃を差し出す。
互いに酒を注ぐと、何を話すでもなく、並んで闇を見つめている。
喉を滑り落ちる熱い液体に、しんと冷え切った夜の空気は、快かった。
「聞いた、か?」
やっぱり。どうせ、それが聞きたかったんだろ?
親父だって、自分に関わるかもしれねぇ事だし。気になって当然だ。
「……ああ」
で?どうするつもりだ、とか説教臭ぇことでも言いだす気か。
深閑とした夜の中、沈黙だけが続く。
それっきり親父の言葉はなかった。
無言のまま杯を交わし、酒が空になるのはあっという間だったのに、その時間をやけに長く感じる。
「じゃ、俺…寝るわ」
ぱしん。ワザと音を立てて両膝に掌を打ち付けると、親父の方をまともに見ず、立ち上がる。
相変わらず外に目を向けたままの親父を一瞥して、立ち去ろうと背を向けた瞬間、低い声が響いた。
「バカ息子にひとつだけ言っときてぇ事がある…」
「は?」
「ま、座れ」
その言葉につられるように、振り返ると再び腰を下ろす。
ニヤリ、表情を崩した親父に、痛い程肩を叩かれて、思わず眉間に皺を寄せた。
「聞きてぇか?」
「んだよ、勿体ぶりやがって」
喉の奥で笑うそのやり方は、俺のそれにそっくりだ(正確には、俺が親父にそっくりなんだけど)。
いつかの秋、窓から身を乗り出した彼女が、ふわりと呟いた言葉が頭を過ぎった。
「最初はね、なんてそっくりな親子なんだろうって思ったの」
空気にそのまま透けてしまいそうな彼女を見て、謂われのない焦燥感にかられたあの日。
きっと
俺は既に
あいつに囚われていた――
魚になって恋をしよう(テメェのガキくれぇ、テメェできっちり面倒みやがれ)
俺はオメェと違ってそんな不始末しねぇんだよ。バカ息子。
あいつとはとっくに終わってる――