魚になって恋をしよう
――どっちの子供だか分からない…
何故そんなことを口走ってしまったのか、我ながら首を傾げた(事実でも何でもないことだったから)。
子供が出来た。と、呟きを洩らした私を静かに見下ろすシカマルの瞳は、怯えるように微かに揺れていて、それが怖かったのかもしれない。
すべてを黙って受け入れてくれた彼の、初めての拒絶に思えて。
衝動的に口をついて出た言葉は、本来ならばとてもデリケートに口にされるべき類のものなのに、それが真実かどうかなんて、私の中では問題ですらなくて。というよりも、考える余裕がなかった。
この曖昧な関係を終わらせてしまいたい気持ちが、心中に燻っていたのは確かだ(望んだのはそういう方向ではなかったけれど)。
その方法がわからなくて、短絡的な私はシカマルにもっと嫌われたら良いと思った。バカな女だと見捨てられ、蔑まれた方がラクだと思った。
なんて歪んだ感情だろう、自分でも呆れる。
投げやりにへらりと笑いながら、本当は目の前の男への愛しさに泣きそうだった。
「望まれねぇ子、か…」
吐き出された言葉の持つつめたい重たさは静かに空気を切り裂いて、心にずぶり、刺さる。
"望んだ"と言えば、確かに嘘になる。でも、"全く望んでいなかった"と言うのとも違う。
心の奥底に沈む本音は、言葉で表すには微妙過ぎる感情。
その上、事実として突き付けられた命の存在が、着実に私の中の何かを変質させつつあった(ふたりの間に一石を投じる要素になりはしないかと、淡い期待を持つなど、愚かだろうか)。
ふっ……、何気なく吐き出されたシカマルの溜息に、鳥肌が浮く。
何からどう話せば良いだろう。
――初めは代わりだったのに、いつの間にかそうではなくなった――
決して複雑ではない心の内は、さらけ出すと陳腐に思えて、上手く言葉に出来ない。
身体の変化をずっと隠しておこうと思うこと自体が馬鹿げている(いつかはバレるのだ)のに、隠すことしか思いつかなくて。
それが私なりの想像力の導いた結果だとするならば、私はなんて身勝手な女だろう。
本当は上手く表現する必要はなかった。世の中は案外単純にできていて、目の前のことに素直に反応すれば良いだけだ。
その簡単な世界の構図が、すっぽり意識から抜け落ちてしまったのは、願望が強すぎたせいなのかもしれない。
「流石のシカマルも、」
「ん?」
事情を知らない皆は、私たちがごくありふれた恋人同士だと見ている。
それが真実になれば幸せなのに。そう思ったのは、今が初めてではない。
「今度こそは困るよね」
茶番劇に付き合わせ、散々迷惑を掛けてきた。私の存在はきっと、これまでもシカマルにとっては重荷だったはずだ。
自分の父親に惚れている馬鹿な女、それ以上でもそれ以下でもなくて。
それでもある意味"特別な存在"でいられる事だけが救いだと思っているなんて、今更どんな顔をして伝えられるだろう。自分の事しか考えずにこの関係を始めてしまった私が、どんな顔で。
何故ここまで彼が私のエゴイズムに付き合ってくれるのか、不思議だった。でも、一方ではそれがどうしようもなく嬉しくて。
素直になろうと意識すればするほど、思考は分裂していく。
さらり、長い指先で頬を撫でられて、背筋を甘い痺れが走り抜ける。
誰でも良かった訳ではない。むしろ、彼しかいなかった。
「困る?」
「ん…」
頬を撫でていた指先が首筋に滑り下りる。愛しいものを見つめるような視線に捉えられて動けない。
父親に絡む事柄だからと、義務感に駆られているだけだとしたら、彼の遣り方は余りにも優しい。
それもまた、彼が無意識の内に父親から学び取ったことの内のひとつだろうか…その優しさは、罪だ(それはシカクさんの傍に居た日々にも感じた事だったけれど)。
「迷惑っつうことか」
「…うん」
語られないたくさんの想いが頭の中で渦巻く。
緩やかに変化した感情をわざわざ説明したことはないし、この先もきっと私はそれをしないだろう。
「迷惑…なんて、」
「……っ」
情事の昂揚にまぎれて、何度となく口ごもった愛の言葉。
シカクさんしか要らないと思っていた頃には軽々しく口にできた台詞を、いつからか言えなくなっていた。それがいつだったのか、もう随分前過ぎて思い出せない。
「んな簡単な言葉じゃ、済ませらんねぇけどな」
やわらかく吐き出された言葉には、心を溶かしてしまいそうな温度があって、ずくり、胸の奥が軋む。
伏せていた瞳を怖々と見開く。私の視界を捉えたのは、腹を括った大人の男の顔で。薄い唇を噛み締める彼に頭がくらくらする。
深い慈愛に満ちた双眸に吸い込まれそうになる。
彼に比べて、私は汚れている。傷つかなくていい人までも傷つける事で、自分の傷を浅くしようとしている。他人から搾取した幸せで、他人を不幸にしている。
酷い女だ…。そうやって責められても当然なのに、彼が私を詰る事は一度もなくて。
だからこそ、気持ちを偽り続けて来た。いっそ、たまには意地悪に責めてくれれば開き直る事も出来たのに。
一切を包み込む深い眼差しに、甘えるために嘘をつく。
彼の傍に居るために、汚れた女を演じる。彼を利用する女で居なければならない(そうまでしても、傍に居たかった)。
感情を深くふかく沈めて。
でも、
それももう終わりに思えた。
きっとシカマルが、ピリオドを打つのだろう。
「ごめんね」
シカクさんを慕う感情が消えた訳ではない。けれど、今の私にとって、それはただのきっかけ。
「馬鹿な奴…」
どうしようもねぇな。と、息を吐き出した彼もまた、すべてを理解した上で傍に居る馬鹿な男の役を演じているのかもしれない。
きっと私には、三角関係未満の曖昧な間柄がお似合いだった。奈良家の男たちの惜しみない愛情を受ける価値などない。
ならば、このまま不安定で身勝手で理不尽なポジションを貫いて、嫌われ蔑まれたまま消えればいい。記憶の中には浅く薄く、いつかは消えてしまう程度に残れば。
自虐的な台詞を心の中で繰り返しながら、揺らぐ意志がもどかしい(でも、その意志の向かう対象は決してブレてはいない)。
「そう…だよね」
「ああ」
今のままのふたりでは、何の意味も何の価値もなくて。なのに、カタチのないこの関係の中で答えを探して藻掻いている。
本当はかけがえのない何かになりたくて、でもそれでは余りにも欲張り過ぎだと躊躇って。
乱暴に灰皿へ押し付けられた煙草が、醜く歪む。私もこんな風に粗野に扱われるべき存在なのかもしれない…
じり。赤い火種を揉み消す指がしなやかに曲がる。
その手が、終わらせようとしているものの象徴に思えて、狂おしい程の愛しさが溢れ出る。
移りゆく季節がゆるやかに、鮮やかに変えてしまったもの。
互いの最後の領域には踏み込まず、上手くバランスを取って来たすべてのことが、たった一言で崩れてしまうのが怖くて。
バランスを取ることよりも、もっと大切なものがあることは分かっていて、目を背けて。心を開かずに、何かを得ようとするなんて、傲慢だ。
歪んだ始まりだったけれど
本気で――
「ごめんなさ…」
私から顔を背けたまま、肺のなかの煙を吐き出す仕草に見とれる。
無言の気遣いはいつも私の心を優しく溶かして、胸の奥からじわり、潤んだ体液は切なさばかりを跳ね上げる。
本当は――
「ったく、何謝ってんだ」
ぽすん。頭に置かれた掌は、温かい。そんなふうに優しくされると、苦しい。自分勝手に引きずり込んだ関係に、今は私の方が縋っていて。
シカマルが傍に居てくれる理由を、つねに探している。
人は常に理由を持って行動するのではないと知っているのに。
また思考が分裂し始める。何を望んでいるのか、自分で口に出来ないなんて、そんないい加減な女に私はいつからなった?
「オメェも素直になった方がいいぞ」
シカクさんが別れ際に囁いた台詞が、頭の中をぐるぐると回る。
あいつは案外鈍い所があるから、と続く言葉を聞いて、ホッとしたのはいつだったろう。あの頃は、自分の中に秘めた想いに気付かれたくなかった。
きっとシカクさんは、私が自覚する前から感情の移ろいに気付いていて。シカマルを通してシカクさんを見ていたはずが、いつの間にか逆になっていた。でも私は、結局素直になんて、なれそうもない。
時々苦しげに歪む彼の表情は、何を示しているのか。それが父親への嫉妬であれば…と。
そんなちっぽけな欲で嘘を吐き続けた私の事を、シカマルは許してくれるだろうか。
「忍の仕事はどうすんだ、」
「どうしよ…」
私を覗き込む黒目は、心の奥底まで見透かしているように鋭敏で。
シカクさん、貴方の息子さんは親が思っている程に鈍くはないらしいです。
本当は、ただ、恋がしたかった。
目の前にいる彼と、真っ直ぐに向き合って、恋が…
「仮にもお前上忍だろーが」
「そうだね」
何も始まらないうちに身ごもってしまった現実は、成り行き任せに流されてきた自分への報いだろうか。
「ったく…バカなヤツ」
不意に抱き寄せられて、シカマルの温もりに包まれる。
背中を這う掌の感触と頭頂部に降ってきた優しいキスで、一切の思考は途切れた。
魚になって恋をしようそのとき微かに見えたのは、彼の肩に乗る幼子。あまりにも幸せな未来のイメージはゆるく胸を締め付けて、窒息しそうだ。