魚になって恋をしよう
輪郭のぼやけた月が、水面にたゆたっていた。
「…シカマルよぉ」
「あ?」
縁側に並んでちびちびと日本酒を飲みながら、秋の夜長を楽しんでいたある日。
不意に呼ばれた名に顔を上げると、ひどく真面目な親父の瞳に射抜かれた。
「オメェ、この先どうする気だ?」
いきなりの親父からの問い掛けが何を指しているのかは、聞くまでもない。
でも、何故今頃になってそんな事を問うのか?
俺たちが、他人には上手く説明の出来ない関係に陥ってから、既にいくつもの季節が通り過ぎている。
今更…と、思った。
「放っとけよ」
死ぬまで付き合ってやる。あの時そう思ったのは嘘ではないし。今もそれは変わらない。
時折腹の底で燻る理由のつかない想いも、すべて覚悟の上の決定事項に過ぎない。
嫉妬の感情はなかった。自分の女だと思っている訳でもなく、何より彼女の気持ちを尊重したくて。
「たいていの事なら、そうすんだけどな」
今回ばかりは見過ごせねぇ。
常日頃より低い声を一層落として、俺を見据える親父の瞳は怖い程に尖っている。
肌を合わせるのに、理由は要らない。余計な思念を交えず、本能に身を任せるだけだ。
なのに、熱を交える度に引き擦られそうになるのは何故だろう。 ふたりが触れ合う事に、意味を見出したいと思ってしまうのは何故だろう。
感情を抑えつける。
まだ、コントロールは可能だ。自分を見失う程には囚われちゃいねぇ。
ずっと、そうやって己の感情と向き合いながら続けて来た。
「どういう事だよ?」
「やっぱり、気付いちゃいねぇか」
所謂、セックスフレンド的な間柄からは、まだ飛び出していない。遊びというのとも違うが、本気でもなくて。その不道徳さに煽られるほど、バカでもない。
彼女の反応を探り、快楽を引き出して、その昂りと一緒に俺も上昇する。
近付きすぎず離れ過ぎず、互いに距離を計り(もしかしたら、そんな事に捉われてんのは、俺だけかも)、一抹の罪悪感から生み出される負の空気を楽しむ余裕すらあった。
「勿体ぶんなって」
「そんなつもりは毛頭ねぇさ」
親父よりもずっと長い時間を共有してきた自覚はある。なのに、あんたには気付けて、俺には見えていない事がある。その差はなんだ?
ちりり、鳩尾を焦がす鈍い痛みに眉を顰める。
その痛みは、
たしかに"嫉妬"だった――
「じゃあ…」
「そうさな、テメェで聞いてみろ」
含みのある表情で一気に酒を呷って、親父は立ち上がる。
訳が分からない。なのに腹の中を掻きむしられるような、不快な感覚が俺を苛んでいた。
◆
馴染んだ肌の温もりに寄り添い、一夜を明かした朝。腕にやわらかい重みを感じたまま、無言で天井を見上げる。
親父の言葉は相変わらず頭から離れない。鳩尾を鈍く灼く不快感の理由を彼女のなかに探ってみるけれど、澄んだ瞳は何も語らない。
不可解な感情を持て余し、カチリ、銜えた煙草の先端に火を付けると深く息を吸い込む。
付き合ってやると言った以上、俺には彼女の意志に従う義務がある。彼女がそれを望む限りは。でも、何故…俺?
この世の中のすべては、義務と権利と少しの欲望…そのバランスで成り立っている。
その均衡を計るために必要なのが想像力だとするならば、いまの俺にはそれがまるまる欠如しているのかもしれない。
肺を満たした煙のせいで、薄く霞んだ脳内は、また懲りもせず同じことを考え始める。
俺たちがこうしている理由――
濁った空気を吐き出しながら彼女を盗み見ると、やわらかく目を細めた表情が俺を見ている。
その目が語るのは、何だろう。余りにもやさしい視線に、胸が苦しくなる。
「要るか?」
いつものように吸いかけの煙草を差し出すと、珍しく彼女は顔を背けた。
その行為で、すべてを否定された気分になるのは多分、俺が卑屈になっているせいだ。
「なあ、お前…」
「…ん?」
差し出すばかりで何も得られないなんて、頭の悪いガキみたいなこと、考えたくもねぇけど。
「何か隠してる事あんだろ?」
「………」
泳ぐ視線が何よりの証拠だ。
頼りなく黙り込むお前の肩は小刻みにふるえている。
また、あの日のように透けちまいそうに見えて、狂ったように抱き締める。
低い体温が、皮膚の細胞にじわじわと沁み込んでいくのを感じたら、頭の芯が痛いほどに痺れた。
「んだよ、親父には話せて、俺には言えねぇの?」
「シカクさんが…なにか?」
曇った表情の中で双眸の明度が僅かに上がる。
んなに、親父に気にして貰えんのが嬉しいかよ?
彼女の些細な変化で、胸の奥が軋む。
「さあな。やけに含みのある物言いはしてたけど…」
「そう、か。隠し通すつもりだったのに…」
シカクさんには敵わないな。
ぽつり、吐き出された言葉に、表しようのない程の苛立ちを感じた。
いま、お前の前に居んのは俺だろ?親父じゃない。
触れ合った肌からは、確かにぬくもりを感じているのに、お前はここに存在しない。
そんな反応を見せられると、いっそのこと、めちゃくちゃに傷付けてしまいたい気分になる。
「で?」
「うん……」
距離感ゼロで触れ合っていても、お前のなかに俺はいない。
「さっさと言え」
棘を撒き散らしながら、無謀にも俺が願うのは、お前の傍に居ることで。
「んだよ、ふたりして…」
「シカ…」
「結局俺だけが蚊帳の外かよ」
「違う…」
苦しげに眉を顰めた顔に、欲情を煽られた。
でも、
その感情はただの物理的な欲ではなくて。
何よりも俺が欲していたのは、言葉にはならない何か。
「子供…」
「ん?」
見上げる瞳に俺が映る。
「子供がね、出来たの」
どっちの子だか、分からない。
へらり。何でもない事のように呟いて薄く笑う顔に、無性に腹が立った。
死ぬまで付き合うってのは嘘じゃねぇ。でも、まさか。
さっきまで体内で滾っていたものが、急速にさめていく。
身体中の血液が一気に足の先まで引いて、肌の表面には鳥肌が浮いた。
父親になる…。
父親。その決意までは出来ていなかったのか、覚悟が足りなかったのか。
分からない。
指の間では、忘れ去られたまま伸びた灰が皮膚を熱で侵食する。
この関係を、この感情を、焼いて焦がして。
灰にしてしまえたなら、どんなにか良かったろう。
始まってもいない。
なのに、突きつけられた現実は、色さえ分からぬ混沌。不意に、親父の不遜な表情が瞼の裏に浮かぶ。
嬉しいとも、苦しいとも違う、脳内を直接攪拌されるような不思議な感覚が、俺の全てを支配していた。
魚になって恋をしよう左脳の片隅で俺が待ち続けていたものは、