エスペランサ
偶然もたまには面白い。そんな夜。
「そろそろ帰るか」
「そうっすね」
仕事はつねに山積みだ。一段落なんてのは、無理矢理にでもつけなければ際限なくやることが出てくる。いつでも。だから今日はもう終了。とんとんと書類の角を揃えて席を立つアオバを横目に、シカマルはPCをシャットダウン。
「今日は車?」
今日も、か。厭味ではない含み笑いを浮かべるアオバ。
彼のようなタイプに、隠し事は無駄。きっとこのあとの行動も、いま考えていることもつつぬけ。それはそれで面倒だけれど、言葉を重ねるほどに面倒が増えていくだけなのだ。突っ込む隙を自分から提供するなんてバカげている。だから、無言ではにかみを返した。
パーキングへ向かう男ふたりの間に会話はない。ただ、生ぬるい夏の熱だけ。都会の夜は、ざわめきと人工的な光と変な暑さで出来ている。
目の前を女がひとり、駆けていく。走る速度は急いでいるにしては落ち着いていて、ちゃんとどこかを目指すように視線の向きは定まっていた。まっすぐ。それが妙に気になった。
跳ねるたびに、柔らかそうな髪がふわふわと揺れている。慌てているようには見えないが、頬をかすかにほてらせた顔。どこかで会った気がする。
あ…。アオバの短い発声は、やはり彼女が知り合いだ、ということだろうか。ひどく楽しげに唇が弧を描いている。
誰、だっけ。
思い出せない記憶を手繰り寄せる感覚は、いつももどかしい。すぐそこまで浮かんでいるのに、形にならない曖昧な輪郭。分厚い膜の上から痒いところを掻きむしるみたいな、歯痒さ。
「わかった?」
「…いや、全然」
シカマルは眉を顰める。オフィス街はよくにた格好の人々であふれている。やっぱり思い出せない。記憶力は悪いほうじゃないと思うのに、あやふやで。
「…そうか。奈良は覚えてないんだ」
残念。ネタを掴み損ねたね。
つかみどころのない曖昧な記憶。なのにやけに鮮明な印象。
正面から近づいて、ヒールの音を響かせながら通り過ぎた彼女。残る一陣の風。八月のぬるい空気が、一瞬だけ爽やかに澄んでまた元に戻る。
「……ネタ?」
「振り返って見れば分かるかも」
つられるように視線が追いかけていた。たぶんアオバの言葉がなくても振り返っていたんじゃないかと思う。女の表情が、あまりに幸せそうにやわらいでいたから。
彼女の細い肩越しに鈍く光る金髪。
視界の先には、見知った姿。柔らかく表情を崩しているあの人影は――ゲンマ。
ネクタイをゆるめ、社内での顔とは明らかに違う彼もまた、幸せそうなただの男だった。
「わかった?」
「…!」
近寄った彼女の頭をくしゃくしゃと撫でるゲンマは、懐かない猫をあやす飼い主にも似ている。ふたりの周りだけ、空気の色が違って見えるのはきっと気のせいではない。
「早めに会社出たと思ったら、」
そういうことか。満足げなアオバの声。
「不知火さんの奥さん…すか」
「ああ。俺にも気付かないなんて」
「よほど慌ててたんすかね」
「だろうね」
短い会話を交わした彼らは、まるで当たり前のように指を絡める。その光景から、しばらく目が離せなかった。きれいで。
「珍しいっすよね、会社の近くで待ち合わせ…なんて」
「ゲンマらしくはないけど」
あいつは昔から、彼女にだけは弱いから。
「へえー。にしても、イイ顔」
「だよね…でも、」
お前もおんなじ顔してるけど。たぶん彼女も、ね。
は?反射的に飛び出した声。アオバは口の端を軽く歪める。やっぱりなにもかもつつぬけ、か。
「なんすか、ソレ」
「今夜もお迎え、行くんだろ?」
待ってるから、よろしくね。彼女の声が鼓膜の奥で再生される。
「お疲れさまっす」
「気をつけて。彼女によろしく」
続く言葉には返事をせずに、カチャリ、車のドアロックを外した。
はやくあいたい。
エスペランサホントに俺もあんな顔してる?----------------------------
2009.08.27
エスペランサ=希望