スタビライザー

 濡れた髪をぱたぱたと拭いながら、頭の中はまだ昼間を引きずっている。一人として同じ人間がいないことは分かっているけれど、この世はなんて理不尽にあふれているんだろう。
 労働の対価としてお金を貰う。両者の立場はつり合っているはずなのに、社会の至る所で当たり前のようにバランスが崩れていて。男だから女だからなんて瑣末なことは、どうでもイイことじゃないかな。
 相容れない意見にもやもやするのは、立場の弱い人間だと相場が決まっているから、ふとした拍子にスイッチが入れば、考えても仕方のないことに頭を占領される。
 そういう状態は、好きではないけれど。働くって、そういうものだから。好き嫌いって感情で動ける自由さの代わりに、不自由に裏打ちされたラクさがある。とは言ってもなかなか割り切れないのは、疲れているせいかも。


「お風呂、あがったよ」

 リビングへ向かえば、明かりが消えて不自然なしずけさが漂っていた。

「シカマル?」

 明日はお休みが取れたと聞いていたのに、先に寝たんだろうか。珍しい、というよりも、意外で。きっと起きて待っててくれると思っていたから。

 ため息をつきながらドアを開けた瞬間に、キャンドルの炎がふわり。いつものコーヒーの代わりに、並ぶのは華奢なシャンパングラス。
 予想が鮮やかに裏切られるのは、ある意味すがすがしい。
 あ、誕生日――
 ちょうど日付が変わった所らしい。軽快な音を立てて抜かれる栓が、天井に当たって落下する。

「おめでとさん」

 透き通った液体が、泡立ちながらグラスを満たす。ふつふつ、小さくはじける気泡たちが目にやさしい。

「ありがと」

 かちん。ガラスが奏でる小さな接触音。目の前には、淡いろうそくの火に照らされた彼がやわらかく微笑んでいる。
 甘過ぎるものが苦手な私に合わせて、セレクトされたんだろう。ガラスドームに覆われた大皿に、色とりどりのプチフール。彼は本当にこういう演出をスマートにこなす。
 目に映るすべてが、じわじわと心を溶かして。一日の始まりからこんなに幸せな日は、滅多にないんじゃないかな。
 いつもの自分の部屋なのに、シカマルがそこにいるだけで空気が変わって。昼間から続く地を這うような怠さも、日中の煩雑な業務も、不思議と忘れてしまう。さっきまで頭を占めていた全ても、馬鹿みたいに。

「美味しい」
「そりゃ良かった」

 記念日にはこだわらないタイプだと自覚はあるのに、こんな風に特別扱いされて喜んでいるなんて。やっぱり私も女だって、そういうことなんだろうか。

「ったく、またどうでもイイこと考えてんだろ」
「え…なんで?」

 女性的と言われるのは、業界の中ではメリットよりもデメリットのニュアンスの方が大きくて。だからといって意識して女性性を排除してきたつもりはないけれど。女であることを前面に押し出すのは、好きじゃないことに変わりない。

「ここ」

 こつん。眉間に伸びてくる長い指。些細な所作にもどきどきと心臓がふるえる。

「シワ、寄ってんぞ」

 ふっ…吐き出されるため息があまりにやさしいから、やわらかく表情が崩れる。そうしたら、一緒に心まで緩んだ。
 どうでもイイこと、か。そうかも。だって私は、いま目の前に彼がいるだけで充分なんだから。

「今日は余計なこと全部、追い出しちまえ」
 明日も休みなんだし。

 うん。頷く頭をくしゃりと撫でられた。子供でもないのに、こうしてシカマルの手で頭を撫でられるのが、とても好きだ。
 さりげなく触れる、そんな時にも彼の瞳は大切なものを扱うように毎回微かにゆれるから。わずかに眇められた双眸が、心臓をぎゅうっと締めつける。

「シカ…明日、というか今日か。よく休めたね」
「ああ。お前のせいっつうか、おかげっつうか…」

 首を傾げて顔を見上げたら、ほんのり耳が赤い。シャンパン数口で酔うような彼じゃないのに。

「ゲンマさんからお前への誕生日プレゼントだってさ」
 休暇願にハンコ捺しながら、すげえ楽しそうだった。

「あっ…!もしかして、」
「お前、誕生日だって言ったんだろ…ゲンマさんトコの奥さんに」

 ごめん、ついうっかり。シカマルがゲンマさんにからかわれる原因の何割かは、私のせいだって分かっている(いま赤面しているのは、そういうことなんだろう)。なのにまた無意識で、ネタを提供してしまったらしい。

「まあ、慣れてっからイイけど」
「ホントにごめん」

 くつくつと咽喉の奥で笑いながら、空になったグラスにシャンパンを注ぐ指先。ことり、ボトルを置いたそれが、そっと頬に触れて。湿ったつめたい感触が頬に染み込む。
 男の人の指。

「良いって。それより、まだ飲みてえんだろ」
「ん。いい?」

 シカマルの指に掌を重ねれば、自分が女で良かったと思う。男とか女とかにこだわっていたのは、社会ではなくて自分の方なのかも。

「でも、ケーキは明日な」
 とりあえず、今夜の誕生日プレゼントは俺ってことで。

 言葉の余韻をのこした唇が、うすく歪んで。熱いそれが、心を揺さぶるように、そっと耳たぶをかすめた。



 スタビライザー

 好きなだけ喰ってイイから――

 ゲンキンだけど、やっぱりこの世は素晴らしいかもしれない。
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2009.06.09
スタビライザー(Stabilizer)=安定化装置のこと。飛行機・船・自動車などの揺れを減少させ、安定させる装置。火薬・化合物などの安定剤。

お誕生日を祝って下さった皆様へ、感謝をこめて。
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