くらくら

 帰宅してすぐに、眼鏡をかけて仕事の続きをやり始めた彼女を、すこし離れた所から眺める俺。
 ごく自然に彼女の生活へ入り込んでいる自分が嬉しいと思う半面で、たまにはノイズになりたいなんて欲張ってしまう感情もあるのだけれど。
 三連休も仕事びっしりだと聞いていた手前、邪魔する気にはなれなくて。
 何もそんなに慌てることねえのに。一服すれば? と言いたい気持ちをぐっと飲み込んだ。


 ――真剣な横顔も悪くねえな。
 ってのは、本心半分。自分の気持ちを制御するための言い訳半分。
 とか言いながら、しっかり見惚れてんだけど。鈍感な彼女は、きっと気付かない。

 着替えもせずにパソコンに向かう彼女の顔を、青白い光が照らすさまは、見慣れないせいか結構興味深い。
 半開きの唇と眉間の皺、画面を凝視するおおきな瞳。
 多分いまの彼女の脳内には、俺の存在など数パーセントしかなくて。それが寂しいなんてのは、余りに我が儘過ぎるから、勿論主張する気はないけど。
 ほんのちょっとだけ俺の存在領域を拡げたいと思う位は、罰も当たらないだろう。

「ほい、コーヒー」

 マウスの邪魔をしないように左手側にカップを置くと、いつもより真面目な視線がはいあがってくる。
 その眼に弱ぇんだよな、俺。
 網膜が俺を映して、一時的に彼女の意識を占領出来たことを知れば、優越感が沸き上がる。

 ありがとう。って言葉と一緒に眼鏡を外して、目頭をきゅっと摘む仕草。
 その仕草にも弱ぇ。

「先に風呂入れば?」
「うーん、後少しだから」

 終わらせるよ。と言葉を続けて、細い指はフレームをもとの位置に戻す。
 ガラス越しの視線は、いつもよりシャープだ。

「シカマルは?」

 視線を画面に戻しながら、問い返す彼女のなかで、俺の占める領域がまた縮んでいく。
 多分、答えがどちらだとしても彼女は構わないはず。解答を求める問いですらないのだろう。
 彼女はそうやって、簡単に俺の気持ちを掻き乱す。
 そんな彼女の気持ちを、俺もたまには少しだけ乱してやろうと思った。

「お前が終わらすの待ってるわ」
「え…?」

 聞き返さなくても、どういう意味だか分かってるくせに。
 ふたたびこっちを見上げた顔に、ニヤリと笑って見せる。

「だから……たまには一緒に入ろうっつってんの」
「あ…の」

 とぼけたフリをしているのか、仕事モードだから本当に気付かなかったのかは判断に迷うところだけど。

「いや?」

 わざと耳元で囁けば、うっすらと耳たぶが染まる。
 普段から欲望なんて滅多にあらわにしない彼女だけど、耳に性感体があることは知ってる。
 息を吹きかけるだけで肩を竦めることも、低く名を呼ぶだけで瞳が溶け出しそうに潤むことも。
 分かっててこんなことをする俺は狡い。自覚はある。
 でも、ブラウンの柔らかい髪の隙間から覗く白い首筋に、瞳が捕まってしまったら、苦しくて。息苦しくて。

 "構って欲しい"なんていうガキっぽいエゴとは一線を隔したところで彼女を求めているんだ、っつうのはただの言い訳。
 結局はそこらの我が儘な思春期のガキと大差ない。
 むしろ狡猾さを自覚してる分だけ俺のほうが性質悪ぃかもな。

 ちらちら見え隠れするブラウンの狭間の白に、頭がくらくらする。目眩がしそうだ。
 なのに彼女は余りに無頓着な様子で、惜し気もなく目の前にうなじを晒している。
 その飾り気のなさは、愛おしくて堪らないけれど
 俺だけがいつも、こんな風に苦しいなんて不公平じゃねえ?

 だから、分かってて、後ろから両腕を絡ませると、思い切り低く掠れた声で名前を呼んだ。
 もちろん、耳たぶに唇が触れるくらい近くで。

「シカマル…」
 邪魔、しないで。

 ほら、やっぱり過敏に反応してんじゃねえか。
 そんな泣きそうな声で抵抗されても、説得力なんてねえのに。逆に、その響きに煽られる。

「一緒に入んの、いやなのかよ?」
 そんなことねぇよな。

 触れそうで、触れない。あやういところを、唇でかすめて撫でると、かぷり。耳たぶを甘噛み。
 声も出せずに何度も縦に首を振る彼女の頭のなかは、きっともう俺でいっぱいのはず。

 ふわふわとやわらかい髪が鼻先を撫でて、やさしい香りが俺の中に入り込む。
 どくり、バカみたいに心臓が跳ねる。

 いつの間にかマウスから滑り落ちた右手が、頼りなく俺の服の裾を掴んでいる。その仕草、反則だっての。
 パソコンの画面には、エンターキーを押されないままのカーソルが控えめに点滅。

「じゃ、さっさと続き終わらせちまえよ」
「……っ」

 振り返ってため息を漏らした彼女の顔には淡い欲望が滲んで。そんな表情を見せられると、やべえんだけどな。
 彼女は、どこまでも無意識で俺を煽る気らしい。
 仕事のことなんてすっかり抜け落ちてしまった瞳が、じわじわと俺を刺激する。

 つうか…俺、何やってんだろう。
 ホントはたった一瞬だけ彼女の意識を占領出来ればそれで満足で、仕事の邪魔する気なんてなかったのに。
 耳が性感帯だからと、彼女を煽るようなことをして、結局彼女の反応で煽られるのは俺の方じゃねぇか。

 しっとり汗ばむ指で前髪を持ち上げて、そっと額に唇を押し当てる。
 今更だけど、じわりと広がる欲望をねじ伏せるように、ぎゅっと目を閉じた。

 今日の俺、少しおかしい。


「もう、いい」
「は?」
「先にお風呂、行こ」
「仕事の続きは…」
「明日やる」
「明日も朝から仕事だろ?」
「ううん。明日は、無理言ってお休み貰ったから」
「へ?」

 じゃあ、なんで今日帰ってすぐに仕事なんてしてた訳?つうか、そういうことは先に言ってくれ。
 別に慌てなくても、最初から明日に回せば良かったんじゃねぇの?

「半休だけどね」
 それでも、明日はシカマルとゆっくり過ごしたかったから。

 だから、今夜の内に終わらせたくて。 言いながら、服の裾を握りしめた指にぎゅっと力がこもる。
 くそ。そういう所作を見せられたら、ねじ伏せた欲望なんて一瞬で熱を取り戻すじゃねえか。

「でも、もう無理…」

 甘く掠れた声が俺を誘う。その声だけで、胸がずくり。疼き始める。
 そんな声聞かされて、もう無理だって思ってるのは、俺のほうなんだけど。

「頭くらくらするから、先にお風呂入ろう…ね?」
 仕事なんてもうできないし。

 さっき"一緒に入ろう"と誘ったのは自分なのに、お前の口からこぼれる台詞は、まるで違って聞こえる。
 なんだよソレ。殺し文句?
 きっと、お前よりもずっとくらくらしているのは俺のほう。

「シカ……」

 構って欲しくてちょっかい出す行為も思春期のガキみてえだったけど、それだけじゃなくて、身体の反応まで思春期のガキみてえになってる。
 お前に名前呼ばれるだけで、身体の奥がじわりと熱くて。
 温度をあげた血液が身体中を巡る。一点に集まって、臍の裏側で騒いでいる。

 別に一緒に入るからって、風呂でどうこうしようなんて思ってねえし。断じて思ってねえから。 心の中で必死に言い訳を繰り返しながら、どこかでそんなの無理だろって諦めてる俺。
 だって、もう。身体はしっかり反応してしまっている。
 発情期よろしく勃ちあがった下半身にちらと目をやると、ため息が漏れた。

 まだ触れてもいねえ、キスすらしてねえのに。何なんだ、コレ。
 自重してた気持ちが"休み"と聞いて過敏反応してるのか。箍が外れたにしても、コレはちょっとどうかと思う。

 やっぱ、今日の俺…おかしい(もしかしたら眼鏡姿にやられたのかも)。

「シカマル、早く」

 無理だろう、じゃなくて、無理だ。無理です、神様。
 袖を引きながら、無防備な誘惑の台詞を吐くこの唇。もう、塞いでもいいですか?

「明日、まじで休みなんだな?」
「ん。半日ね」



くらくら
(んじゃ、今夜は手加減しねえから)


 揺れる水面と一緒に、心も身体も揺れればいい。温かい液体に包まれて溶け合ってしまえば――
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