透明な檻

 軽い夜食をすませ、食後の一服を堪能しながら携帯を手にとる。
 喫煙室の外、雨は激しさを増したらしい。

【いま、電話いける?】

 くわえ煙草でキーを操作し、短いメールを送信した直後、耳慣れたバイブの音がちいさく響いた。


「お疲れ様。どうしたの?」
「わりぃ、今日はちっと遅くなりそう」
「私もまだまだこれからだし。でも、お迎え無理なら電車で帰るから」
 大丈夫だよ。
という彼女の声は穏やかで、きっと今頃その声音と同様に、やわらかく微笑んでいるのだろう。
 窓の外に視線を移したら、更にひどくなった雨足が、ガラスをぱたぱたと叩いては滑りおちる。

「ゲンマさんが予想外に早く帰っちまったから、その皺寄せっつうか」
 予想外の仕事量アップでな…わりぃ。

「ううん、あんな事になったら仕方ないよ」

「へ…?」

 明らかに事情を知っているそぶりの返事に、煙を吐き出しながら首を傾げる。

「もう少ししたら、先に帰るねって連絡しようと思ってた」


 やっぱり、何かを知っている口ぶり。
 お前の情報源っつったら、キバんとこかゲンマさんとこ…か。

「お前さ、なんか知ってんの?」
「シカ…聞いてなかった?不知火さんの奥さん、過労で倒れたんだって」
 昼休み終わるころに、病院からメール貰ってね。


「へえー…初耳」

 確かゲンマさんとこも同じ業界っつってたから、この時期の馬鹿みたいな忙しさは、俺らと寸分違わないんだろう。
 男でもキツいと思うレベルだ、元々の身体能力(基礎体力っての?)の低い女性なら、負担は尚更だと容易に想像がつく。

「点滴受けて来たらしいよ。この雨だから、不知火さんも心配だったんじゃない?」

 だったらお前だって、いつ倒れてもおかしくない位、疲労が蓄積してんじゃねえの?
 ただでさえ休日出勤続きでマトモに休息できてねえんだし。

「なるほど、な」

 彼女の言葉で思い至ったゲンマさんの帰宅の理由に、アオバさんの台詞の意味をやっと理解した。

(ゲンマもただの男)


 そう言って彼が笑ったのは、つまり"ゲンマさんも奥さんのことになると常日頃の不遜なまでの落ち着きを失う"って、そういうことか。
 いつもヒトのことをからかってばかりのあの人にも、弱いモンがあるっつうことが、なんだか妙に嬉しい。

 なるほどなー……
 もう一度心のなかだけで呟くと、ニヤリ、口許を緩めた。

「ん。だから今夜は不知火夫婦の為に、頑張ってね」

 そうやってお前は、いつも他人のことばっか考えて。
 自分のこともちったあ心配しろっての。

「おう。でも、待ってろよ」
 出来るだけ早く終わらして、そっち向かうから。

 受話器越しに彼女の微笑む気配を感じたら、そのもどかしい距離を圧して、今すぐ手を伸ばしたくなる。

「無理は止めてね?」
「とにかく行くから。お前、今朝は傘持って出てねぇだろ?」
 濡れて風邪でもひかれちゃかなわねえし。

 傘なんてどこででも買えるのに。呟くお前に、否定の返事を返しながら眺めた空は、真っ暗なのに何故かやけに綺麗だった。






「あれ…奈良はもう帰ったの?」
「ああ。きっちり仕事は終わらせてったけど、ね」
 俺もそろそろ帰るよ。

「ええーー!?じゃあ」
 俺とアスマだけになっちゃうじゃない…今日はゲンマも珍しく帰宅早かったし。

 ぶつぶつとこぼしているライドウに苦笑が漏れたのは、彼が全くゲンマたちの事情に気付いてない様子だったから。
 昔からその辺には疎いやつだったけど、今もちっとも変わってないらしい。
 俺にしてみれば"一目瞭然"ってヤツなんだけど(その鈍さが、ライドウの良い所でもある)。

「寂しいなあ。広い事務所にふたりか…アオバ、ほんとに帰るの?」

 デスクに広げていた資料をそれぞれのファイルに戻しながら、今後の段取りを考えて。
 寂しいから帰るななんて、こんなおっさんに言われても嬉しくない(お前が可愛い女の子だったら、少しは考えてあげなくもないけど)。

「ああ。お前もお喋りしてる暇があるなら、さっさと続きやれば?」
 雨も止まないみたいだし。

 手帳を鞄に仕舞うと、立ち上がりジャケットを手に取る。
 今頃、ゲンマはもう家で。奈良もきっと、彼女を乗せて車で走ってる時刻。

「お疲れ、アオバ」
「じゃあ、お先に。ほどほどにね」

 かるく手をあげると、入口の置き傘をするりと抜いて、事務所を後にした。





 ワイパーの軌跡に沿って、水滴が輝く。
 視界が悪くなる点を除けば、雨の日の車内は、外から差し込む光を雫が反射して、常とは異質の美しい光景を見せてくれる。
 雨音のガラスに当たる一定のリズムすら、狭い空間の親密感を増して、音があるのにしずかないつもと違う空間を作り上げる。

「結局迎えに来て貰っちゃったね」
「気にすんなっつってんだろ」

 眼鏡越しに横顔を盗み見れば、白い肌に浮かぶやわらかな陰影。


「…どうせ、一緒んトコ帰るんだし。ってこと?」

 お前はまた、そうやって無意識で俺を煽る。
 たしかに、最近では週の内半分お前ん家に泊ってるけど(半同棲っていうヤツなのか。実家に帰るたびに見せられる親父のニヤニヤした笑いがイヤで、ついつい足が向く…というのは後付けの理由だ)。

「ちげぇよ。バカ…」
 俺が心配だから。と続けるべき言葉を飲み込んで、ちょうど赤に変わった信号の手前、ゆるやかに停車する。
 相変わらず、雨の雫は途切れることなく降り注いでいた。

 ワイパーのインターバル、雨滴で覆われた車中には、静かに流れるジャズピアノ。


「心配、してくれてるの?」

 飲み込んだ言葉そのものの質問を返してくるお前は、別に俺の本心を深読みしたつもりなんてないんだろうけど。
 いつもの細い声が、雨音の所為でさらにぼやけて、耳に入れば優しく鼓膜を撫でる。

 ゲンマさんの奥さんの話を聞いて感じたのは、お前だっていつ同じようにパタリと倒れるか分からないって、そればっかりで。
 もちろん、いつになく焦燥感を滲ませたゲンマさんを面白がる気持ちがない訳じゃなかったけど(その気持ちを何らかのカタチを以って吐露した所で、ゲンマさん相手だと倍返しがオチだ)。

 信号とともにアクセルをゆっくりと踏み込んで、隣を見ないまま、膝上に投げ出された掌をそっと包みこむ。

「トーゼン。だろ?」
「ありがと」
 でも、こう見えて案外私は丈夫だから。

 そう言って握り返す細い指は、ひんやりと冷えていて。
 彼女にはきっと、強がっているつもりなんて全くないんだろうけど。
 言葉とは対照的なその物理的弱々しさに、胸がぐっと詰まる。


(シカマルって、そんなに心配性だったっけ?)
(お前が鈍感すぎる所為で、な)


 ハンドルを緩く切りながら、持ち上げた手の甲に唇を押し当てる。

 シフトをパーキングに移し、引いたサイドブレーキの音は、何かの合図のように車内に響いて。
 かちり、キーを回しエンジンをオフにすると、オートマティックのワイパーも動きを止める。

 公園の脇、街灯を避ける位置で車を停めたのは、もちろん意図的な行動だったけれど。
 低く響いていたピアノも消え、雨音で外界から遮断された狭い空間。
 そこに流れる空気は、予想外に艶っぽくて、皮膚がぞわりと毛羽立つ。


「シカマル…」
「ん?」

 手の甲に唇を触れさせたまま相槌を打てば、吐息混じりのお前の声。


(雨の日の車の中って、なんだかエロチックだよね)
(………っ!!)


 無意識、無自覚、無防備。
 それがお前の最強の武器で、いつもそれにやられることは充分予測しているはずなのに。
 まさに心のなかを言い当てるような台詞をさらりと吐かれたら、理性なんて一瞬で鮮やかに飛ばされる。

 放っておけばまだまだ溢れてきそうなやわらかな(でも確実に俺を陥れる)攻撃を、不意打ちのキスで飲み込んで。
 唇を繋げたまま、シートをそっと倒した。



透明な檻
雨に隠された小さな世界は、その瞬間のふたりの全て

 彼女に囚われて逃げられない俺は、なんて幸せなんだろう。
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