倍速メロウ
「ゲンマさんがこんな早く帰るなんて、珍しいっすよね?」
「そうだね」
いつになく慌てて出て行った同僚の背中を思い出しながら、浮かんでくる笑いを噛み殺す。
帰宅準備もそこそこに、ジャケットを肩に引っ掛けて出て行く姿は、隠しきれない焦燥を滲ませていた。
全く。
いつもは人を喰ったみたいな態度のくせに、特定の事になると途端に分かり易くなるというか。
それも、長い付き合いあってのことで。たぶん、奈良には気付かれてないんだろうけど(それだけは、幸いだったんじゃない?)。
アイツがあんなに慌てる理由なんて、ひとつしか思いつかない。
「まあ、終業時間は過ぎてるんで文句は言えねえっすけど」
「もともと働き過ぎだからね、ゲンマは」
「でも…確か今日は、終電なくなるまで残業の予定とか」
言ってなかったすか?俺の聞き間違いじゃねぇと思うんだけど。
向かいでぶつぶつと何らかを逡巡している様子の奈良に、聞こえるか聞こえないかの大きさで相槌を打つ。
「ああ。遅くなるつもりで、車で出社してたのが」
功を奏したというか、何と言うか。
どんな女相手でも余裕を崩さないゲンマだけど、彼女に関してだけは冷静さを失う所、昔から変わってないよね。
(途中倒れられても困るし、わりぃけど先帰るわ)
"困る"なんて言葉を選ぶ辺り、ゲンマらしいけど。結局は心配で、この雨のなか、放っておけなかっただけだろ?
クスリ。浮かんできた笑いを噛み殺し切れずに、小さな声が漏れる。
「何すか、アオバさん」
「いや、別に…」
ゲンマもただの男なんだなぁって、思っただけ。
不思議そうに首を傾げる奈良に、唇だけで笑うと
「ほら、さっさと続き」
「これ終わんねぇと、今夜は帰れねえっすからね」
目の前の書類をトントンと両手で揃えて、片付けた机の上に図面を広げた。
◆
信号が青に変わったのと同時に、離れて行ったゲンマの掌を視線で追いかける。
触れていた体温の差の分だけ、室温が下がった気がして、背筋がぞくりと震えた。
「暖房、上げるか?」
「ううん、大丈夫。寒い訳じゃないから」
愛されているんだなと思うのは、こんな瞬間。
視線は前に定めたままなのに、小さなふるえにすら気付いてくれる彼に、別の意味でぞくりとする。
「飯は?」
「あんまり食欲ないし、あるモノで適当に何か作るよ」
それとも、ゲンマは何か食べたい物ある?買い物して帰った方がイイかな?
尋ねるのと同時に、左のウインカーが点滅する小さな音。
自宅へ向かうのなら、曲がる所はもっと先の筈なのに。
ぼんやりした頭で考えていたら、滑るように脇道に逸れた車は、ハザードを出して静かに止まった。
「ゲンマ…?」
かちり。シートベルトを外す音とともに、ふっ…と、やわらかいため息が聞こえて。条件反射のように、彼に倣ってシートベルトを外し、隣に居るゲンマをそっと見つめる。
緩んだネクタイの上、少し開いたシャツの襟元から覗く鎖骨。
綺麗な流線を描く喉仏も、尖った顎のラインも、手が届くほど近くにあって。
触れたい。
そう思った瞬間に、不自然な体勢で抱き寄せられた。
「ったく…お前、さ」
「……」
耳元にするりと忍び込む低い声と、間近に感じるゲンマの匂い。
フロントガラスに注ぎ続ける雨の雫は、外からの視線を遮断して。行き交う車の群れも、光り続けるネオンも、あっという間にふたりの遥か向こうへと遠のいていく。
「倒れて病院行くくれぇ具合わりぃのに、俺の飯の心配なんて要らねえっつうの」
「……そう、だね」
家の外。人目も憚らずに抱き寄せるなんて、いつもなら絶対にしない彼の行動は、ゲンマの中にある感情を確かに私に伝えて。きゅっと指の喰い込んだうなじに、鈍く感じる痛みさえも、ゆるやかに心を潤ませる。
「そ。家着いたら、さっさと寝てろ」
「分かりました」
髪の隙間に差し込まれた掌が、くしゃり、柔らかく頭を撫でて離れていく。
両肩を支えて身体を放したゲンマが、涼やかな瞳で顔を覗き込む。
深い琥珀に吸い込まれそう。
「俺が身体に優しいモンでも作ってやるから。な?」
「ん…ありがとう」
ふたりの間に出来た距離を寂しく思うなんて、こんな風に私を心配してくれるゲンマの誠実さを思えば、失礼なのかも知れないけれど。
滅多に取らない彼の行動は、いつになく私を翻弄して。身体に引き摺られて弱った心が、もっと触れていて欲しいと訴える。
「ゲン、マ」
何を伝えるつもりなのかも分からないまま彼を呼んだ声は、細くて。甘えることの下手な私の精一杯の甘えを乗せ、微かに嗄れていた。
「……バーカ。なんつう顔してんだよ」
ニヤリ。鮮やかに歪んだ唇で、私の気持ちなんて全て見透かされているんだと気付いたら、俄かに恥ずかしくなる。
今、私はどんな顔をしてるんだろう。
もしかしたら、ゲンマは呆れてるんじゃないだろうか。
「ごめ…ん」
こつん。額を軽く小突かれる所作が、全てを受け入れてくれた証拠のようで嬉しい。
照れ笑いを見られないように、そっと顔を外へ向けたら
「あー…そういや」
さして重要でもない事を喋るような、のんびりした調子のゲンマの声。
「一つだけ、喰いたいモンあったわ」
今のお前の表情見て、思い出した。
その言葉に、外に向けた視線をゆっくりとゲンマの方へと戻しかける。
「え…?」
一度離れた身体が、再び強引に引き寄せられて。
中途半端に向き直った顔。俯き加減の顎を、ゲンマの綺麗な指が持ち上げる。
シフトレバーを挟んで、窮屈に抱きあいながら、どくどくと早まる鼓動。
「な、に……」
疑問の言葉は、途中で薄い唇に塞がれて。
角度を変え、何度もなんども重なる唇に、頭がくらくらする。
ぎゅっとしがみ付いたせいで、皺の寄ったシャツの隙間から、ちらりと見えるキレイな胸筋。
立ち上る噎せるような匂い。
車内の空気が、急速に温度を上げたような錯覚。
じんわりと染み込んでくるゲンマの体温。
この狭い空間を構成している全ての要素が、私に心地のいい目眩を起こさせるように作用していて。
「聞きてぇ?」
「ん…」
優しく啄ばむようなキスの合間
「聞いたら拒否権なしだけど」
漏れ聞こえる声の掠れた甘さに、昼間下がった熱が上がりそうになった。
倍速メロウ
(俺が喰いたいのは、お前だけ)----------------------------
2009.03.05
>>透明な檻 へ
mellow=果物などが、熟しているさま。香りや甘みが豊かなさま。人柄などの円熟したさま。また、音などが、柔らかくて豊かなさま