overture

 目眩のしそうな一日が終わる頃には、すっかり身体から力学的な動作を生み出す源が抜け落ちている。
 抜け殻ってのはきっとこういう状態。
 吸い取られたパワーが何処へ行ったのかと考えてみれば、さっきまで熟していた仕事として形あるものに変質し、体外へ出力されたということなんだろう。
 そんなのどうでもいいけど。とにかく、出力した分のパワーを早く補わなくちゃ。

「お先に失礼します」

 事務所にいる人たちに声をかけ、鞄を肩にかけると、その重みの分だけ疲労が上積みされる。
 休みの前の日の鞄は、休み明けの資料がぎっしりでかなりの重量になるのが常だ。
 私でもかなり遅くまで残ってる方だと思うけど、この時間でもまだ数人の同僚がそこには居て。
 そもそもの勤務体系に問題があるんじゃないかなんて、文句を言い出せばキリがないし、業界自体の抱える癌だとの諦めもある。

 パタン。大きなガラスドアを閉じて、明かりの消えた廊下に踏み出す。
 疲れの割には小気味よいヒールの音が響いて、明日の休みへの序章が静かに始まる。

 吸い込まれたエレベーターには一人。エントランスにも人影はなかった。
 守衛さんに軽く頭を下げて外へ出たら、冷たい外気に吐き出す息は白い。
 見上げたビルの各階に疎らに灯る明かり。(皆さんもほどほどに)小さく心の中で呟いて、ため息をひとつ。

 駅までの短い距離を歩き始めたら、隣をすり抜けた車が不自然に歩道際に停まった。


「おつかれさん」

 静かに開いたパワーウインドウの向こう、大好きな表情を見つけた途端に、一週間で積もった疲れは軽くなる。

「シカ…」
「ぎりぎり間に合ったな」

 すれ違いになるかも知れないのに何故、とか。メールでも入れてくれればいいのに、とか。
 口を突いて出そうな疑問符よりも、目の前の光景が嬉しくて。

「ありがとう」
「いや、俺が会いたかったから」

 車から降りた彼に取られた手から、じわりと流れ込むもの。
 入力刺激はやわらかく確実に心を充たして、さっきまでの感情はなりを潜めていく。

「でも、ありがと」
「ああ。鞄、相変わらず重てぇな」

 優しい表情と、鞄を持ってくれる仕草。
 車に乗った瞬間、額に降ってきた軽いキス。

「休み明けの資料が、ね」
「ってことは、明日は休めんだな」
「ん……何とか。シカマルも?」
「ああ、トーゼン」

 当然って、どういうことだろう?
 ぼんやり思いながらシートベルトを閉めたら、急に手を取られて。

 引き寄せられた胸の中、香るシカマルの匂いに息が止まりそうになった。

「シカマルも遅かったんだね、仕事?」
「お前よりマシだけど」

 肩に感じる顎の輪郭と、鼓膜を撫でられるようなやわらかい声の響き。
 頭を撫でる指の感触にとろけそう。

「なあ」
「なに?」
「疲れてんの?」
「シカに会ったら、少しラクになった」

 バーカ。と、額を小突かれて。
 目尻を下げた表情に、息を飲んだ。

「じゃあ さ、」


overture
(今夜は、無理させてもいい?)

その代り、明日はゆっくり…な。
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