真夜中の水槽

 シャワーを捻る音が無機質に響き、湯気が狭い室内を満たしてゆく。
 帰宅して僅か10分足らず。余りに早い展開は、疲れと微睡のもたらした曇る脳内を更に混濁させる。
 普通に帰宅していれば、鞄をおろし上着を脱ぎ、今頃ソファに倒れ込んで。じわりと身体に纏わり付く疲弊に、押し潰されそうになりながら睡魔と戦っているか、寝転んだままマニキュアを落とすのに集中しはじめているかのどちらかだったはず。
 なのに今、私は薄い扉一枚を隔てた向こうから響くシャワーの飛沫音を聞きながら、呆然と胸のボタンに手を掛けている。

 温度を調整してカランを捻ったまま姿を消したシカマルが、両手にバスタオルとローブを持って戻って来たのは、私がやっと3つめのボタンに手をかけた時だった。

「まだ脱いでねぇの?」

 狭いサニタリーで、後ろからふわりと抱きしめられて、耳たぶに唇が触れる。
 扉の隙間から微かに漏れ出る湯気の匂いと、シカマルの着けている香水が混ざりあって、嗅覚への刺激が頭の芯を快く痺れさせる。

「そんな風にされると脱げないんだけど」
 シカ…ちょっと離れて。

 口ではそう言いながら、背中で感じるシカマルの感触がどうしようもなく心地よくて、ずっとそのままでいたいと思っていた。
 硬い胸筋が背骨を包み込み、抱きしめる腕の強さに比例して、ふたりが同化する。

「こうされんの、イヤ?」

 耳の裏をざらつく粘膜で撫でられて、真っ直ぐに私を支えていたものが徐々に溶け始める。

(嫌じゃねぇよな)

 耳の奥に熱い息を注がれて、身体から力を抜くと、シカマルに重力を委ねた。
 頭頂部に優しく押し当てられる唇、やわらかく私を包み込む腕。首だけで振り返ると、大切なものを見つめるような眼差しが私を捉える。

「シカマルは脱がないの?」
「お前が先、な」

 くるりと身体を反転されて、少し屈んだシカマルが至近距離で瞳を覗きこむ。

「疲れてんだから、先にお湯浸かってろ」

 私を見下ろしながら、大きな掌で髪をくしゃりと乱す顔に、見惚れた。

「湯ももう少しで貯まるから」

 バスルームの扉を細く開いて中を覗き込むと、振り返って額に軽くキスをする。

「ん…ありがと」
「ああ。じゃあ俺はその間、リビングで煙草一本吸って来るわ」
「分かっ…た」
「それとも、」

 俺に脱がされたい、とか?

 言葉を紡ぎ終えた唇が、再び不敵に歪む。
 今夜はいったい、何度シカマルに見惚れたら良いんだろう。心臓が、悲鳴をあげそう。







 照れたお前に背中を押されて、笑いを堪えたままサニタリーを後にする。
 ったく、可愛い奴。

 リビングへ戻り、ソファに腰をおろすとジャケットを脱いで、ポケットから取り出した煙草に火を点けた。
 近付けた掌から、さっきまで触れていたお前の甘い香りが漂って、燻る匂いに混じるその記憶に、ひそやかに翻弄される。
 もうすぐ、何も隔てるもののない肌と皮膚とが触れ合うことは確定事項だというのに、その短い待ち時間すらもどかしく思えて。肺の中に溜まった煙を一気に吐き出すと、まだまだ長い吸い差しを、灰皿の上で無遠慮に揉み消した。

 バスルームから聞こえていたシャワーの音が消える。
 暖気のために注いでいたお湯を止めたということは、彼女はもうバスタブに身を横たえているのだろう。

「そろそろ行くか」

 小さく独り言を吐くと、温かい湯船の中で、ゆるりと表情を崩す彼女を思い浮かべて、自然に口許が緩む。

 きっと俺が入って行けば、恥ずかしがって白い肌を隠そうとすんだろう。
 滅多に照れたりしない彼女のそんな表情は貴重だから、こうしてたまには少し強引になるのを止められない。
 ついついからかいたくなる。

 さっき俺を追い出したお前も、なかなか良い表情で(素直に部屋から出るのが惜しいと思えるほどだった)。思い出すとどうしようもなく緩む口許を掌で押さえて、ソファから立ち上がる。
 開いたカーテンの向こう、部屋の明かりを反射した窓ガラスには、だらし無く頬の弛んだ男の姿。
 こんな所で一人にやけてるなんて、俺…ちょっとやべえかも。
 でも、全部お前のせいだから。

 本当は、仕事で疲れているお前を家まで送って、そのまま帰るつもりでいたのに。
 いや。逢えばきっと、こうなる事は分かってた。
 俺を微笑ませるのも、愛おしさでどうしようもない気持ちにさせるのも、全部お前が可愛過ぎる所為だから。

 バスルームまでの数歩の距離、顔の筋肉を引き締めるのに必死だった。







 コツコツ。
 バスルームのドアを外からノックする音に、うとうとしかけていた顔をあげた。

「はーい」
「入んぞ?」

 ドアの向こうから低い声が聞こえて、無意識に身構える。適温のお湯に溶けそうになっていた身体が、びくりと一瞬で緊張している。
 返事を返そうと首だけを入口に向けて、口を開きかけたら、すっと押された扉の隙間から、冷えた空気が忍び込む。
 室内をやわらかく包んでいた湯気が少し晴れて、シカマルの綺麗な筋肉に覆われた身体が見えた。

「……っ!」

 腰に巻かれたタオルのすぐ上、浮き立つ腰骨のラインが堪らなく艶っぽい。
 微かに透けて見えるきれいな腹筋、適度な厚みの胸、そこから繋がる首筋には鎖骨が浮き出して。随分高い位置にある顔では、やっぱり愛おしいものを見つめるように、いつもは鋭い瞳が限りなく優しく緩んで。
 下から見上げている所為で、高い鼻と睫毛が頬に影を落とす。
 自らの身体を隠すのもすっかり忘れてしまうほど、魅力的なシカマルの姿に見惚れた。

「すげえ、イイ眺め」

 見下ろすシカマルにニヤリと笑われるまで、自分が観察されていることに気付きもしないで。
 慌てて胸元を隠そうと動かした両腕は、素早くシカマルに阻まれる。

「シカ…」
「今更隠しても遅ぇって」

 バスルームの不自然なくらいに明るい照明の下で、無色透明の水膜は確かになんの意味もなさない(入浴剤でも入れておくんだった、なんて思ってももう遅い)。
 立てた両膝の方へ出来るだけ胸を近付けて、縮こまるような体勢を取ることくらいしか、私のとれる方法はなかった。

「…でも、」
「んだよ?」
 もっと良く見せろっつうの。

 口の端を歪めるシカマルには、有無を言わせぬ空気があって、抵抗する気力を失う。
 片手で両腕を拘束したままかかり湯をして、私の後ろへ(膝に胸を近付けたせいで、背中の側にスペースが出来ていた)滑り込むシカマルを、呆然と眺めるしかできなくて。

「もう、温まった?」
「ん…」

 お湯ですっかりほぐれた体よりも少しだけ低い体温が、背中から私を包み込む。
 波立って震えている水面下で、シカマルの腕が私の腰を抱き締める。
 肌と肌の間にある水分は、空気中での接触よりももっとダイレクトに触覚を刺激するらしい。心地よい温度のお湯に包まれて、ふたりの身体が境界線を無くして行くような、不思議な感覚が私の中を満たす。

「後で、さ」
 俺が身体洗ってやるよ。

 顎に乗るシカマルの頭の重みも、背中で感じる彼の身体の感触も、耳元で囁かれる声も。頭の中をとろけさせそうな幸福感の象徴で。

「じゃあ、シカマルの事は私が」
「別に良いって。お前、疲れてんだから」

 言いながら首筋に唇を押し当てるシカマルに
 溺れてしまいそうだった。







 バスルームの扉を開けた瞬間、飛び込んできた光景に目が眩んだ。
 白い肌と、薄桃色に上気した頬。なめらかな曲線を描く身体のラインと、とろりと潤んだ視線。
 少しずつ俺の身体の上を這うようにあがってくる双眸に、浮かぶのは欲情だろうか?
 薄く開いた唇に、すぐさま噛みつきたくなる。

 自分が見られている事にも気付かず、無防備に俺の観察を続けている視線に、つい笑みがこぼれた。
 その表情、やっぱワザとか?
 いや。今更身体を隠そうとしてるってことは、無意識…。

 両腕を拘束したままバスタブに滑り込み、背中から細い身体を抱き締めると、しっとりと馴染む身体から溢れた幸福感に眩暈がする。
 括れた腰とは対照的に適度なボリュームのある胸も、細い首筋に絡みつくおくれ毛も、小さく漏れる可愛い声も。お前の何もかもが、頭の芯を痺れさせて。
 このままじっと触れ合っているだけで、心の中にある言葉にならない想いが細胞を伝って交わり合うような、そんな気がした。
 今すぐ欲しいと思うのは、本能からの指令を満たしたいなんていう単純なものではなくて。
 大切にしたい、労わりたい。でも、壊してしまいたい。
 滾る身体とは対極の思考が、脳内を駆け巡っている。

 男の身体ってのは、ホントめんどくせぇ。


「シカマル…何だか、のぼせそう」

 顎を仰け反らせ、小さな頭が俺の肩に倒れてくる。温かさにとろけてしまったお前の表情が、情動を刺激したのは仕方のないこと。
 唇を軽く塞ぐと、肩を抱いて一緒に立ち上がる。
 正面から抱き締め合うと、触れ合った胸同士の間で、昂る鼓動がシンクロして。

「なあ、」
「ん…なに?」

 上目遣いの瞳に吸い込まれそうで、余りの愛おしさに嘔吐感が押し寄せる。
 今にもとろけて崩れそうな表情を見つめ、こつんと額をぶつけて。

 もう一度キスをすると

 額を合わせたまま

 そっと瞳を覗きこんだ――




(このままここでひとつになるってのはどう?)
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