天然ドラマチック

 車内を満たす音楽は、しっとりと肌に沁み入る。
 気付かれぬように隣を盗み見るたびに、漏れそうなため息を必死で飲み込んだ。
 前を向き軽く唇を閉じた横顔に夜の光が反射して、整った顔立ちを陰影が彩る。
 運転をする時と、パソコンに向き合う時だけに掛けるシカマルの眼鏡姿。レンズの奥の視線はやわらかく緩んで、彼の持つ静かで知的な雰囲気をさらに引き立てていた。

「何見てんだよ?」
「ん……シカマルの眼鏡掛けてるとこ、」
 好きだなーと、思って。

 不用意な問いかけに、思わず本心が溢れだす。
 滅多に見られないこの姿は、貴重だから。

「くっ。お前さ、」
「なに?」
「ったく……さっきから」

 ぐいっ、肩を引き寄せられて、視線は前に定めたままのシカマルが耳元に唇を押し当てる。咽喉の奥から零れる笑い声で、耳の奥の粘膜がゆらりとふるえた。

(俺の事、煽り過ぎ)

 耳朶に触れる熱い唇から漏れた声は、ひたすらに甘くて。途端に、濃密な空気が狭い室内を満たし始める。

「……っ!!」
「それって、ワザと?」
「違っ」

 肩に置かれた手は頭の上へ移動され、一瞬だけ優しい瞳が私を捉える。
 髪を軽く撫でながら身体ごと前へ向き直ったシカマルは、もういつもの空気に戻っていた。それが少し、寂しい。

「分かってるっつうの」
「だよね」
「ああ。でも…」
 今夜は、寝れねぇ覚悟しといて――







 助手席から感じる視線が、快い。
 流れるピアノのメロディに乗せて、無意識でハミングしているお前の声に、こっそり聞き惚れた。

「で、晩飯は食った?」
「ん。社内で軽く、ね。こんな時間に食べたら、眠れなくなるし」
「りょーかい。じゃ、このまま帰んぞ」

 どうせ、今夜はおとなしく寝かしてなんてやれねぇんだろうけど(全部、お前の所為だから)。
 こくり、頷いた姿を横目に見ながら、唇を緩やかに歪ませて、心の中だけで軽く微笑む。そんな俺の欲望を滲ませた思考など、お前は全然気付いていないらしい。

「でも、明日の食材が…冷蔵庫、何か入ってたかな」

 俺の思惑とは全然別の所で、首を捻っている仕草に思わず笑い声が漏れた。

「シカマル…どうして笑うの?」
「いや、別に。明日は俺も休みだし、外に飯食いに出るか」
「そうだね、偶にはいいかも」

 繋いだ掌の中で、ぎゅっと指を絡めていると、それだけで胸の奥にやわらかいものが満ちて行く。
 同じように握り返してくる細い指の感触が、ただ接触している感覚以上の何かを心に伝えるようで。
 鳥肌の立ちそうな愛しさが、じわりと末梢から身体中に広がった。

 家に着いたら、
 寝室に直行…ってな――







「到着しましたよ、お嬢さん」

 いつの間に眠ってしまったんだろう、暖まった車内に入り込む冷気と、掠れた甘い響きに、重たい瞼を開く。目の前には、見慣れた風景が広がっていた。

「ごめんね、寝ちゃってた」
「気にすんな。そんだけ疲れてんだろ?」
「ん…」

 屈み込んで私を見下ろしているシカマルの目が、レンズの向こう側でやわらかい孤を描く。

「ほら」

 助手席のドアを支えながら、差し延べられる大きな掌へそっと自分の手を預ける。
 浅い眠りの余韻を残し、朦朧とした頭の中に、後部席に置いたはずのバッグの存在が思い浮かんだ。
 軽く後ろを振り返るだけで、シカマルは私の思考を読み取って、既に彼の肩に掛けられている荷物を指差す。

「ありが……」

 微笑んで立ち上がろうとしたら、ドアから頭だけを差し入れたシカマルと、額がこつんと触れて。そのまま、どちらからともなく吸い寄せられるように唇を重ねた。

 一瞬だけ触れてすぐに離れたやわらかい感触を、焦がれるように互いの視線が絡まる。薄く唇を開いたまま、真っ黒の瞳を見つめたら、シカマルの口からは吐息のような淡いため息がこぼれる。


「どうか…した?」

 ため息を吐くなんて解せなくて問い掛けると、シカマルは私の口を、もう一度素早く塞いで。瞳を交わらせたまま困ったように眉根を寄せると、さっきよりもっと深いため息を漏らす。

「お前さ…」
「…ん」
「いま自分がどんな顔してんのか、分かってんの?」
「寝起きだから、変…かな?」

 シカマルが余りにも切なげに眉を顰めるから、胸の奥がきゅっ、と締め付けられる。

「変じゃねぇっつうの」
「じゃあ、なに?」

 ふわりと脱力したシカマルの頭が、肩にこつんと降りて来て、シャープな顎の形を知覚したのと同時に、耳たぶに熱い吐息がかかる。

「こんな近くでそんな顔…」
 誘ってるようにしか見えねぇんだけど。

 ぞくぞくするような掠れた甘い声に、身体から力が抜けた。

「シカ…でも、」

 はあー……。
 ため息が車内の闇に溶けて、シカマルの両腕はぎゅっと背中を抱き締める。

「違ぇとは言わせねぇから」

 首筋に触れる唇の、言葉に伴う小さな動きが、私から言語を奪う。
 返事の代わりにそっと広い背中に両手を回すと、思い切りきつく抱き締めた。







「部屋、戻ろうか」

 お前の小さな声が聞こえたのは、抱き締めあってから約3分後。帰宅途中の数十分の間に温められていた室内は、開きっ放しのドアのせいですっかり冷え切っている。
 でも、そんなことは全く気にならない位に、お前の感触と香りに夢中だった。

「そう、だな」
「うん。シカマル、すっかり冷えちゃったね?」
「お前も、な」

 埋めていた細い肩から顔を上げると、微笑み合って。一度だけ、額に軽く触れるキスを落とす。

「さ、行きますか」
「うん」

 バタン、と重たいドアを閉じて、キーをロックすると、再び掌を差し出す。
 素直に伸びてきた手を引き寄せて、指を絡めたままポケットに突っ込む。

「あったかい」
「続きは部屋で…な」

 無言で頷くお前の顔は、街燈の淡い光を受けて。眩暈がするほどのキレイな陰影に彩られていた。







 カチャリ、鍵を開けて入った真っ暗な部屋で、明かりを点ける前に繋いだ手を強く引かれる。
 バランスを崩した私は、シカマルの胸に倒れ込む。大好きな香りが鼻腔の奥いっぱいに広がって、くらくらと頭の芯が痺れ始める。
 どさり、鞄をフロアに落とす音が聞こえたと思ったら、暗闇で痛いほどに抱き締められた。
 視覚の塞がれた世界で、互いの零す呼吸音と全身で感じる体温が、心を少しずつほどいていく。

「シカ……?」
「もうちっとだけ、な」

 肯定の意思表示に、背伸びしてシカマルの唇を塞いだら、長い指が髪の隙間に差し込まれる。触れている唇よりも低い体温に、肩がぴくりと揺れた。

 パチリ、後ろ手にスイッチを押すと、急に明るくなった視界の中、驚くほど艶っぽい表情のシカマルが目に入って、思わず目を細める。
 そんな顔されると、眩暈がしそう。

「お前、また…」
「え?」
「んな顔されっと、堪んねぇって」
「それを言うなら、」

 するり、シカマルの頬を掌で撫でながら。愛おしそうに私を見下ろす双眸を、そっと見上げた。

「ん?」
「シカマルの顔だって…」
 色っぽ過ぎて堪らないよ――

 言い終わるか終らないかのタイミングで、ふわりと抱きあげられる。履いていたヒールはするり、簡単に脱げて、ポーチに落ちると硬質の音を響かせた。
 落ちないようにしっかりシカマルの首に両腕を巻きつけて、閉じられた薄い唇を見つめる。

「シカ…ちょっ、」

 迷いもなく彼の進む先は、寝室?
 でも、ちょっと待って。私まだ化粧が…
 朝からこの時間まで、薄い膜で覆われていた肌は、微かに悲鳴を上げているから。
 だから、ちょっと待って。

 とすん、ベッドに下ろされる。
 片手で眼鏡を外したシカマルは、サイドテーブルに手を伸ばして。眼鏡を置くのと同時にランプのスイッチをひねった。

「シカ…待って」
「…なんで?」

 軽く押されただけで、私の体はベッドに沈む。
 ふわりと覆い被さって来る大きな身体へ、必死で腕を伸ばして距離をとる。

「ま、まだ化粧落としてないし」
「……」
「先に、せめて顔だけでも…」

 洗わせて。と、言葉を続ける前に、もう抱きかかえられていた。


「じゃ、先に風呂な」
「え…一緒に、ってこと?」

 見上げた視界いっぱいに、口の端を歪めたシカマルの綺麗な顔。
 そんな表情を見せられたら、抵抗する気持ちなんて欠片もなくなってしまう。


「トーゼン、だろ?」


 言葉を紡ぎ出した口元が

 不敵に歪むさまにすら

 どうしようもなく見惚れた――




(君となら本能しかしらないけものになってもいいよ)
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