瞑想

 あまりこういう場面は好きになれないな、と感じる場面に俺はしばしば巻き込まれる。例外なく、ほぼ毎日。
 好きになれないのに巻き込まれるのは、もしかしたら順番が逆なのかもしれない。巻き込まれるから、好きになれない。
 たとえば、今がまさにそうだ――
 おはようのかわりに「とてもきれいな黒髪だ」とキメ顔で言って彼女が、ニヤリと笑う。恥ずかしくて俯く俺の顔を覗き見ながら笑う。俺の声を真似た低めの響きが鼻につく。鼻につくのに印象的な声。何度、いったいこの先何度このシーンを繰り返したら彼女は気がすむのだろう。
 無言を続ければ、また響く彼女の声。

「とても、きれいな 黒髪だ」

 ああ、言ったよ。言ったさ俺はずいぶん前にそのセリフを確かに使った。羞恥心を感じるよりも早く、脳のフィルターを通す前に、脊髄反射的に言ったよ。言った直後に後悔したけどな。後悔しても遅いけど。だいたい後悔ってのは後の祭りだけど。ああ、こういう場面はあまり好きになれない。

「………」
「きれいな、黒髪」

 いつの間にか恒例の挨拶文句となった一言を吐きながら目の前でほほえむ意地悪できれいな彼女の顔になかば見惚れながらジャンは思った。ああ、やっぱり。こんな場面は好きになれない。けど、彼女のわざとらしい低めの声は嫌いじゃない。

「いい加減にしろよ」
「それ、お願い?命令?」
「どっちかっつうと、 お願い、だな」
「人様にお願いするのにその言いぐさはないんじゃないかなあ、ジャン」

 人を喰ったように、心底俺をバカにしたように持ち上げられる薄い口角のラインが美しい。美しいなんて思ってしまうのも癪だけれど、事実彼女のくちびるは美しいのだから仕方ない。

「いい加減に、して…くださ」

 って、なんで俺が下手に出にゃならんのだ納得いかねえことこの上ない。いい加減にするのは卑屈になっている俺のほうだバカ。いい加減にしろ俺。

「聞こえなーい」
「………こら」
「ん?」
「ふざけんなばか」
「なになにそれもっと言ってくれってこと?ジャンってばまさかのドエムですかやだキモいー」

 楽しげに彼女のくちびるが歪む。
 意地悪な表情をすればするほどに、彼女の美しさが際立ってみえるのは気のせいだろうか。本質的に歪んだ人間が、本質をあらわにするからこそ美しく見える、とか、そういうことかもしれない。半分は負け惜しみだけど。自分でも何言ってるかわかんねえけど。

「んな訳ねーだろ」

 拗ねぎみにそっぽを向けば、彼女が身をかがめて顔を覗きこむから胸がいたくなった。
 俺からわずか数十センチの距離に彼女の髪がある。ブラウンのきれいな髪。薄いくちびる。長い睫毛。細い肩、白いうなじ。

「ジャーン」
「んだよ」
「きれいな黒髪だ…な?」
「俺は黒髪じゃねえよバカ」

 頭に浮かんだことを何のフィルターも介さず口にするくらいガキだった頃の俺が、ミカサに対して発した一言。忘れてしまうくらい遠い記憶なのに、彼女が口走るたび鮮明に思い出す。「きれいな黒髪だ」。何の臆面もなく口にしたセリフ。思い出すけれど、思い出すのはその表面的な言葉だけで、あの時の気持ちは思い出せない。
 おはようのかわりに「きれいな黒髪だ」と言って俺をからかう彼女の顔はいつもびっくりするくらいきれいだ。きれいだから。彼女がきれいだから、最初はからかわれて赤面していたはずが、なぜか彼女の近さにざわざわして。羞恥心よりもずっと先に、彼女の肌の薄さや、微かに香る髪の匂いのせいで顔が赤らむ。
 彼女のせいで頬が染まる。皮膚の内側が熱を持つ。
 
「ジャン」
「ん?」
「顔、赤い」
「ん」

 俺の顔がいま赤いのだとしたら、赤面しているのだとしたら。そうやって皮膚の内側が熱を持つようになったのは過去の一言をネタにされたことによる羞恥心のせいではなくて。からかわれた恥ずかしさが原因じゃなくて。なによりも彼女のせいだ。彼女のせいで俺は顔を赤らめている。そのことにきっと彼女は気づいていない。

「もっと赤くなれジャン」
「は?」
「ならないと面白くないじゃんジャン」
「人の名前をふざけた語尾みたいに使うな」
「ほらほらミカサこっちみてる」

 たしかにミカサはきれいだ。ミカサはきれいだし、ミカサの黒髪もきれいだ。けれど、彼女のブラウンの髪はミカサよりずっと、もっときれいだ。胸がいたくなるくらいにきれいだなんて、俺は誰にも言わない。
 だって、
 もう。
 からかわれるのは嫌だから。
 からかえないくらい真剣だから。

「黙れ」
「また命令形ですかムカつく」
「いい加減にしねえと、」
「なに」
「うなじ、噛むぞ」

 いつかきっと、まじめな顔をして君に。きれいな髪だね、って告げるその日まで。そっと目を伏せる。
 そのときに君は、いったいどんな顔をするんだろう。

「…さらっとそういうこと言うのやめて」
「それ、お願い?命令?」
「どっちかと言わなくても、命令です」
「噛まれたい、ってか」
「バカジャン!」

 伏せた目を上げれば、ほんのり頬を染めた君の顔が見えたから。
 それだけで、いまの俺は満足なんだ。
 あれ、こういう場面はけっこうすきかもしれない。いや、だいぶ好きだ。そう思ってジャンは再び目を閉じた。


瞑 想
(閉じた瞼へ落つる)
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2013.06.01
ジャンをからかいたい病 発症中
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