弱い大人向けの絵本

 じりじりと照り付ける太陽の熱に負けて、笹塚はジャケットを脱ぐとネクタイをすこし緩める。
 爽やかとはお世辞にも言い難い、じっとりと汗の滲む初夏。聞き込み途中の街角で、偶然彼女とすれ違った。
 黒い日傘をさして髪をなびかせる姿は、まわりの雑踏から浮き立ってみえる。アスファルトから立ち上るゆらめきのなかで、現実感のない姿が遠ざかっていく。


「………あ!」

 たいてい出会う時には彼女のほうが先に俺に気づいて、名前を呼びながら走り寄ってくる。なのに、今日にかぎって気付きもせずに通り過ぎるなんて。
 いまにも人ごみに消えてしまいそうな姿を見たら、考えるより先に声が出ていた。

「ちょ…っと」
「え、私?」

 独り言のように小さな俺の呟きを耳に留めて、数歩はなれた距離で彼女がゆっくりと振り返る。明るい色の髪がさらりと靡いて、かすかな甘い香りが風に乗った。
 そういえば。
 この匂いをすぐ近くで嗅いだのは、いつだったろう。忙しさにおされて、約束もなかなか交わせないまま、彼女に会うのはもう両手両足の指を折っても数えきれないくらいの日々を隔てた末に、やっと。かれこれ一ヶ月半ぶり、というところだろうか。
 そんなに、ながい、間。
 放っておいたのか、俺は。彼女を。

 目があった。
 気がしたけれど、彼女は日傘をすこし傾けただけで動かない。見知らぬものを見るような、曖昧な視線が俺を捉える。
 だから俺も、動けなかった。

「センパーイ、どうかしたんすか?」
「………いや」

 記憶を振り返れば、放っておいただけではなくて連絡すらまともにしていない。メールも、電話も。忘れられても仕方がないくらい、ながい、ながい間。
 若い子とおじさんでは、きっと時間の流れが違うのだ。なんて、言い訳にもならないけれど。

「あっ!あれはいつぞやのコンビニ前で遭遇した超絶美少女じゃ」
「うるさいぞ」

 すみません、と悪びれもせずうなだれて見せる石垣を横目に、笹塚の頭のなかでは良くない想像ばかりが飛び交っている。
 潮時だ、と思っているのかもしれない。とっくに潮時なんて通りすぎてしまったのかもしれない、彼女のなかでは。
 記憶のなかよりもすこし伸びた髪が、隔てたときを思わせながら、ぬるい風に揺れた。路上に落ちた紙片が巻きあがってすぐに見えなくなる。あのちっぽけな紙切れのように、俺は。
 一瞬でいろんなことを考えすぎて、こめかみがきりり、と傷んだ。それに気付いたのか、珍しく石垣は声を潜める。

「センパイ、怖い顔…」
「元から…こんな顔だ」
「にしても、二次元から飛び出してきたみたいな子ですよねェ」
「…………」

 お前の偏りまくった基準で彼女を計るな、と思った。できればもう見るな、とも。

「勘違いしないで下さいよセンパイ」
「……なに」
「さっきのは、最高級の褒め言葉ですからね。俺的に」

 二次元から飛びだした少女=絶世の美少女ってことか。石垣らしい。さすが美少女フィギュアおたく。

「だから、怖い顔やめてくださいよー」
「気のせいだ」
「嘘だ。怒ってるんでしょセンパイ」

 怒ってなどいない。それよりも別のことが気になっていた。俺の顔がいつもより怖く見えるとしたらそのせいだ。
 彼女の目に映らなかったのは、もしかしたら会えない日々の間に俺の存在が彼女の中から薄れてしまったからではないか。歳の離れた忙しいおじさんよりも、いつも傍にいてくれる同世代の男のほうが良くなったのではないか。
 そんなネガティブな考えが次から次へと脳裏を掠めて、くわえ煙草を揉み消しながら、笹塚はそっと苦虫を噛み潰した。
 彼女は数歩はなれた距離で立ち止まったまま、首をかしげている。そういえば。彼女はあまり眼がよくないのだった。裸眼の視力がよくないくせに、眼鏡は似合わないからと、頑なにかけようとしない頑固さも嫌いではないけれど、彼女ならばどんな格好をしても可愛いに決まっている。
 そう。彼女は、可愛い。

「今日こそちゃんと紹介してくださいよー」
「………断る」
「またソレっスか。先輩のケチ」

 断る、というよりも、俺にそんな権利はもともとないんじゃないか、と思った。彼氏のつもりでいるのは俺のほうだけで、彼女はただの年上の知人程度にしか思っていないのではないか。すれ違っても気付かないくらいなのだから。
 自分で思い浮かべたくせに、その考えに胸がちりちりと痛む。すれ違っても、気付かれなかった。
 俺は彼女の何だ?

「お前、一人で続き…やれ」

 もやもやと渦巻く嫌悪感を、まるで石垣にぶつけているみたいだ。やつあたり同然に、口調が厳しくなる自分に苦笑した。

「え、命令っすか?」
「……たまには、聞いとけ」

 俺は、彼女の、何だ?
 確かめる術も思い付かないのに、気持ちばかりが急いている。このまま通りすぎて、はいさようなら、なんてとても無理だと思った。そんな簡単に諦めきれるくらいなら、そもそも始めてはいけない関係だった。だけど始めてしまった。
 だから、

「あの子のことになると 先輩、人が変わったみたいになりますよね」

 捨て台詞を残して渋々立ち去る石垣を見送りもせず、あわてて彼女の傍へ駆け寄った。
 確かに石垣の言うとおりだ。彼女のことになると俺はいつも、調子を狂わされる。冷静さもローテンションも影をひそめて、この慌てぶり。まるで恋に夢中な思春期の少年みたいに。日傘越しに眩しげに天を仰ぐ彼女から、視線をはずせない。きびすを返す際に揺れる髪から、視線をはずせない。

「待って」

 久しぶりに近くで見たその顔には、困惑を映すように、眉間に薄くシワが刻まれている。やはり、さっきの悪い予感は気のせいではないのかもしれない。怯みかけた足が、歩みを緩める。

「あっ!ささ、笹塚さんっ!」

 なのに駆け寄った彼女が余りに嬉しそうな顔を見せるから、悪い予感なんて一瞬ですべて消え去った。彼女の笑顔ですっかり上書きされる。

「ああ、」
「会えてよかった」
「…なんで」
「内緒、です」

 ナイショ、ね。
 まあ、いいけど。さっきまでの焦燥感に比べたら、なんでも受け入れられそうな気がするから。

「なんて、ね。どちらにしろ今日笹塚さんに会いに行くつもりだったんですよ。おめでとうございます」
「え、」
「お誕生日」
「…………あ、俺の?」
「他に誰がいるんですか」
「……すっかり忘れてた。ありがとな」
「プレゼント、買いにいく途中でした」

 やわらかく笑う彼女がいれば、欲しいものなんて他にはなにもない、と思った。だって今の俺は、これまでのどの誕生日よりも満たされている。

「久しぶり…だな」
「梅雨、明けちゃいましたね」
「……ああ」

 雨続きの鬱陶しい季節がやっと過ぎたと思ったら、もう真夏のような暑さなのだから、彼女の言葉がすこしくらい残念に聞こえるのも不思議じゃないのかもしれない。でも、彼女からは何となく別の意味を感じた。

「ちょっと残念、だなあ」

 ひとりごとみたいに呟きながら、彼女がくるりと日傘を回す。

「雨…好きなのか」
「私、口に出してました?」
「まあ、な」

 いや、あの、雨が好きというか、好きじゃないというか、えっと、あの…――急に慌てた表情を見せる可愛い子の頭をくしゃりと撫でる。

「雨、なあ」
「雨というか、正確には好きなのは雨そのものじゃなくて」

 雨のもつ風情は、俺もすきだ。
 彼女との始まりを思い出すから。

「知ってる」
「え、」
「なんて、な」
「びっくりした。笹塚さんと相合い傘してみたいなあって密かに切望してたのバレたかと思、」

 あっ!叫んで、言葉の途中で彼女が口ごもる。うっかり口を滑らせるところも、可愛い。それとも、もしかしたら俺が無意識で誘導尋問を展開してしまったのか。職業病もほどほどにしろよと思いつつ、彼女を見つめる。恥ずかしそうに俯いた頬が赤い。
 やっぱり、彼女は可愛い。
 自らのボキャブラリーの貧困さにうんざりするけど、可愛い、としか表現できないのだから仕方ない。
 くしゃくしゃと髪を撫でれば、ほんのり染まったままの顔が俺を見上げる。可愛い。
 彼女が可愛いくてどうしようもないから、今日はもう直帰してもいいかな。石垣、ごめん。


「……俺も、」
「え、もしかして 相合い傘?」
「そ……」
「したかったんですか?笹塚さんも?」

 驚いて見開かれる大きな目も、問いかけも無視して、強引に傘の柄を握った。


弱い大人向けの絵本

(とりあえず暑いからその中入れて)


「あの、笹塚さん」
「…ん?」
「さすがに、日傘で相合い傘ってのはどうかと思いますけど。周囲の視線的に」
「………誕生日プレゼント代わり、ってのは…ダメ?」


2012.08.03
ほんとは二年前の彼の誕生日にアップするつもりだった。笹塚さんはぴば@0721
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