そんなことは知らない
セバスチャン・ミカエリス。それが、彼の名前だった。
だけど私は、一度も彼を名前で呼んだことがない。ただの一度も。
こちらを向いて欲しいなと思った時には、彼は既に振り返っているし。喉が渇いたなと思えば、最適のタイミングで紅茶が現れる。
別に私の執事ではないのだから、仕えてくれる必要はないのに。気分や体調に合わせて極上の茶葉をセレクトされると、文句も言えなくなる。気配を察知する術も、相手の思考を読み取る力も、人間技ではないのが憎らしい(もともと彼は人間ではない訳だけれども)。
そうでなくても、彼は言葉の先を読む術におそろしく長けている。きっと属性が悪魔でなくても、かなり喰えない人間になっていたはずだ。
そんな男に対しての呼びかけは
ねえ。あなた。ちょっと。 意識をこちらに向けさせる為だけの、短い台詞で充分だったから。
でも、本当はそれが理由ではなくて。私がその名を呼ぼうとしない訳を、彼はきっと知っているのだ。腹の底で渦巻く、濁った想いを。
「ねえ」
「また、おねだりですか」
セバスチャンの口が、いびつに弧を描く。あなたにおねだりをするなんて真似、あの子にしか出来ないでしょう。だってあなたに命令できるのは、御主人様のシエル坊やだけなんだから。
「さあ、ね」
さらり。肌を撫でるのは、良く知るやわらかい布の感触。私が決して彼の名を呼ぼうとしないのと同じく、彼も滅多なことではその手袋を離さない。
肌と肌とを合わせることが、彼の美学に反するというのならば、何故こうして私の元を訪れるんだろうか。
黒曜石のような何処までも黒い髪が、闇に踊る。触れられた部分が熱を帯びているということは、やっぱり身体は"おねだり"をしていたのかも。
「人間というのは、いつの世も変わらないものですね」
変わらず愚かだ、と。そう言いたいのに違いない。でも蔑みの言葉に反して、ゆるやかに眇めた濃緋色の双眸は、そこらの馬鹿な男たちよりもずっと愛に溢れている。
「あなたたちもね」
かつて同名の男が祓魔師として名を馳せた。そんな宗教家がいた史実を、セバスチャンは知っているんだろうか。その名を負わせ、彼をこの世に縛り付けている少年は、人間にしてはなかなかウィットに富んでいる。と、私は思うのだけれど。自分の愚鈍さはともかくとして。
セバスチャンの指先が、なめらかにボタンを外していく。ひとつ、ふたつ。故意ではない触れ方に、胸の奥がじくじくと痛みはじめる。鎖骨をかすめ、肩をすべる指には体温がある。
「そう、かもしれませんね」
「お互いさまってこと」
愚かな人間の魂を喰らって、その身を繋ぐしかない存在。悪魔、というのがそういうものならば、愚かな人間よりももっと哀しい。
彼の重みが、重力とは別の意味で私を押し潰す。不思議だ。彼の指が温かいのは、その皮膚の下に私と同じように血液が流れているからで。彼に触れるまで、悪魔というものは何となくもっとつめたく冷えたものだと思っていた。
「生かされているのが我々ですから」
「でも、あなたを生かしているのは私じゃない」
ふ……。笑いとため息の間にあるような吐息。私の上で、彼が微かに眉を顰める。その表情は、これまでに幾度も見て来た果てる寸前の男たちによく似ている。
「それは、どうでしょう」
私たちは全く別の生き物なのに、こうして同じ言語を共有し、身体を交えては同じ快楽を貪り合う。数分後、私はきっと今よりも甘く浅い息を漏らして。彼はその上で艶やかな黒髪を乱すのだ。
「だって、あなたはシエルに…」
行為は一緒でも、快楽のもたらす意味が彼と私とでは違うんだろうか。セバスチャンを前にすれば、浮かんでくるのは疑問ばかり。こめかみの奥、鈍い痛みが拡がる。
見上げた視界、そっと人差し指を立てたセバスチャンの姿。
ベッドで他の男の名を呼ぶのは、反則ですよ。耳たぶを撫でる低い声が、心を握りつぶした。
そんなことは知らないお喋りはそのくらいにして、啼いてください。
坊ちゃんに頂いた名前だから、呼びたくないなんて。貴女はどこまで嫉妬深いんですか?でもその感情こそが、私にとっては限りなく美味なのですが――