わるいお伽話

 部屋からはまだ嗅ぎ馴れない独特の香りが漂っていた。この香りがする場所に日常的に出入りしている状態は、少し前の自分からしてみればかなり驚くべきことだ。

「では、忙しいので私は失礼します」

 香りと一緒に劉にもじわじわと私のなかを侵食されているような錯覚すら覚えて、ぶるり、身震いをした。

「おや、嘘はいけないよ?」
「嘘などついておりません」

 繊細な細工の中国煙管を口にくわえて、膝の上のチャイナドレスの美女と戯れている男。これが私の今のご主人様、劉だ。なぜご主人様なのに呼び捨てで呼んでいるのかには、長い経緯があるので割愛する。

「そうやってまた嘘を重ねるのかい」
「いいえ」

 糸目を少しも開かないその顔はたしかに端正だけれど、笑顔のままで彼の紡ぐ台詞はいつもどこか嘘臭い。彼の裏の顔を知るずっと前から、感じていたことだ。

「本当に我の姫は嘘が好きだね」

 一部下にすぎない私のことを彼がなぜ「姫」などと呼ぶのかについても面倒臭い経緯があるのでここでは割愛する。
 それにしても、嘘、嘘ってさっきからなんなのだろう。嘘臭いというならばむしろ劉のほうなのに。私はただ、忙しいので失礼しますと部屋を出ようとしただけだ。

「劉……」
「なんだい?」
「会話が成り立っていません」
「そうかな?我は困っていないけど」
「根拠をお教えくださいませんか」
「………なんの?」

 今まで私たちは一体なんの話をしていたというのだろう。またこの男にのらりくらりとはぐらかされて、勝手に腹を立てた末に暖簾より糠より手応えのない男にはなにを話しても無駄だと諦めて、それを表にも出せずに一人で悶々と焦れるいつものパターンになりそうな予感がひしひしとする。
 とぼけた表情の糸目男を睨んだところできっとあの瞳にはなにも映らないのだし。そのうえ劉は先程からずっと膝の上の藍猫を慈しむことに夢中ではないか。

「もう、結構です」

 阿片で脳内の大半が腐って燻っているようなヒトにこれ以上付き合っているのはバカバカしい。それ以前に、劉がこうして四六時中享楽主義を謳歌している皺寄せはすべて貿易会社「崑崙」社員の私たちにかかってくるのだ。つまり、今日中にやり終えねばならないことが山積み。

「ほら。そうやってまた嘘をつく」
「嘘…?」
「我に嘘は効かないよ」

 ――嘘。
 嘘という言葉は適当かどうかわからない。でもたしかに劉のいうとおり、本音では「もう結構」なんてまったく思っていなかった。仕事が山積みなのは事実だけれど、ここから早く立ち去りたいというのは本音ではない。それを「嘘」と呼んでいるのならば、きっと彼はぜんぶ見抜いているのだろう。あの似非臭い笑顔を貼り付けた裏側の、意外にも侮れない本性で。

「覚えていらっしゃるのなら、とぼけるのはやめてください」

 劉の長い指が藍猫の頬を優雅に撫でてはなれる。まるで名前通り仔猫のように気持ち良さそうに目を細める彼女を横目で捉えてそっと唇を噛んだ。
 どうしてこの人、なんだろう。
 ここにいたいのに、ここにいたくない。矛盾する微妙な感情をいくら解きほぐそうとしても、縺れてしまった糸のようにほどけなかった。

「いいのかい?そんなことを言って」
「都合がわるくなればそれですか?」

 ただ私を拾ってくれた上司。優しくしてくれるのは私にだけ、ではないことも知っているし、最初に見せていた表の顔とはまったく違う一面があるのも知ってしまった。いつもの私ならば、いちばん警戒するべき人種。
 まるで見せつけるようにいつも女を侍らせている姿も、膝の上に乗せた藍猫をやさしく抱きしめる姿も、キレイだからこそうんざりだ。うんざりなのに、つい劉の指が動く先を目で追って息が出来なくなる。残った僅かな力で吸い込んだ空気が、肺に出来た穴から全部こぼれおちてしまうような、変な苦しさ。こんな気持ちにつける名前を私は一つしか知らない。

「それってなんだい?」
「またとぼけるのですか」

 そうなのだ、どうしようもないくらい藍猫が羨ましい。ただそれだけのことに随分前から捕われている。そんな自分が憎らしくなるくらいに。
 どんなに胡散臭かろうが掴みどころがなかろうが私はこの男が好きなのだ。悔しいけれど、気が付けば好きになっていた。

「我はとぼけてなんていないよ」
「またそうやって、」

 ふたりの美しい姿が目に入らないように目を伏せる。劉の身に着ける上質な絹の上には、まるで陶器のようになめらかな藍猫の太腿。猫足のソファーの上に横たわる劉の完璧な笑顔、しなやかな仕草で煙管を構える姿も、しなだれかかる藍猫の背中のラインも、本当に絵に描かれたように美しい姿だ、と思ったら苦しくて堪らないのだ。

「分かるように言ってごらん」
「私を脅すのですか、ということです」
「脅すなんてとんでもない」
「……でも」
「我は逃げ場をなくした猫ほど憐れなものはないと思っただけさ」

 また何の話をしているのか分からなくなってきた。こうやっていつも煙に巻かれて、私はちっとも言いたいことを言わせてもらえない。
 もしも劉が好きなのだと私が告げたら、彼はどんな顔をするだろうか。いつもの似非臭い笑顔のままで、部下に慕われるなんて上司として光栄だよと受け流すんだろうか。それとも、少しは驚いた顔を見せてくれるだろうか。

「………」
「でも我の姫が追い詰められることをお望みならば」

 無言のまま藍猫がすとんと劉の膝から降りる。もしかしたら私には分からない二人だけの秘密の合図があるのかもしれない。そんな想像ですら私の胸を締め付ける。
 ぱたり、扉が閉じる音でやっと顔を上げたら、糸目の笑顔に捕まった。

「いくらでも追い詰めてあげるよ」

 苦しくて力を入れ過ぎたせいでこめかみがしくしくと痛い。劉のいつもの目が酷くやさしく見えるのは、都合のよい私の勘違いだろうか。さっきまで、私たちは「嘘」について話していただけなのに。

「ただし、我が一度捕まえたら二度とはなしてはやれないけどね」

 いつの間にかいなくなった藍猫のかわりに、ひょいとたやすく膝の上にのせられて。間近で見た劉の睫毛が意外にも長いなと気付いたら、なおさら眼が反らせなくなった。

「そんな赤い眼をして見つめられれば、我でなくても気付いてしまうよ」
「見つめてません」
「おや、まだ嘘をつく気かい?」
「嘘なんて……」

 藍猫にするように、そっと腰に腕を回されて近くに感じる嗅ぎ慣れない匂い。ふうっと煙を吐き出す劉の唇が見惚れるほどキレイなりんかくを描いている、それだけで胸がぎゅうっと締め付けられた。

「これじゃあいつまで経っても同じことの繰り返しのようだね」
「劉、のせいです」

 そっと煙管を置く小さな音。劉に良く似合う金細工からはなれる指の繊細な動きにも目を奪われて、いちいち息が止まりそうになる。
 でもそれよりもっと気になるのは、背中で感じるしなやかな胸筋。

「我のせい?」
「ええ。全部貴方のせいです」
「それは酷いなあ」
「劉はいつも、酷い」

 目をみて言うのに、ひどく消耗した。それを分かっているかのように相好を崩して、長い指で髪を撫でたりするのだ。酷い男。狡い男だと思うのに、こうされることを何よりも望んでいたような気にさせてしまう。だから、劉は狡い。
 私の気持ちに気付いていて、そんなやさしい仕草を見せるから、勝手に願望だけが膨らんでしまうじゃないか。

「だったら、我が責任を取らなくちゃならないんだろうね」
「………」

 顎を掬われて動けなくなる。劉の言葉の意味をさぐろうとした頭のなかが混乱で満たされる。せめて間近にある顔から何かを読み取ろうと必死になる。瞳さえ見えたら、何かがわかるかもしれないのに。
 縋る想いで見上げたら、はじめて開いた瞳の余りの透明感に吸い込まれそうになって。余計に劉のことが分からなくなった私の心臓は、すっかり壊れてしまった。



わるいお

我が普通に恋をするなんて、思ってもみなかったよ。

2010.01.28
我=わたし と読んで下さい。
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