どしゃ降りの恋の下にて

 勢いというのは怖いものだと自分の言動にダメ出しをしたい気分になっている私を、笹塚さんはただ黙って見つめている。
 男女が共にお風呂に入る意味を冷静に考えれば「一緒なら入ります」なんて良くも言えたものだと思うけれど、一度こぼれ落ちた台詞は取り消せないのだ。

「……っ!」
「…………」

 続く沈黙のなかで、笹塚さんはなにを考えているんだろう。動揺しているのは私だけだと思えば思うほど、息が苦しくなる。
 子供の戯れ言だと笹塚さんはこっそり笑っているんじゃないだろうか。だけど、勝手にあふれた言葉は決して嘘ではなく、悔しさ混じりの本心で。すみません冗談でした と、笑ってごまかすには、タイミングをすっかり逸している。

 温かいカップは、両手でぎゅっと握りしめていないと震えそうだった。口にした言葉を打ち消すために頭に浮かぶ言い訳は、どれもこれもわざとらしくて。自分の頭の稚拙さにいい加減うんざりしていたら、低い掠れ声が耳に届いた。

「……自惚れても イイの…かな」

 動揺も見せず、そっとカップをおろす笹塚さんの仕草があまりにも余裕に見えて、なおさら悔しい。その余裕のままに彼は私の両手のなかで震えているカップを受け取ってテーブルに何気なく置く。
 たった一瞬だけ触れて離れた指先に焦がれて、焦がれて、焦がれて、もっと触れていたいと胸が騒ぐ。なのに笹塚さんはいつものポーカーフェイス。それが大人の男の余裕なんだろうか。
 自惚れても良いの?なんて、決断を委ねる狡い問いで、私を試しているんだろうか。

「どういう意味、ですか?」
「……どういう、って…その」

 笹塚さんだって少しは動揺してくれればいいのに。私ばっかりなんて悔しい。でも、そうやって悔しいと感じること自体が大人と子供の差だと思った。

「笹塚さん」
「……ん?」

 優しい顔がすぐそばで私を見下ろしている。まっすぐに瞳を見つめたら、ゆっくり反らされた目が剥き出しの膝の上辺りにまとわりつく。彼の視線を感じた肌がぞわぞわと泡立つ気がした。
 あなたはいま、私の素肌を見て何も感じませんか。ただの子供にしか見えませんか。


「自惚れてください」
「……っ、でも……」

 じり、少しだけ彼のほうに近づけばソファの上で指先が触れる。
 まだすこし雨に濡れた色素の薄い髪が格好いい。いつもより濃くみえる前髪が頼りなげにぺたりと額にはりついて。半分隠れたその向こうで笹塚さんの目が、ゆらゆらと泳いでいるのに見惚れたまま。
 気が付けば、吸い寄せられるように自分から唇を重ねていた。

 かさついた感触。噎せかえる苦い香り。これは、笹塚さんのくちびるから感じる彼の煙草の匂い。

 いま――
 笹塚さんに、キスをしている。

「なっ……!」

 驚きとため息の混じり合った笹塚さんの呻きが、かすかに頬を掠める。
 唐突な自分の行為に驚きたいのは私のほうだ。驚いて、驚きすぎて。なのに嬉しくて、心臓が弾けそうで信じられない。
 いまにもふわりと浮き上がりそうなのに、この先どうすれば良いのかわからなくて、困惑と後悔と喜びと幸せと、自分のなかにあるすべての感情が最大限まで跳ねあがった上にぐちゃぐちゃに混ざり合う。その感覚に、正直、すこし吐きそうだった。
 でもこれで少しは彼も動揺してくれたかな、それとも、ストイックな彼としては呆れたっていうほうが正しいんだろうか、と意識の片隅で考えているうちに、ぐらり、視界が歪んだ。

 背中にソファの柔らかい感触を感じながら見上げれば、まっすぐに私を見下ろす笹塚さんの目。

「…え、あの……笹」

 体重をかけないように私に跨がった笹塚さんの姿に、疑問の言葉を飲み込んだ。
 こんな真剣な顔、見たことない。

 笹塚さんはいつも口数が少なくて、限られた言葉の奥にたくさんの思考をひそませているヒトだと思う。
 無言のままの氾濫した瞳に、私が映る。笹塚さんの目に、私だけが映っている。彼はいま、なにを考えているんだろう。それが分からなくて、息を詰めたままソファをぎゅっと握りしめた。

 怯えた表情に見えたのか、子供をあやすように優しく私の髪を梳いた指が顎の先で止まって。意外に長い睫毛がゆっくり揺れ、明るい色の瞳が愛おしいものを見るときみたいにすうっと細まる。
 うまく呼吸もできないまま眼を閉じたら、さっき自分がしたのよりもずっと荒々しい口づけが降ってきて。
 なぜ笹塚さんはこんなことをするんだろう、とか考える前にただ嬉しいと思った。
 また、キスをしている。キスをされている。
 笹塚さんの唇が私のそれに重なって、下唇を啄み、角度を変えて何度もなんども呼吸を奪う。

 ちゅ、と、耳を打つ、濡れた音。自分たちの舌やくちびるがたてた音を、敏感に耳が拾いあげる。唇が一瞬だけはなれるたびに響く小さな水音がいやらしい。
 ソファに預けた身体から力が抜けてゆく。なんでこんなに気持ちいいんだろう、笹塚さんは今までにこんなことをたくさんしてきたから?慣れているから?それとも、相手が笹塚さんだから?
 こんなに長いキスをしたのは初めてで。キスだけなのに、もう、苦しい。

「……っ、」
「…いや?」

 そう尋ねる笹塚さんの声はおそろしく優しくて、その低い響きが大好きで胸の奥でなにかが爆ぜる。
 いやじゃない、息があがって苦しいだけ。声がうまく出せなくて、代わりに笹塚さんの首に手を伸ばすと縋り付く。目頭がぎゅっと熱くなって、何も考えられない。
 どくんどくん、心臓の音。
 体中熱いのに、ぞくぞくして。しゅる、シャツの上から脇腹を撫でられる音にも鼓膜が反応する。

 笹塚さんの長い指が器用にボタンをすべり、すっかり着ているものを脱がされたころには、主導権はとっくに彼のものだった。





 すこしだけ開いたカーテンの隙間から、薄暗い外の光が差し込んでいる。雨音はまだ続いていた。

 ――やってしまった。

 キスだけじゃ止められなくて、結局行き着くところまで行ってしまった。だって彼女の服が、裾から覗く太腿の白さが、不意に触れたくちびるのやわらかさが、甘い声と吐息が、揃って俺を煽るから。

「自惚れてください……とか言われたら、勘違いもする よな……」

 外で手を繋いだときから、ずっと心臓は騒ぎっぱなしで、ドキドキしているのは走ったからなのか手を繋いでいるからなのかわからなくなっていた。私服をほめられて舞い上がって。頭んなかでは手を離すタイミングでぐるぐるして、本当はずっと離したくなくて。
 でも今になって考えれば、全力でほめちぎられるって逆に嘘臭いんじゃないのか?ただの社交辞令だったかもしれないのにそんなことに気づかない程テンパってたんだな、俺のバカ。今更気付いても遅いけど。

「後の祭り……か」

 テンパっているところに、一緒なら風呂入るとか意味深なことを言われるし、自惚れろとか言われるし。揚句、女の子からキスの先手を打たれて。その瞬間に理性なんてすべて吹っ飛んだ。

 そのあと自分がどうしたのかは、夢中だったせいか、ぼんやりとしか覚えていない。
 はっきり残っているのは抱きしめた華奢な身体の柔らかい感触と、みずみずしくて甘い香り。泣きそうに潤んだ瞳と、俺の名前を呼ぶ掠れた声。それらすべてを愛おしくて愛おしくて仕方ないと思った、自分自身のなかにある気持ち。

 隣で寝息を立てている彼女のぐったりとした顔を見つめて、寝転んだまま煙草に火をつける。嗅ぎ慣れた匂いが、すこしでも気持ちを落ち着けてくれたらと、願って。

 好きだとも伝えていないし、ましてや付き合っている訳でもない。表情や態度で気持ちが伝わるはずだと思えるほど楽観主義者でもない。それなのに抱いてしまって本当によかったんだろうか。

 ――やって、しまった…。

 そう反省する気持ちの一方で、彼女に拒まれなかった幸福感が胸を満たしている。
 彼女を、抱いた。

「抵抗しようと思ってたんなら、出来たはず……だよな?」

 いや?って聞いても嫌がらなかったし、リビングから寝室に移動するのも彼女は拒否しなかった。だから俺たちは今こうしてベッドに並んで寝そべっている訳だし。
 いくら逡巡しても、目覚めた彼女に何を言えばいいのかわからずに、困惑する。いきなり泣かれたらどうしよう。

 寝返りを打った彼女が無防備に俺の胸へとしがみつく、それでまた受け入れられた気分になる。

「……んっ」

 小さな呻きにどくり、胸が騒いだ。化粧の取れた顔はいつもより幼く見えて、改めて二人の歳の差を意識する。大学生、か。
 事に及びながら "初めてじゃないよな" と一瞬冷静な思考がよぎったのに、あんな艶っぽい表情を見せられたらもうダメで。あんな声で名前を呼ばれたら、とても途中でなんてやめられなかった。

「仕方ない……よな、」

 好きなんだから。いくつ歳が離れていようと、不釣り合いだろうと、彼女のことが 好き なのだ。肌を重ねて、隙間なく繋がって、俺のなかの空白を満たしてくれるのは彼女だとますます実感した。
 辻褄のあわないことをするのは得意じゃないけれど、ストイックだなんだって言われてても、所詮俺も男な訳で。惚れた女の子に隙を見せられるのには滅法弱い。
 って、事を終えてがっつり気まずいままタバコ吸って頭抱えてりゃ世話ないんだけど。

 笹塚は息を深く吸い込むと、彼女からそっと顔を背けて吐き出した。言葉にできないたくさんの本音や葛藤を、白い煙に混ぜて。
 雨音をバックに、焦げた煙草の先端がちりちりと音を立てている。


 流れる煙を眺めながら、笹塚がどうしようもない自問自答を繰り返していたら、彼女の掠れた声が聞こえた。

「…笹塚さん」
「起きた、か」

 一瞬、自分がどこにいるのかを見失ったように、彼女の視線は室内をさまよって。その後、俺の顔のうえで止まる。

「おはよう、ございます」
「………おはよう」

 照れ臭そうに「寝ちゃった」と呟いて、伏せられた睫毛が長い。汗ばんだ身体が冷えたのか、彼女がちいさく震えている。
 煙草を揉み消して小刻みに揺れる肩を抱きしめる。不自然な沈黙は、土砂降りの雨が埋めてくれた。


「一緒に風呂、入る?」
「……どういう意味、ですか」
「……その。……多分」

 肩口に擦り寄せられる鼻先がくすぐったい。細い首筋に顔をうずめれば、甘い香りが鼻を撫でる。

「……さっき君が言ったのと同じ意味……かな?」
「同じって?」
「…………好き………とか?」

 "とか" は余計です。そう言って くつくつと笑う君を、思いきり抱きしめる。


「入ります」
「…………」
「笹塚さんとお風呂、入ります」
「ただ入るだけじゃ済まない…かも」
「かも?」
「……いや、………絶対 かな」

 すこしだけ身体をはなして、至近距離で見つめ合って、微笑んで。当たり前のように唇を重ねる。そっと、壊れ物にふれるように、一度。顎を持ち上げて、もう一度。

 外で降り続くやさしい雨音を、俺たちはこの先も、ずっとずっと忘れない気がした。



土砂降りのの下にて

一生分の愛をここに誓います。
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