ずぶ濡れの効用
つねに無表情でくたびれた雰囲気を漂わせるこの男を、意識したのはいつだったのだろう。はじまりなんていくら考えてももう分からない。
分かるのは、笹塚さんを見ればいつも胸の奥のほうがひゅうと音を立て、吸い込んだ空気がぜんぶもれてしまうように息苦しくて堪らないこと。苦しいのに見たくて、会えない時も彼の姿が頭から離れないこと。
その意味に気付けないほど私は鈍感ではなく、気付いたときにはもう恋だった。
「大丈夫…?」
「え…?」
「俺……走んの、早過ぎない?」
「平気です」
「もう、少しだから」
低すぎる小さな声も、顎にのこる疎らな無精髭も、すこしだけ寝癖のついた髪も、始終纏わり付く煙草の臭いも全部ぜんぶ好きで。いつのまにか追いかけていた。
きっと大学生の私は彼には子供に見えるんだろうけれど、歳の差なんて意識しなくていい同級生よりも、やっぱりどうしてもこの人なのだ。
走りながら、どうしようどうしようと心のなかで繰り返す。
雨の向こう、彼を見付けたら嬉しくて。走り寄った勢いで手の平を委ねたのが、まるで嘘みたいで。いま向かっているのが彼の自宅だなんて、もっと嘘みたいだと思った。
――どうしよう…。
笹塚さんと手を繋いでいる。それだけで、さっきまでうっとうしかった雨が、幸せの象徴のように思えるのだから、人間の感情とはなんと移ろいやすくてあやふやなものなんだろう。
「…ここ」
本当にコンビニから1分以内で とあるマンションの前に到着。雨のかからないエントランスに入ったと同時に歩みを緩めて、笹塚さんはいつもの落ち着いたテンションを取り戻したように見えた。
走っていた時は走ることに精一杯だったのに、雨音が遮断され、コツコツとコンクリートの床に響くふたりのゆっくりした足音しか聞こえなくなった途端、沈黙が不自然でむず痒い。
「走る笹塚さん、初めて見ました」
「……だな」
「今日はたまたま午後の講義が休講になったんですよ。だから、こんな時間に帰れたんですけど」
「へぇー…」
実は、早く帰れたから笹塚さんに会えたらいいな、とか邪なことを考えてはいたけど、本当に会えるとは思ってもみなかったし。たった1分では心の準備も全然できない。笹塚さんはなぜ誘ってくれたんだろう。
「駅出た時はまだ雨降ってなかったのに、歩いてたら突然降りだして。結局こんな有様です。日頃の行いが悪いのかなあ」
「そんなこと、ないんじゃない?」
「でも非番の笹塚さんに偶然会えたのは、逆にラッキーだったのかもしれませんね。私服姿なんてめったに見れませんから」
エントランスでも、エレベーターに乗ってからも、手を繋いだままの恥ずかしさを誤魔化すように、私はいつもの何倍もよく喋った。黙っているとつながった部分にばかり意識がいって、呼吸すら上手くできなくなりそうだったから。
「俺の私服姿なんて、面白い?」
「スーツしか見たことなかったから貴重っていうか…ほら、期間限定発売のレア物商品の残り一個に偶然出会えたみたいな、そんな感じです」
自分でも訳の分からないことを喋っていると思う。でも、確かに私服姿の笹塚さんは本当に格好よかった。いつもは無精髭にしか見えない顎の髭も、ラフな服装になればファッションの一貫に見えてしまうマジック。
「よく 分からないけど、褒めてくれてるの……かな?」
「褒めてます、褒めてます!全力で褒めちぎってますよ」
「ん……。サンキュ」
小さく笑う笹塚さんと目が合って、眦の薄いシワに視線が吸い寄せられる。服装よりももっとレアなその表情に、本気で心臓が潰れそうになった。
「……どうぞ」
空いた手で器用に鍵を開ける笹塚さんの指先を、無意識で追いかける。
すんなりと伸びた形良い指をこんなに近くで見るのは、たぶん初めてで。笹塚さんのもう片方の手はまだ私の掌に繋がれたままなんだ、と思ったら、苦しかった胸がさらに搾られる。
「お邪魔しまーす」
「…その、気ィ遣わなくていいから」
「はい」
わざと能天気を装ったつもりが、怯えるように声がふるえる。ふわり、室内から漂う煙草の香りで、本当に笹塚さんの家に来たんだと実感した。
「くしゅ」
リビングに案内された途端色気のないくしゃみがもれて、泣きたくなる。ずっと繋いでいた掌がはなれたら、すこしだけ寒くなった。笹塚さんの手、温かかったんだ。
タオルでわしゃわしゃと拭われる髪に、布越しの指の感触がやさしい。再びもれた大きなくしゃみの後に、笹塚さんの低い声が耳元で聞こえた。
「…風呂、入るか?」
「それ、は……さすがに」
掠れたやさしい響き。なのに無造作に吐かれた台詞は、女を意識した男の言葉に聞こえなくて、ちくちくと胸に刺さる。
やっぱり、ひとりの女として見ては貰えないということだろうか?身体は確かに冷えていたけれど、体よく子供扱いされてしまったダメージのほうがもっとキツイ。
「悪い。あったまるにはそれが一番だと思って、つい」
「………」
「デリカシーなかったな」
声を出したら泣き声になりそうで無言で左右に首を振る。差し出された着替えを受け取って、逃げるように洗面所へ向かった。
◆
彼女の着替えの間に手早く濡れた髪を拭い、くわえ煙草でコーヒーを入れる。部屋にこうばしい香りが漂いはじめたころ、彼女が怖ず怖ずとリビングのドアを開いた。
とりあえず、と見繕った俺のシャツはやはり彼女にはずいぶん大きいらしい。見慣れたシャツが、見慣れない情景を作りだす。
長すぎる袖に隠れた手、ぶかぶかのシルエット。微妙な裾丈の下、いつもよりほんの少し露出面積をふやした肌が眩しくて、なのに視線が吸い寄せられる。
ちらりと投げてすぐに外した視線に彼女は気付いたのか、恥ずかしそうに目を伏せた。男ってのは単純な生き物だ、たったそれだけで煽られる。
「コーヒー、飲める?」
「はい」
「……ん」
カップを手渡しながら、ポーカーフェイスを保つのに思わぬ努力を強いられていることにも、彼女は気付くだろうか。
自分の部屋に安易に招いたのは失敗だったかもしれない。うっかり気を抜くと膝から上の白い肌で止まりそうな視線を無理に反らして。やけに早まる鼓動をごまかすように、深くふかく煙を吸い込んだ。
「くしゅ」
「寒い?暖房、つけるか」
「…っくしゅ」
「それとも、」
隣から立て続けに聞こえる破裂音。この様子だと彼女は、相当身体が冷え切っているらしい。
「やっぱり、風呂……」
「笹塚さんも、」
「ん?」
まっすぐな瞳が微かに潤み、きゅっと噛み締められた唇がちいさくふるえている。いつもとは様子の違う彼女から、目をはなせず「どうした?」と先を促したら、
「笹塚さんが一緒なら入ります」
「ぶっ…!」
予想外の彼女の言葉に、飲みかけのコーヒーを噴き出しそうになった。
ずぶ濡れの効用俺、君の前ではただの男なんだけど。それって自惚れても イイの……かな?