いうなれば溺愛

 ぱたり、ドアが閉じて藍猫の気配が遠ざかる。取り残されて心許ないのは、二人きりになったからというよりも、着なれないこの衣服のせいだ。

「………ようやく行った」

 劉は眼を閉じたままいつものやわらかい声でぽつりと呟く。彼が何を考えているのかは分からない。突然呼び出された、と思えば、大きな箱を抱えた藍猫に手首を引かれ、あれよあれよという間に渡された服に着替えさせられていた。
 いま私の身体を包んでいるのは、丈の短いチャイナドレス。いつもは下ろしている髪も、先ほど藍猫の器用な指で半分だけ結い上げられ、夜闇をバックに室内を映す窓ガラスにはいつもとは異質の自分がいる。

「やっと二人きりになれたようだね」

 普段はソファに身を委ねたまま滅多に身体を起こさない劉。その彼が音もなく立ち上がり、ゆっくりとした足取りで一歩こちらへ踏み出した。糸目の向こうの瞳がどんな色をしているのかといくら瞼を注視したところで、まったく見えない。色素の薄い皮膚、細い切れめの端、長い睫毛が綺麗に並んでいるだけ。

「どうしたんだい?」
「………」

 劉は私のほうへ顔を向けたまま、一歩また一歩、ジリジリと近づいてくる。室内履きの殺されたかすかな音が、やけに大きく聞こえる。
 すとん、すとん。どくん、どくん。すん。とくとくとく……
 足音が刻まれるたび、少しずつ動悸が早まっているように思えた。

「我が怖いのかい?」

 左右に首を振って応えれば、胡散臭い微笑みを貼付けたまま、更に劉が距離を詰める。怖くはない。でも、急にここへ呼び出された理由も、着替えを強要された理由も分からないままだ。

「ほら、ここに座ってごらん?」

 あっという間に至近距離へ近付いた劉に手首を引かれ、並んでソファーに沈む。座るとすぐに、肩を優しく引き寄せられて。ぽんぽん、彼は自分の膝を何度か叩いた。つまり、膝の上に座るよう要求する仕草。

「え…?」
「おいで」

 いつも藍猫の特等席のそこは、空席。
 私だってこれまで、そこに座りたいと望まなかったわけではない。でもこうも当たり前のように促されると、なかなか素直には行動できなくなる。第一理由がまだわからない。

「なぜ?」
「なぜ、だろうね」

 肩を抱かれたまま、劉の顔を見上げる。何を考えているのか分からない糸目が私をそっと見下ろして、僅かに眦を下げた。読めない男だ。

「用事があって私を呼ばれたのではないのですか?」
「そう。だからそのドレスを着て貰ったんだよ」

 表情から真意を汲み取ろうにも、彼は隠しごとが上手過ぎる。下手に思考を巡らせるよりは、直入に聞いた方が早い、というのがしばらく劉の傍に仕えているうちに身についた自然な思考だった。

「何のために?」
「我の膝の上は、チャイナドレスの美女限定だからね」

 ますます分からなくなる。意図的に煙に巻こうとしているのか、それともその言葉で意味を汲み取れる女だと過大解釈されているのかは分からない。でも私がここまでで理解できたのは、劉の膝に乗るためにチャイナドレスを身につけさせられたらしい、ということだけ。肝心の劉の膝に乗る理由は理解の外だ。

「どうして」
「我がそうしたかったから」

 私を膝に乗せたかった?劉が、なぜ。まだ納得のいかないまま、態度だけで必死に抵抗を示して見せたけれど、身体はあっさり抱えられて。やわらかい衣擦れの音とともに、一瞬後には劉の膝の上に乗っていた。

「いい子だね…そんなに緊張しなくてもいいよ?」

 背中を預ける姿勢は、予想以上に密着感がたかい。劉は後ろから腰に腕を回すと、私の肩に頭を軽く乗せる。感じるシャープな顎の感触。耳元で囁かれれば吐息が肌を撫でる。

「なぜ…」
「まだ気付いていないのかい?」
「なにを、ですか?」
「やれやれ…」

 はあ、と大袈裟に吐かれた劉のため息が、首筋のおくれ毛をゆらす。背中に感じるのは、いつもは服で隠されたしなやかな筋肉の質感。ドキドキしている。

「仕事が忙しすぎるのかもしれないねぇ」
「いえ、そんなことは…」
「いいや。明日から、少し減らそうか」

 そんなことをすれば、いつもここで藍猫を膝に乗せてサボっている劉の仕事をだれがいったい捌くというのですか。振り返ってそう、抗議しようとすれば、開きかけた唇を指一本でそっとふさがれた。

「しぃー……今日は大事な日、なんだよ」

 我にとっても姫にとっても、ね。そう言葉を続けながら、劉は薄く両目を開くと、優雅にパチン、ウインクをする。一瞬だけ劉の双眸に映ったじぶんの姿を見たら、胸がざわついた。

「………っ?」
「…誕生日おめでとう」

 誕 生 日 ? 今日は、ああ…そうだ。確かに私の誕生日。彼がそれを知っていてくれたことに目を見開けば、もう一度劉の目蓋がもちあがり、やわらかく私を捉える。糸目の奥の光に、吸い込まれそうだ。

「よく、ご存知…で」
「自分の可愛い社員たちの身上書には、ちゃんと目を通してあるんだよ」

 腰に回された腕に、ほんの少し力がこもる。劉の瞳を見つめていられなくて、そっと顔を前に戻せば、それを待っていたかのようにぬるい吐息が耳たぶを撫でた。

「…なんてね。誕生日まで覚えているのは、姫のだけなんだけどねぇ」
「そ…ですか」
「プレゼントは我…とか、どう?」

 囁きながら頬のりんかくへ、耳たぶへ、髪の生え際へ、うなじへと、次々にふってくるキス。まるで無言で返答を促すように、肌を這うくちびる。
 どうなの?ん。返事は?まだなのかい。それとも、もっと欲しいものがある?ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……口付けが降り積もる。

「返事は?」
「……っ、っ!」

 なのに、声が出なかった。ひとことも、声を発することが出来なかった。
 くちびるの軌跡にそって肌は泡立ち、背筋がぶるりと震える。身体をこわばらせれば、膝の上で劉はくるりと簡単に私の向きを変えて、端正な顔が目の前。
 
「まさか…言えない訳ないよねぇ?」
「………」

 言え、ない。……言いたいけど、言えない。こんな近くで瞳を覗きこまれては、恥ずかしすぎて言えそうにない。

「んん?ダメだなぁ、ちゃんと我に言ってごらん」

 形の良い指で髪の束をひと房、掬っては口付ける。目の前で自分の髪にキスをするところを見せられるのが、こんなにどきどきするものだと初めて知った。やさしく髪を梳きながら、劉の声が再び耳元で甘く響く。

「‘欲しいです’って…」

 とても言えそうにない台詞が、耳に滑り込む。その声はじゅわり、蜜のように溶けて、鼓膜の奥からじわじわと身体の中に入りこむ。血液に乗って駆け巡った蜜の声は、すこしずつ私をほどいてゆく。

「早く言わないと、やめてしまうよ?」

 劉はくつくつと笑って、すこし震えている私をギュッと抱きしめる。覗き込むように顔を近付けると、額がコツンと触れた。
 互いの鼻先がほんのかすかに掠める、くちびるが触れそうで触れないギリギリの距離。わずか数センチ。それを意識するだけで、もう、喉がぎゅうぎゅう詰まって声出なくなる。
 瞳を合わせることも出来ず、目を伏せる。
 怖い訳ではない、たぶん私は劉のことが好きすぎるのだ。それを自覚すると、緊張しないわけには行かない。緊張しているのに、耳へ直接注がれる声のせいで力はすっかり抜けて。

「ほら。早く」

 腰に、肩に感じる彼の感触と、耳元の囁きで、もう無理。耳たぶへ、うなじへと、キスをされたら余計声がでなくなる。声帯が狭まって酸素を上手く通せない。返答を促す斜めからの視線にすらやられる。

 …言え、ません。あなたがそんな目でみるから。そんな優しい指で髪を梳くから。‘欲しいです’なんて……絶対言えない。

「遊びのつもりはないんだけどなァ」

 我は本気だよ?そう言って、彼がくつくつと笑えば咽喉仏が波打つ。その動きを間近で見るのがとても好き。少し震える指で、首筋にそっと触れる。指先で捉えた皮膚の下では、とくんとくん、劉の脈動を感じた。
 劉が私に対して普通の上司と部下以上の感情を持っていることは知っている。いつも周囲に侍らせている女性たちや、藍猫に対するのとはちがう感情。
 そして私も、彼と同じように。そう。彼のことが好きだ、好きで好きで仕方がない。

「…ね、早く言ってごらん?」

 くちびるは、触れそうで触れない距離。ぐいと腰を引き寄せられ、ふたりの隙間がなくなる。ぴったりとくっついたお腹、押し付けられた胸。
 ダイレクトに感じる互いの鼓動は、ただそれだけで嘘のない二人の気持ちの証明のようだ、と思った。言葉なんて、本当に必要なんだろうか。だって私はいまこんなにもどきどきしている。劉の胸も、いつになく鼓動を速めている。
 すうっと持ち上げられた顎。劉に無理やり視線を合わせられれば、すこしだけ余裕をなくした彼の表情に身体の奥がじんじんする。キスがしたい。間近に迫る薄いくちびるを、じぶんのそれで塞ぎたい。でも、唇はまだ触れない。

「そうじゃないと、キスできない…」

 彼のぬるい吐息が、くちびるを撫でた瞬間――

 頭の中がぼうっとして、もうすこしも我慢できなくて。咄嗟に彼の首筋へ縋りつき劉の顔を引き寄せると、私は無言のまま自ら彼のくちびるをふさいだ。



いうなれば溺

姫も大胆なところがあるんだねぇ、見直したよ(でも、先手を打たれたお返しはちゃんとしないとね。我のやり方で、さ)。
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