レアケース

「願掛けってしたことあります?」

何の脈絡もなく彼女が問い掛けたのは深夜のベッドの上だった。
俺の腕に小さな頭を預けたまま二人で天井を見上げて、着地点の見えない会話が始まる。

「いや、ないな…」
「やっぱり」
「……」
「そんなものに頼らなくても笹塚さんは大丈夫なのかな。私は結構やっちゃうんですよね」

気が付いたらいつも、と言いながら隣で彼女の微笑む気配に笹塚もそっと口元を緩める。
このトンネルを抜けるまで息を止めていられたら自分の恋はうまくいく、とか。右足から歩き始めたらきっと今日はいいことが起きる、とか。あの角を曲がって最初にすれ違うのが男の人だったら明日のテストのヤマ勘が当たる、とか。そういう風に世界と向き合える人間は幸せなのだと思う。自分自身の進む軌道を自分で作って行ける感覚というのだろうか。

「へえー…」
「子供のざれ言ですよね」
「そんなこと…ないんじゃない」

ふふ、と笑いながら擦りつけられる頭をギュッと引き寄せたら甘い香りがした。

「私ね、階段教室って好きなんです」
「……へえ」
「一番後ろの、その部屋で一番高いところ。窓際の席で教室内を見渡してると、何となくその瞬間だけは自分がこの世界を掌握してる気分になれるから」
「まあ……な」
「小市民の典型っぽいですけど」

ほら、やっぱり。自分の見たいものを自分の見たい位置から眺めて、それでしっかり自分の方向を決められる。しなやかな強さ。

「神…か」
「そう。目に映るちっぽけな世界限定の神様、みたいな」

次々に溢れ出す彼女の言葉に聞き惚れる。夜の闇をやわらかく撫でて滑り落ちる可愛い声。この世の汚いものなんてまだ何も知らない澄んだ響き。
彼女は、ずっとそのままでいてくれればいい、と思った。

「だからね。毎回あの部屋での講義の前には願掛けするんです」
「………」
「窓際の一番後ろの席が空いてたら私は今日も一日頑張れる何かいいことが起きるはず、って」
「……そ」

例えばたまたま彼女の思うようにならなかったとして、望んだ席が空いていなかったら、ちょっと待った今のナシ。多分今日はあっちの席に座る方がラッキーだから。そうやって幾度でも軌道修正できる。彼女はそんな娘だ。

「今日はちょうどその席の隣に男の子が座ってたの、見たことない子」

眼鏡かけててインテリクールな感じが結構格好よくて、たぶん彼モテるタイプだろうなあ。と無邪気に言葉を続ける彼女は可愛いのにちょっと憎らしい。だからわざと少し距離を取ると笹塚は煙草に手を伸ばす。

「私が近づいたらわざわざ荷物どかして席を譲ってくれたんだけど」
「………」

そんな話くらいで動揺しているつもりはないのに、ライターを持つ指がかすかに震える。

「あれかな、私余程怖い目付きでその席睨んでたのかな」
「…………」

火の先端を見つめながら、ゆっくりと煙を吐き出す。無言のまま。

家族を一度に皆失い、自分の居場所を見失って浅いまどろみをさ迷っていたあの頃から、心を別のなにかで泡立たせる日が来るなんて思ってもみなかったのに。

「その子ね、わざわざ私のために荷物置いて席を取っといてくれたらしいの。クールに見えるのに優しい男って、」

なのに今は彼女の話すその男のことが気になって仕方ない。正確に言えばその男に対する彼女の気持ちが。
気になることがある内はまだ幸せだ、って言ったのは誰だったろう。笛吹か、筑紫か。眉間にシワを寄せたまま、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。深呼吸のかわりに。

「聞いてます、笹塚さん?」
「ああ……」
「そんな風にギャップを擽られると女は弱いんですよ」
「………」
「それでね、いつものように一番高いところから小さな世界をぼーっと眺めてたら、彼が…」

半分くらい鼓膜を素通りしていったけれど彼女の話を要約すればその眼鏡野郎と一緒に昼飯を食って、しかも奢ってもらって、ついでにこういう出会いも悪くないよねとかなんとかクサい台詞を吐かれた上に次の講義でも席を取って貰う約束をしたらしい。そんな話を楽しそうな顔でされたら俺はどんな反応をすればいいんだ。

「……へえー」
「それでね、」

二本目の煙草をもみ消しながら頭の中では知らない男のことを考えている。俺よりずっと若くて彼女の隣に並ぶのが自然で、多分俺より長い時間彼女に寄り添える男。俺みたいに彼女に寂しい想いなんてさせない男。

気になることがある内は幸せって、果たしてこれが幸せだろうか?分からない。考えても無駄だ。なのに、無駄だとわかっていても止められないことがこの世には多過ぎる。

「笹塚さん?」
「……ん、」

このまま卑屈な思考を続けても、例外なく悲惨な結果を招くだけだというのに。

「なんかご機嫌斜めですか」
「……別に」
「嘘」
「……」
「だってほらここ、」

男の人って機嫌悪くなるとよく眉間にシワ寄るんですよね、そういえばその彼も今日……笑顔のまま何気なく言葉を続けながら眉間に伸びてきた指先を触れる寸前で捕まえる。
強引に引き寄せて、抱きしめる。彼女の細い身体が軋むほど強く、つよく。

なんで俺こんなことしてんだろって省みる前にポーカーフェイスなんてとっくに崩れている。泡立つ感情を必死で抑えようとするのに身体は勝手に先走る。


「もう…止めろ!」
「……っ」

いつになく荒ぶる声に驚いて揺れる肩をシーツにぐい、と押しつける。低い声で名前を呼んで、乱暴なまま半開きのくちびるを塞ぐ。

聞きたくない、聞きたくなんてないんだ君の口からそんなこと。本当は君が彼をなんとも思ってないことも知ってる、だから俺に話したんだってことも。今の自分がものすごく大人げなくて格好悪いことも。
いつものテンションの低さは一体どこに消えたんだ。だけど。だけど――彼女のことになると途端に平常心を失う。辻褄の合わなさに自分で呆れる。
呆れるよ、まじで。なんなんだよこのガキ臭ェ行為は。

ため息をこぼす俺の髪を細い指が幾度も幾度も梳いている。宥めるように、慈しむように。それはもう、ひどくやさしいやり方で。


「笹塚…さん」

名前を呼ぶすこし掠れた声。彼女からはさっき重なったばかりの俺の匂いがする。上目遣いに見あげる双眸が夜の静けさを含んだようにしっとりと濡れている。
そんな目を見せられたら、ずいぶん年下の彼女なのにまるで年上の女性に「馬鹿なヒト」ってやわらかく諭されたような気がした。

もう一度彼女の名前を呼んで細い肩をぎゅうっと抱きしめる。温かい。そう思った。
素肌に伝わる感触が優しくて温かくて、抱きしめているのは俺の方なのに、彼女に抱きしめられ包み込まれていると錯覚しそうになる。
それで、なにもかも許されたような気がしたんだ。


レアケース
悪い……でも、他の男の話もうやめて
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2011.01.06
不器用な大人と天然年下女。彼女は「笹塚さんに妬いて貰えるなんてやっぱり今日はいい日」とか呑気に思ってればいい
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